五限目が始まる前にポケットへ手を入れて、深部体温がさがるような心地がした。ケースがない。代わりに、シャープペンシルのほかに触れたのは折り畳まれた紙だった。
キングを失くした——。あんたの分身、キングが死んだらゲームはお終い、精々大切にしなさいと、姉の声が蘇る。俺の分身が、ゲームの主役が、いなくなった。なんて不吉な。
指先で触れたままの紙切れに肌が粟立つ。俺はこんなものは入れていない。ではなにが起こったか。
「大丈夫?」と隣から声がしてはっとする。「うん。ごめん」と答え、ポケットからシャープペンシルを取り出す。
ホームルームの挨拶が済むと、みんな一斉に席を立つ。「敬人」と紙原に呼ばれ、「ごめん、やっぱ今日パスで」と答える。怪訝な顔をする彼に「ちょっと先生と話したい」というと、「そうか」と短く頷かれた。
「やあ紙原」と声がして見れば、舞島が廊下から顔を出していた。「敬人どうしたの?」という彼に「ちょっと思い出したことがあって」と俺が答える。「寂しいね」と舞島は眉をさげる。
紙原が稲臣と松前を連れて舞島と合流したのを見送って、俺はポケットの中から紙を取り出した。『話したい』と書いたのが『鴇田』であるのは、名前を見ずともわかった。この筆跡は見慣れている。
気がつけば、教室に俺のほか、鴇田一人だけが残っていた。
「ケース、返してほしいんだけど」と俺は席から鴇田の背中へ呼びかけた。あちらもまた自席に座ったままだ。
「なんでわかったの?」と振り返りもせず声だけがいう。
「普通に誘ってくれればいいのに。わざわざあんなことを人に頼むなんて」
「あの人、保育園の頃からずっと一緒なんだ」
「用件はなに」
鴇田はゆっくりと立ちあがる。鼓動が速くなるのを感じながら、ケースを取り返すことだけに意識を集中させる。なにをされても構わない。ケースを無事に取り返すことができるのなら代価は払おう。
ポケットの中で手が震えている。いや大丈夫だと暗示をかける。もう、慣れたはずだ。心臓が痛みを伴いながら早鐘を打つ。大丈夫、大丈夫といい聞かせる。びびるな、びびるな。怖くない。
鴇田は俺の席の前にくると、「はい」と素直にケースを俺の机の上に置いた。「王様」と独り言のような声が呟く。
「話ってなに」
「尊藤君が嫌いって話」
尊藤くんという呼び方に肌が粟立つ。薄気味悪い。
「……知ってる」
なにを今更、とあふれてきた乾いた笑いはどこか嘲りのような色を含んでいて、鴇田を挑発するようだった。相手がかかってきて痛い目を見るのは自分だというのに、心底に棲む感情というのは恐ろしい。
「改めていいたくなった?」私物へのいたずらだけでは満足せず、本人への攻撃だけでは飽き足らず、改めてしっかりと私はあなたが嫌いですといいたくなったか。
「愛と憎しみってね、……大好きと大嫌いってね、同じときに同じ場所に在れるものなんだよ」と静かな声がいう。「知ってた?」と。
「さあ」
「今の私がそう。尊藤君が大好きで大嫌いでどうにかなりそう」
「……それでキングを獲ったの?」
「わからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
もういいよ、と鴇田はいう。俺はケースをポケットにしまった。
キングを失くした——。あんたの分身、キングが死んだらゲームはお終い、精々大切にしなさいと、姉の声が蘇る。俺の分身が、ゲームの主役が、いなくなった。なんて不吉な。
指先で触れたままの紙切れに肌が粟立つ。俺はこんなものは入れていない。ではなにが起こったか。
「大丈夫?」と隣から声がしてはっとする。「うん。ごめん」と答え、ポケットからシャープペンシルを取り出す。
ホームルームの挨拶が済むと、みんな一斉に席を立つ。「敬人」と紙原に呼ばれ、「ごめん、やっぱ今日パスで」と答える。怪訝な顔をする彼に「ちょっと先生と話したい」というと、「そうか」と短く頷かれた。
「やあ紙原」と声がして見れば、舞島が廊下から顔を出していた。「敬人どうしたの?」という彼に「ちょっと思い出したことがあって」と俺が答える。「寂しいね」と舞島は眉をさげる。
紙原が稲臣と松前を連れて舞島と合流したのを見送って、俺はポケットの中から紙を取り出した。『話したい』と書いたのが『鴇田』であるのは、名前を見ずともわかった。この筆跡は見慣れている。
気がつけば、教室に俺のほか、鴇田一人だけが残っていた。
「ケース、返してほしいんだけど」と俺は席から鴇田の背中へ呼びかけた。あちらもまた自席に座ったままだ。
「なんでわかったの?」と振り返りもせず声だけがいう。
「普通に誘ってくれればいいのに。わざわざあんなことを人に頼むなんて」
「あの人、保育園の頃からずっと一緒なんだ」
「用件はなに」
鴇田はゆっくりと立ちあがる。鼓動が速くなるのを感じながら、ケースを取り返すことだけに意識を集中させる。なにをされても構わない。ケースを無事に取り返すことができるのなら代価は払おう。
ポケットの中で手が震えている。いや大丈夫だと暗示をかける。もう、慣れたはずだ。心臓が痛みを伴いながら早鐘を打つ。大丈夫、大丈夫といい聞かせる。びびるな、びびるな。怖くない。
鴇田は俺の席の前にくると、「はい」と素直にケースを俺の机の上に置いた。「王様」と独り言のような声が呟く。
「話ってなに」
「尊藤君が嫌いって話」
尊藤くんという呼び方に肌が粟立つ。薄気味悪い。
「……知ってる」
なにを今更、とあふれてきた乾いた笑いはどこか嘲りのような色を含んでいて、鴇田を挑発するようだった。相手がかかってきて痛い目を見るのは自分だというのに、心底に棲む感情というのは恐ろしい。
「改めていいたくなった?」私物へのいたずらだけでは満足せず、本人への攻撃だけでは飽き足らず、改めてしっかりと私はあなたが嫌いですといいたくなったか。
「愛と憎しみってね、……大好きと大嫌いってね、同じときに同じ場所に在れるものなんだよ」と静かな声がいう。「知ってた?」と。
「さあ」
「今の私がそう。尊藤君が大好きで大嫌いでどうにかなりそう」
「……それでキングを獲ったの?」
「わからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
もういいよ、と鴇田はいう。俺はケースをポケットにしまった。