雪弥はアンテナ上部を取ると、携帯電話本体をポケットにしまった。「こうなるんだったら色々と装備しとけばよかったな」とぼやきながら、ヒューズのような形をした磁石タイプの小型筒を二つに分離し、それを左耳にマグネットピアスのように装着する。

 小型カメラが搭載された機器は、人間の体温と微弱電流を感知すると、衛星との通信を始め、すぐ特殊機関本部へ映像が転送されるようになっていた。しかし、それは非常用の予備として取りつけられているものであり、同時に通信出来るような機能はついていなかった。小型マイクや、収納式電磁機器も部屋に置きっぱなしである。

 俯いたまま身体を揺れていた里久が、ぴたりと動きを止めたかと思うと、不意に、全く前触れもなく電柱へ拳を叩きつけた。

 強靭な力を叩きこまれた電柱が、くぐもる音をたてて拳の形に凹んだ。細かった里久の右腕が、唐突に発達した筋肉に覆われて、筋肉組織が弾けるように腕から肩へかけて膨れ上がる。

 それは見つめる雪弥の目の前で、彼の身体の右半分だけみるみる異様に大きさを増していった。

「これはまた、すさまじいな…………」

 雪弥は静かに呟き、すっと息を吸い込んだ。意識状態を確認するため、少し大きな声で「里久さん」と声を掛けてみたが、やはり反応はなかった。

 里久の服の袖が破れて、とうとう左半分の身体も膨れ上がってしまった。筋肉だけではなく、骨格までも急激に成長し、彼の細かった首が幅の厚い肩に押し潰されて見えなくなる。

 優しげだった顔は見る影もなくし、怒りと憎悪しか覚えない恐ろしい形相へと変わるった。里久だったはずの人間の面影を完全になくしたそれは、二メートルの化け物が背中を丸めるように佇んでいるようにしか見えなかった。

「……里久さん、聞こえますか」

 雪弥は、もう一度だけ声を掛けた。

 すると、黒ずんだ皮膚をした里久が、ゆっくりと顔を上げた。厚い筋肉に覆われた小さな瞳は黒く覆われ、瞳孔が広がって完全に白目が消失していた。大きな鼻穴から荒々しい呼吸が繰り返され、短くなったような感じる頭髪の横からは、伸び上がった耳が小さく覗く。

「リ……ク…………」

 野太い雑音まじりの声が、自身の名を不思議そうに口にした。そして、ふっと頭上を見たかと思うと、どこかへ移動するといわんばかりに、コンクリートの地面を叩き割って高く飛び上がった。

 雪弥は「げっ」と不意打ちを食らったように呻き、彼の動きを阻止すべく、自身も一蹴りで高く飛び上がった。

「悪いけどッ、人のいるところには行かせられないよ!」

 こちらの言葉が通じる通じないは関係なしに叫び、雪弥はパチンコ店の屋上を飛び越えようとしていた里久の太い足を掴むと、一気にその屋上へと引きずり降ろした。

 被っていた帽子が風圧で飛ぶことも構わず、その二メートルの黒ずんだ巨体を屋上へと叩きつける。

「ナンバー4、殺してはいけません!」

 その時、隣のカラオケ店屋上に、狐面の暗殺部隊員が降り立って鋭い声を上げた。雪弥は暴れる里久を屋上へとねじ伏せながら「じゃあどうしろっていうのさ!」と、怒るように叫び返した。