「……ま、いいセンスしてると思うけどな」
「俺もそう思う!」

 視線をそらせて暁也が言い、修一がすかさず同意の声を上げた。それに対する雪弥は、「大人が子供に勝っても嬉しくないんだけどな」とぎこちない表情である。

「お前、このあと暇? カラオケ行こうぜ」

 修一は嘘偽りもない真顔で、見事に受験放棄を宣言した。「あ、それいいな」と暁也が便乗したとき、教壇に立っていた矢部が「お前らは居残りだぞ」とぼそぼそと告げ、教室が笑いに包まれてその会話は終了となった。


 帰りの会とやらが始まる中、雪弥は「カラオケ」という単語を頭の中で繰り返していた。彼は今まで、一度もカラオケ店に入ったことがない。

 母である紗奈恵がまだ元気だった頃、映画館とボーリングに行ったことが数回ある程度だ。歌うことが好きだった紗奈恵は、「今度連れていってあげるからね」という言葉を最後に、入院生活を強いられた。


 そんな母との思い出が脳裏を過ぎり、雪弥はふっと表情をなくした。

 一つの波紋すらなくなった心持ちで、締められた窓の向こうへと視線を滑らせる。矢部のぼそぼそと呟く声が時々耳に入ったが、言葉として認識することは出来なかった。

 体育の授業では少し晴れ間を覗かせていた空は、再び灰色の薄い雲に覆われていた。雨を含んだ低い雲が重なり合うように流れ、厚みを増していくようだった。重々しい夜を引き連れた曇天を思い起こさせる風景は、雪弥の中から、母が亡くなったときの空を引き出した。

 そういえば、父さんはどうしてるかな。

 ふと、雪弥は蒼緋蔵家当主を思い起こした。彼が顔を上げて黒板へと視線を戻すと、矢部が生徒に「聞こえません」と注意されながら話しを進めていた。夏休みに入る前に、両親を招いた三者面談をもう一度行うという内容だった。

 父さん、お願いだから僕の仕事が終わるまで耐えて。

 そんな教室の様子に目を留めながら、雪弥は今置かれている環境とは全く関係のない、むしろ矢部が語る「高校三年生にとって重要」な事に一ミリも関心を向けないまま、完全なプライベート問題を思って、心の底からそう願った。

 長男、蒼慶は一度言い出したら聞かない性質である。しかし、今はまだ次期当主という立場だ。他の蒼緋蔵家親族が意見に賛同していても、さすがに現当主が首を振らなければ議論は持ち越しになるだろう。

 とはいえ、その後の蒼慶の行動を予測することは、当主でさえ不可能だ。蒼慶は時に、現当主の頭脳を遥かに越えた大胆な結論と行動に出ることがある。雪弥に出来ることは早々に仕事を終わらせ、十分な時間を取って家で起こっているらしい問題を解決することだ。

「君たちは受験生です……問題を起こすことのないよう……して、勉強したらすみやかに帰宅…………」

 話しの後半になって矢部の声は口ごもり、更に聞こえ難くなった。その様子を見つめていた雪弥は無性に喉の渇きを感じ、ある飲み物を連想して口をつぐむ。

 BARのカクテルが飲みたい。

 随分お預けになっている西大都市のBAR「ホワイトパール」を想い、雪弥はとうとう深い息をついた。