『雪弥、この前の話なのだが……』
「前にも言ったけど、僕は何も要らないよ。権利だってもともとないし、財産も何もかも亜希子(あきこ)さんたちのところで構わないから」

 携帯電話から続く言葉がもれかけた時、地面に崩れ落ちた男がくぐもった声を上げた。ただ一人残った男は、戦意を喪失したように激しく震え出す。

 肉厚のある彼の手から日本刀が滑り落ち、日本刀は鋭利な輝きを一つ上げて硬い地面に弾け上がった。

『仕事中か……?』

 腰を抜かした男が地面に崩れ落ちる中、電話の向こうから心配するような声が上がった。まるで化け物でも見るような瞳を向けて来るその男に、青年はゆっくりと歩み寄りながら「まぁね」と電話に答えて肩をすくめる。

「た、助けてくれっ」

 全身を震わせ、顔を汗と涙で濡らして男は狼狽した。そんな男の前で立ち止まった青年の携帯電話から、溜息をついたような重々しい息がもれる。

『私はお前の意見を尊重するつもりだが、少々こじれた話になっていてな。他の者が納得していないのだ』
「それは、僕が正妻の子ではないのに、父さんの名字をもらっているからでしょう?」

 青年は答えて苦笑した。恐怖する男の小さな丸い瞳を見つめ、そっと携帯電話を離す。

「少し眠ってもらうだけだから」

 青年はぎこちなく微笑みかけると、肉厚のある首に軽い打撃を与えて男の意識を奪った。場が静まり返ったことを確認し、面倒臭そうに溜息を一つついて携帯電話を持ち直した。

「父さん、僕はあなたからもらった名字は使っていないよ。もともと、そんな事にも興味はないし、次の当主や役員選に口出しするつもりはないからって、皆にはそう言ってくれないかな」
『……雪弥、それが難しい事になっているのだよ。これから私も用事がある、時間が空いたら電話をしなさい』

 そう言って電話が切られた。青年は再び溜息をついて、別の場所に電話を掛け直す。

「あ、僕だけど。うん、任務は完了したから、処理班を寄こして」

 青年はそれだけ言って電話を切った。

 彼は大きく背伸びを一つして、ふと、建物の間から覗く夜空を見上げた。月明かりに照らされるようにして、身体に吸いつくような黒い服を着た人間が一人、建物の屋上に立ってこちらを見下ろしている事に気付く。

 それは暗視カメラを搭載した、白い狐の面をかぶった特殊暗殺部隊であった。青年は見慣れた彼を見つめながら、静まり返った静寂にカメラがズームアップする音を耳にした。


「ナンバー4、任務完了を確認。すみやかに本部へ帰還していただきたい」


 仮面越しに抑揚ない声色がもれ、青年は苦笑して「やれやれ」と肩を落とした。

「はいはい、今すぐ戻るよ」

 青年は答えながら、月の周りに無数に存在する星へと視線を向けた。不意にその碧眼が不思議な色を帯び、瞳孔がすうっと小さくなる。

「……やだなぁ。買収した衛星から、ちゃっかり見てるんだもんなぁ」

 呟いた青年の瞳が、透明度の高いブルーの光りを帯びた。彼の視力は通常の人間の数倍以上はある。見ようと思えば、機器に頼らずとも近くの衛星の存在を確認するくらいまでは見る事が出来た。

 屋上に立っていた者は、暗視カメラ越しに浮かび上がる二つの光りを見つめ、耳にはめた無線マイクから次の指示を待った。