雪弥は、お菓子を口にして立ち上がった。新鮮な空気を吸いたくなってベランダに出ると、暖かい日差しが身体を照らした。

 見慣れない小さな茉莉海市は高い建物が少ない分、一番高さのあるこのマンションからの見晴らしは良かった。西側に、一番広い敷地を持った白く立派な建物の白鴎学園が見える。

 尾崎の偉業は、支援団体や寄付、投資に止まらず学園にも強くあった。お金がない子供に対して、彼は優遇制度という独自の方法を用いて、彼らに学びの場を提供していた。勉学を希望する者には誰でも同じようにチャンスがある、として彼自身が資金を提供して入学させている子供たちも多くいた。

「そんな子たちが覚せい剤とかやってたら、尾崎って人、すごく悲しむだろうなぁ……」

 学園のパンフレットや保護者向けの資料には、「未来がある子供たち」という言葉がいくつも出てくる。これまで聞かされた話や資料からすると、尾崎という男が、どれほど子供を大切にして教育にあたっているのかが分かる。

 とはいえ、スピードやシャブといった言葉で薬物の危険性を見落とし、大きな事件とは知らずに巻き込まれる学生が多いのも事実なのだ。

 最も多くの覚せい剤検挙者が出た、二〇〇五年の一万三五四九人のうち、未青年者は四三五人いた。中学生から無職まで幅はあるが、最も多いのが高校生と大学生である。

 今回の事件は、最終的に警視庁を中心に事件が収拾するのかも分からないので、出来るだけそんな生徒が出ないことを望んでしまう。もし、特殊機関側が最後を締めるとしたならば、一掃という言葉の中には「抹殺処分」も含まれるからだ。

 雪弥は部屋に戻ると、書類を拾い上げてページをめくった。

 「本田(ほんだ)」と書かれた自分の偽名字をちらりと頭に入れ、その下の欄へと視線を滑らせる。

 本来、潜入捜査はフルネームごと偽名になるのだが、「別に雪弥でも構わないでしょう」と彼が面倒臭がってから名字だけがそうなった。ニックネームを名として使用する者もおり、本当の名を記載していても返って「偽名だろう」と思われるので、特に争論にはならなかったのだ。

「……情報収集にいられる立場の確保、学園で覚せい剤を配っている者がいる可能性があるので、共犯者から情報を収集するため声を掛けられやすい生徒の設定……国立高校から転入し勉学に関して悩みを抱いている学生を演じる…………」

 しばらく、考えるような素振りで雪弥は黙り込んだ。

 意味もなく書類を前後に揺らし、自分が演じるべき学生像を思い浮かべる。学力を偽ることは平気だったが、平均的な運動神経という点があまり理解出来なかった。

「……まぁ、周りの子たちを見て、同じようなレベルに合わせればいいか」

 そう考えて、雪弥は指示が記載されたページを再確認した。

 学園で尾崎理事――高等部の校長である尾崎とは、面識があるような行動を見せてはならない。指示があるまで自身の携帯電話や機器は持ちこまないこと。支給してある携帯電話に登録してある『グレイ』という人間はナンバー1を指し示す。指示によって行動を起こす場合、開始の合図は『夜が降りる』。

 文面には、常に「指示を待て」が記されていた。

 雪弥は吐息とともに肩をすくめ、茉莉海市と学園の見取り図を広げた。学園の倉庫と同じように、茉莉海市の地図にも赤い印が入っている。そこはコンテナが置かれている港で、定期的に大型船が来るばかりの場所だった。綺麗に整備されたといっても、そこは茉莉海市ができる前とあまり変わってはいない。

 国外からの麻薬密輸。中国経由。

 地図には赤い字で、そう走り書きされていた。