矢部は、自分に向けられる銃口が震える様子をしばらく眺めていた。しかし、すぐ降参するように両手を上げると「味方だよ」と答えた。いつものぼそぼそ声はどこに行った、と二人が思うほど流暢な喋り方だった。
「初めからずっと見ていたんだけど、いや、お見事だよ」
まぁ座って、と促され、暁也は渋々といった様子で修一の隣に腰を降ろした。
矢部は暁也が素直に銃から手を離すのを見届けたあと、二人の近くに腰を降ろして鞄から黒い鉄の棒をいくつも取り出した。慣れた手つきでそれをあっという間に組み立て、自分の持っていた長い銃を設置する。
映画のような素早い動きと、組み上がった土台に置かれた銃を見て、修一が感心と感動に瞳を輝かせた。
「先生、すげえな!」
「え? ああ、そうかい?」
矢部は困惑しつつ笑みを浮かべた。「褒められるような事じゃないけどね」と続け、鞄からパンを取り出した。どれも、昼間売店で売られている菓子パンだった。
「ほら、食べなさい。腹が減ったろ?」
「おう!」
即答してアンパンに飛びつく修一に、暁也が「食い物につられるなよ」と怪訝そうに言った。すると、矢部は「さあ、どうぞ」と彼にメロンパンを差し出した。
暁也は空腹も限界に来ていたので、味方ではあるが素性の分からない矢部に「ありがとう」とぶっきらぼうに答えて、それを受け取った。すかさず袋を開けてかぶりつく。
少年たちの隙をついた矢部が、ふと二人の間に長い上体を割り込ませて、トランシーバーを手に取った。パンが口に詰まって「あ」とも言えない少年組の前で、矢部は慣れた手つきでそれを口元に近づける。
「初めまして、ナンバー4。異名スナイパーの元ナンバー二十一です。屋上の子供たちは私にお任せ下さい。今作戦に置いての規律を破ってしまいましたが、お咎めを受けるべきでしょうか?」
『いいや、そちらも元上司の命でも受けているのだろう? こちらとしても助かるよ。二人の子供たちを宜しく、元ナンバー二十一』
「滅相もございません」
話し終わると、矢部はトランシーバーを元の位置に戻した。
癖のあるぼさぼさの髪から覗いている堀の深い瞳は、鋭利で知的な男を思わせた。普段生気のない髪だと思っていたが、ふんわりと盛りあがった頭髪からはポマードの香りが漂っていた。
「なぁ、先生たちって一体何なの?」
修一は、唐突に思ったままにそう尋ねた。
矢部は少し困ったように首を傾け、視線を泳がせる。
「ごめんねぇ、細かいことは言えないんだな、これが。はっきり言えることは、私は、今は普通の数学教師で、君たちの担任ってことかな」
首の後ろへ手をやる矢部は、どこか面倒臭そうというような雰囲気があった。
暁也が眉を顰めて「今はってことは、前は違ってたってことだろ」と無愛想にパンを頬張る。矢部は「鋭いね」と笑ったが、特に困った様子もなくけらけらと声を上げただけだった。
先にパンを平らげた修一は、ノートパソコン画面へと目をやった。黄色い人影に、十近くの赤い人影がいっせいに飛びかかっているのを見て「雪弥ッ」と思わず本人に届かないのに声を上げてしまう。同じように画面を見た暁也も、緊急事態だと見て取り、もう少しでパンを詰まらせるところだった。
しかし、二人の心配をよそに、赤い色は一瞬にして粉砕されて動かなくなり、中央に残った黄色い人影だけがゆらゆらと光っていた。
「「……どうなってんだ?」」
顔を見合わせ、修一と暁也は声を揃えた。矢部が「仲がいいねぇ」と言うと、暁也が黙れと言わんばかりにぎろりと睨みつける。
特に反応も返さないまま、矢部は続きを見るようにと言わんばかりに、画面を指差した。黄色い人影が幽霊のように画面上を滑ったかと思うと、気付くと三階部分に立っていて、赤い人影の動きを次々に止め始めていた。
「彼はとても強いからね、あと数分もかからないだろう」
「先生は行かないの?」
「私は、君たちのお守りさ」
矢部は、呑気に答えてそのまま仰向けになった。豹変した矢部を信頼しきれない暁也は、顰め面を持ち上げるようにして担任教師を見やる。
「先生って、そっちが地か……?」
「まぁね」
「じゃあ、いつもそうやって喋ってくれよ。あんたの声、マジで聞き取りにくい」
修一は「そうだよ」と言い暁也の言葉に賛同した。彼は「俺は特に授業とか聞いてないけど、帰りの連絡とか、ちゃんとしてくれないと困るよ」と、受験生でありながら授業放棄している胸を、堂々と申告するような発言をした。
「まいったね、こりゃ」
矢部は可笑しそうに笑い、無造作に鞄へと手を伸ばして、外国製の煙草を一箱取り出した。横になったまま一本口にくわえ、ポケットからジッポライターを取り出して火をつける。
「教師が生徒の前で堂々と喫煙かよ」
暁也は忌々しげに吐き出した。「校内禁煙だろ」と指摘する暁也の隣で、修一は「へえ、煙草吸うんだ」とゆらぎ広がる煙も平気な様子だった。
「時間外まで、矢部啓人を演じる義務はないよ」
「それって、絶対そうしなきゃいけないの? 本当に先生の声聞きづらいし、変な歩き方とか猫背とか、意味あるのか?」
修一は、横になった矢部の顔を上から覗きこんで、不思議そうに尋ねた。
暁也がじっと横目に見つめる中、矢部は修一の向こうに広がる星空を眺めていた。彼の口にくわえられた煙草は、撫でるような風に揺らいで上空へと登っていく。
しばらく間を置いて、矢部が「……そうだねぇ」と口元に小さな笑みを浮かべた。
「一言で述べるのなら、そばにいたいから、かな」
修一の顔に疑問符が浮かぶのを見ると、矢部は困ったように視線をそらした。言葉を選ぶように、口にくわえた煙草をもごもごとさせる。
「ん~、なんというか、ここにいるためにはそうでなくてはならない、という感じかな。口下手で身体が悪くて自信がない、本来の自分とは全く別の人間を演じる必要があるんだ。――そして、足を負傷したのも私でなければいけないんだ」
「ちッ、さっきから分かんねぇ事ばっか言いやがって。そんな悠長に寝てっと、真っ先に殺(や)られんのが落ちだぜ」
暁也が愚痴ると、矢部は煙草をくわえたまま「やれやれ」というように笑んだ。一呼吸置いて、彼は断言するようにこう告げる。
「寝ていても殺せるよ」
ぴたりと風が止んだ。
その静けさに響いた台詞に、暁也と修一が目を合わせて口をつぐむ。
暁也は、きょとんとした修一から先に目をそらした。悠々とした様子で煙を吐き出す矢部を睨みつけ、「おいコラ」と喧嘩を売るように声を掛ける。
「俺ぁ、お前が嫌いだ」
「私は好きだよ」
ほぼ同時に言葉が上がった。暁也が仏頂面で鼻を鳴らす隣で、矢部を見つめていた修一が「俺、こっちの先生の方が好きだけどなぁ」とのんびりとした表情で言った。
矢部は夜空を見上げたまま、懐かしむように目を細めた。口からゆっくり煙草を取り、煙を吐き出しながら二人の生徒にこう言い聞かせた。
「どうか、勘違いしないで欲しい。私と彼らが持っている『人を殺める技術』は、国家と人民を守るためのものなんだよ」
その言葉のあと、遠くでくぐもるような銃声音が上がった。
まるで人の気配を感じなかった。旧市街地から大通りを抜けた先は、街灯の明かりさえ見えない。
途中、フロント部分を大破させている乗用車を通り過ぎた。そこには、月の青白い光に照らし出された人間の白い面がいくつか浮かび上がっており、それぞれ前車と後車でハンドルを握っていた澤部と阿利宮が「おわっ!?」と驚いた声を上げて、車体をぶれさせた。
一瞬にして通り過ぎてしまったので、よくは分からなかった。それが先程見た面を付けた子供と同じ「エージェント」の人間であるらしいとだけは理解していて、一体あの事故車はなんだったんだろうな、という疑問だけが残った。
藤村事務所へ強行突入した際の熱が残っていたので窓を開けていたが、やはり辺りは不気味なほど静まり返っていた。
金島を含む七人の捜査員は、二台の車で白鴎学園前までやってきた。鈍く月明かりを反射する黒い芯柱と、張り巡らされた有刺鉄線を目に留めて、一同は絶句した。
白い面の人間がちらりと彼らの姿を見やるが、特に興味を向けることもなくふいと視線をそらせた。面は違えど同じ服装をした彼らは、有刺鉄線の檻を更に取り囲むように、一定の距離を保って直立不動していた。伸縮性の黒いニットの上から着た防弾チョッキと銃の武装は、軍隊のような様だった。
時々、有刺鉄線からは電流の光りが細く上がっていた。物騒な高圧電流の檻と武器も、それぞれの仕事を当然のように進めるナンバーズ組織も、金島たちの目には異様な光景に映った。学園内で殺戮が起こっていることを受け入れられない自分たちこそが、どこか間違っているのではないかと錯覚してしまうほどだ。
不意に、悲鳴と怒号、銃声音が学園内から上がった。
思わず足を止めた金島を、毅梨と阿利宮、彼の部下である三人の若手捜査員が振り返らないままに通り越した。一瞬歩みを送らせた毅梨が「答えてはくれないと思いますが、いろいろと話を伺ってきます」とだけ言葉を残していった。
「とんでもねぇな……」
金島の後ろで、車に寄りかかった澤部が煙草の煙を吸い込んでぼやいた。
「日本にこんな組織があると知れたら、国中パニックになるだろうな……」
澤部がもう一度深く煙を吸い込むと、金島の背中を見つめていた内田が、車体前方部分に腰を降ろした。立つのも億劫といった様子で溜息をもらし、だらしなく体勢を崩す。
「おいおい、この車凹ませたら、毅梨さんにあとで叱られっぞ」
「無駄に丈夫そうな車体なんで、大丈夫じゃないすか? 気になるのは、金島ジュニアとその同級生の安否っすよね」
きっと金島さんが一番心配してる、と内田は語尾を濁した。
そのとき、三人に声を掛ける者の姿があった。
「あと数分もしないうちに終わりますよ」
澤部と内田、金島が揃って視線を投げかけた先で、黒いコートを着た長身の男が「どうも、こんばんは」とにこやかに挨拶をした。
頭髪は白が目立ち、ふっくらとした顔にも、老いた年齢を窺わせる緩やかな深い皺が入っている。しかし、どこかぴんと伸びた背筋は若々しくもあり、体格は細身というよりは、現役の若手刑事のようにしっかりと鍛えられて引き締まっている感じもあった。
初老に近いその男が、金の装飾が入った黒い杖を持ったまま、ゆっくりと金島へ歩み寄る光景を目に留めて、澤部と内田がほぼ同時に「誰だ、あのおっさん」「誰ですかね、あのじいさん」と顔を顰める。
封鎖されている学園敷地内から、またしても悲鳴と銃声が上がった。
こちらにむかってやってくる男の、おっとりと笑む表情は変わらなかった。この場に似合わない穏やかな空気を纏った男が、自分の顔見知りであると早々に気付いていた金島は、困惑を隠しきれない様子で「尾崎理事長」とその名を呼んだ。
学園周辺は完全に封鎖されていた。関係者だけがここに集まっている。
つまり、とある可能性に思い至っていた金島は、顔を強張らせたまま口を開いた。
「まさか……」
「お察しの通りですが、元身内の関係というだけですよ」
尾崎はそれ以上言葉にしなかった。同じように察知した澤部が「ちょっと待ってくれよ」と車体から身を起こしたが、内田が「どちら様ですか、うちの金島さんとはどういったご関係で?」と尋ねる方が早かった。
露骨に警戒を見せる内田の瞳は、きちんと名乗れよという風に顰められていた。それを見て、澤部が後輩を嗜めるように言う。
「おい、内田お前――」
「白鴎学園理事で、高等部校長の尾崎と申します」
尾崎はにっこりと内田に笑いかけ、金島へと視線を戻した。
「心配にはおよびませんよ、金島さん。あなたの息子さんとその友人には、強力な守り手がついていますから」
「…………それは、潜入しているナンバー4のことですか?」
たった一人で、白鴎学園内の標的を抹殺処分しているエージェントを知っているのか、と金島はつい目で尋ねてしまった。息子たちのこちを口にしたとき、どこか年相応の優しい声をしていて、まるで恐ろしい人間には到底思えなかったことについても気になっていたからだ。
息子が彼を知っているのなら、話を聞いてみたいとも思っていた。一緒に過ごしていた時、そして今、学園内で何が起こっているのか――
すると、尾崎が可笑しそうに「いいえ、彼のことじゃありまん」と首を傾けた。
「嫌な予感がしましてね、少しお願いして、この作戦に私の友人を加えてもらっているのですよ。息子さんの担任をしている矢部という男です。腕は確かですので、安心なさってください」
気のせいか、ちっとも安堵できない情報が耳に入ってきた。
金島は、ぎぎぎぎ、と不自然な動きで尾崎を見つめ返してしまった。聞き耳を立てていた澤部と内田も、自分たちの耳がおかしくなったのだろうかという顔で、鼻に小皺を寄せて二人を注視する。
「……失礼ですが、尾崎理事長? 今、担任の、とおっしゃいましたか」
「暁也君と、その友人の担任をしている矢部です。引退して学園を立ち上げた私についてきましたが、十年以上経った今でも腕は衰えていませんよ。暗闇で敵が放った銃弾を全て撃ち抜く部下でしたからねぇ。ナンバー4もおりますし、安心してください」
ああ、しかしこれは秘密でお願いします、と尾崎が微笑する唇に人差し指を立てる。
金島たちは、すっかり言葉を失ってしまった。澤部が煙草を地面へと取り落とし、内田はあんぐりと口を開けたまま硬直する。
一体どうなっているんだ、この学校……――と三人は表情に浮かべて沈黙した。
とうとう眩暈と頭痛まで感じ、金島は思わず頭に手をやった。
封鎖された学園には自分の息子とその友人がおり、そこにはたった一人で殺戮任務を実行するナンバー4というエージェントがいる。尾崎は元々ナンバー組織に所属しており、暁也の担任は元エージェントで尾崎の部下であったという。
澤部が、ようやく自分が煙草を落とした事に気付き、新しい煙草を取り出しながら「ほんと、とんでもねぇな」とやや諦め気味に言った。
尾崎が、おおらかな性格を見せつけるように穏やかに笑んだ。それを見ていた内田の顔に、「奴は狸じじぃに違いない」と言うようなげんなりとした表情が浮かぶ。
「まぁ、もう少しで終わると思いますよ。我々は、気楽に待っていましょう」
尾崎はそう告げ、人懐っこい微笑みを浮かべた。彼は長時間立っていられない片足に負担を掛けないよう、それとなくステッキに体重を預けて、夜の学園を仰いだ。
※※※
両校舎内に生存者の標的が残っていないことを確認した雪弥は、三階廊下からヘロインがある中庭の倉庫へと向かいかけたところで、不意に足を止めた。
音に気付いて窓を覗きこむと、中庭の大学校舎近くで喚き散らす小さな人影があった。窓ガラスに血の手型を一つ残し、雪弥は一目散に中庭へと向かった。
これまで殺した中には、リストに載っていた李、藤村、富川、尾賀、といった四人の中心人物は入っていなかった。取引の現場に集っているのだろう、と雪弥は推測していたから、校舎外側は最後に取っておいたのだ。
生徒たちの教室がある東階段を飛ぶようにして下ると、校舎一階で一気に加速し、中庭へ抜けられる裏口へ向けて高等部校舎中を南方向へと突き進んだ。
辿りついた裏口の鉄の扉を、蹴り飛ばして吹き飛ばした。
すると開いた裏口の向こうに、肉体強化を施された四人の大男たちがいるのが目に留まった。同じくこちらの存在に気付いた彼らが、すかさず銃を構えて荒々しく突進してくる。
雪弥は校舎の外へと躍り出ながら、一瞬にして全員の喉を手で切り裂いた。筋肉と皮だけが残った切断面から血が噴き出したが、男たちと入れ違うように先へと進んでいた雪弥は、返り血を浴びることもなかった。異様に伸びて武器のように太さを増したた彼の鋭利な爪先だけが、真っ赤な血に染まっている。
「一体どういう手品なんだ、小僧?」
声が上がった先に目を向けると、そこには肩で荒々しく呼吸をしている白衣の老人がいた。正面からその顔を見た雪弥は、リストで確認していた李であることに気付いた。先程喚き散らしていたのも彼である。
李は、小さな両手に口が広い銃を持っていた。どうやら、実験体用に引き取るつもりだった学生たちの件に対して、ひどく怒りを覚えているらしい。血走った老人の瞳は、今にも噛みつかんばかりにこちらを凝視していた。
「僕の爪は、少々頑丈でして」
爪先がいびつな音をあげて二センチまで縮み、雪弥は済ました顔で肩をすくめて見せた。強靭な凶器と化す爪の伸び縮みに関しては、雪弥にとって眩しさに目を細めるくらい普通のことだったのだ。
いつからそうだったのか、と言われても分からない。
この爪で誤って自身を傷付けた事はなく、どれほどまで堅いものであれば切断出来るのか、本能的な勘のようなもので分かる説明し難いものだった。それに加えて、歯もナイフや銃口を砕くほど頑丈である。
老人は、許し難い怒りで顔中の皺を深く刻み込んだ。二つの銃口を雪弥へと向け、血走ったひどい形相で凝視する。しかし、対する雪弥は、ぼんやりと別のことを考えていた。
新しいブルードリームを配合した李は、この薬について何か知っているはずだ。殺す前に話を聞き出した方がいい。ここはまず穏便に――
そう雪弥が構えようとしたとき、しゃがれた怒号が落雷のように響き渡った。
「よくも、わしの実験体をぉぉぉおおおおお!」
李が引き金に掛ける指先に力を入れた瞬間、雪弥の身体は否応なしに反応していた。
コンクリートを砕くように地面を蹴ると、彼はコンマ一秒で李の頭上を舞っていた。鎌のように鋭く伸び上がったその爪が、空気を切り裂いた瞬間、李の頭が勢いよく吹き飛んでいた。
頭を切断された胴体から、弾け飛ぶように赤の鮮血が噴き出した。一気に流出した血飛沫が高く舞い上がり、切断面からねっとりとした赤黒い液体を溢れさせて李の白衣を染め上げる。
頭部を失った胴体がよろめき、痙攣するように全身の筋肉を振動させた。その近くに着地した雪弥の背中で、転がり落ちた李の首は怒りに歪み、その顔は恨めしげに彼の背中へと向いて動きを止める。
自身の血で重たく濡れ、頭部のなくなった老人の身体だけが、おぼつかない動きでしばし歩き続けていた。その死を確認するように、黒いコートが振り返りざま翻る。
「――ああ、殺すつもりじゃなかったのにな」
冷ややかな声色が、ぼんやりとした様子で呟かれた。
血飛沫を上げる老人の身体を見つめる雪弥の顔に、表情はなかった。始めから殺さない気などなかったように、淡く光る碧眼には微塵の情も見えない。
李のあとを追っていた藤村が、大学校舎から三歩踏み出した先で、李の最期を目撃していた。青年が纏う冷たい気配と狂気に押し潰され、自身が持っていた殺気すら委縮して彼は震え上がっていた。
ここへ出る直前まで、藤村は先程の大学生たちの死にざまに精神が狂いかけ、李を殺すつもりで追い駆けていた。しかし、発砲しようと構えていたその銃は、頭部を失ってふらつく李の首のない身体を前に、情けないほど揺れ動いた。
そんな藤村の目の前で、漆黒の服に身を包んだ青年が、足元がおぼつかないまま未だ地面の上を歩いている李の身体に向かって、無造作に左手を振り上げた。
赤く染まった衣類ごと、李の身体が更にバラバラになる様子を見て、藤村は三十六人の学生たちが惨殺された方法を知った。獣のように五本の凶器を指先から伸ばした彼が、まるで紙をさっくり切るように、あっさりと、を切るたびに、弾かれた肉片がキレイに切断されていたのだ。
死神の鎌を持った、身の内に得体の知れない獰猛な獣を宿した悪魔だと思った。
そう察した瞬間、藤村は悲鳴を上げて逃げ出していた。締まった喉からひゅっと息が漏れ、もつれそうになった足にバランスを崩し掛ける。それでも必死に手足を動かせて体勢を立て直し、藤村は富川たちのいる倉庫へと向かった。
平気な顔で人をバラすなんて、人間が平気で出来ることじゃない。
奴は悪魔だ、化け物だ。怖い、恐ろしい。
藤村は中庭の中央通路へ躍り出ると、息も絶え絶えに「俺をあの化け物から守ってくれ、助けてくれ」と彼らに訴えた。
倉庫前にいた尾賀、富川の二人が振り返ったが、力のない吐息交じりの叫びが届かず「何事だ」と悠長に顔を顰められてしまう。藤村は二丁の銃をすでに放り捨て、自分が殺意を持っていたことすら忘れて仲間に助けを求めていた。
「…………藤村組のリーダー」
死神のように佇む人影が、小さくなっていく後ろ姿を見て、そう言葉を発した。
写真で確認していた「藤村組のリーダー」の姿を認め、雪弥は疼く手先で、転がっていた肉片を更に引き裂いた。藤村が向かう中庭倉庫には、標的リストの主犯格である尾賀と富川の姿もある。
見つけた、というように、彼の瞳孔が更に収縮して碧の冷たい光を放った。
開け放たれた倉庫からは、大柄な肉体を持っただけの人形のような三人の大男たちがヘロインを運び出している。その様子を見物するかのように、鼠のように小さい尾賀と、ずる賢そうな富川が並んで立っていた。
人間がいる、殺すべき人間があと三人残っている。
雪弥は、肉体ばかりが生きている人形には興味がなかった。まるで、自分のテリトリーを犯されるのを嫌う番犬のように、ざわり、と強い殺気を覚えて、ゆっくりと藤村たちのいる方へ向き直る。
極度まで敏感になった神経は、生きた人間の気配を勝手に探った。学園敷地内には、二人の少年と一人の元エージェントを校舎に残し、あとは倉庫側に集まっている人間で最後だという理解に至った。
駆ける藤村と二人の人間を捉えていた雪弥の碧眼は、侮蔑と憎悪を彷彿とさせる強く冷酷な光を帯びた。
この恨み忘れるものかと血が騒ぐ。月明かりさえも煩わしいほど眩しく、そこに生きる人間が憎くて仕方がなかった。いいようのない殺意が噴き出し、苛立ちに似た感情が身体の中で暴れ狂う。
しかし、それは同時に悦びとなって全身を駆け巡ってもいた。
やつらを殺せるのだ。一人残らず、この首一つになるまで――
わけも分からない強烈な衝動に疑問を抱く間もなく、残されていた冷静な思考能力と理性がぷつりと途切れた。「殺す」ことだけを思った雪弥の長い爪先が、嫌な音をたてて鋭利さを増しながら伸びる。その爪は既に血液が絡みついており、鋭い先端を赤に染めて血を滴らせていた。
そのとき、不意に、右耳にはめていた小型無線マイクが音声を受信した。
『ナンバー4、血に酔い過ぎでは?』
「元ナンバー二十一、お前が何を言っているのか皆目見当もつかん」
雪弥は、まるで古風な言い回しで威圧的に告げた。その美麗な唇は引き上がっており、声には愉快さが滲んでいた。
藤村が倉庫前の人間と合流する様子を、雪弥は、ただひたすら凝視していた。無線で矢部が『ほら、その喋る感じ。話に聞いていた通りですね、ボスからは注意されていましたが――駄目ですよ、暁也と修一が不安がります』と言った言葉も聞かずに、彼は地面を抉るほどの瞬発力で前方に飛んでいた。
地面が強い圧力を受けたように押し潰れ、瓦礫を舞い上げる。その瞬間、彼の身体は砲弾を発射したように地を弾き、宙を直進していた。
「だからッ、奴が来るんだ!」
「藤村さん、少し落ち着――」
駆けてきた藤村は、ひどく動揺していた。どうしたんだ、と富川は訝しがりかけてギョッとした。
黒を纏った人間が、こちらに向かって飛んでくることに気付いたのだ。
鎌のような長い凶器が月明かりに照らし出され、殺気を帯びた碧眼が浮かび上がった。富川が恐怖し「ひぃ」と喉を震わせたとき、尾賀は総毛立って反射的に部下へ怒号していた。
「奴を殺せ!」
ヘロインを運び出していた三人の大男たちが、鞭に打たれたように一斉に駆け出した。彼らは尾賀、富川、藤村の脇を通り過ぎると、それぞれが懐の銃へと手を伸ばす。
重々しい巨体が迅速に動く様は心強く、萎えていた藤村の闘争心を呼び起こした。素早く銃を取り出した尾賀が予備の銃を投げて寄こし「殺すね!」と声を尖らせる声に、それを受け取った藤村は「おう!」と強気に答えて敵へと視線を戻した。しかし、銃も死闘も経験がなかった富川は、懐の銃も取り出せないまま狼狽して後ずさりしてしまう。
そのとき、ぼっと低い響きが一同の鼓膜を打った。
三人の大男の首が、一瞬にして消し飛んでいた。司令塔を失った巨体がぐらりと崩れ落ち、噴水の如く勢いを保ったままの血飛沫が傾度を変えて、辺りを赤黒く染め上げた。