自分の意見を押し通す蒼慶が、部下や親族たち全員を驚かせた事が大学生時代にもあった。大学在学中に突然スポーツに励み出し、勉強の合間をぬって身体をこれまで以上に鍛え始めたのである。

 蒼緋蔵家の人間はもともと一通りの護身術や武道を学ぶことを義務づけられていたが、スポーツは別物だった。尋ねた大人たちに「これからの体力と精神力を鍛えるためだ」と宣言した話は有名で、実際、その話を渡米したばかりの現地で聞いた雪弥は「あの人、一体何やってるんだ?」と驚いた。運動派ではなかった長男が、義務付けられてもいない事で自ら動いて汗を流す姿など、想像もつかなかったからである。

 蒼慶は、父のクローンのような男でもあった。常に眉間に皺が寄った仏頂面に、有無を言わせない圧倒的な威厳と威圧感を漂わせていた。雪弥があの家から距離を置き始めた頃から、それが一層ひどくなったと嘆くのは母である亜希子ばかりではない。

 時々彼から電話が来るたび、雪弥は厳しい口調で刺々しい言葉を浴びせられていた。蒼慶はいつも不機嫌そうな声色で一方的に話しをすると、雪弥の言葉も聞かずに勝手に電話を切るのだ。

 嫌われているのかと考えるが、思い当る節もなく雪弥は悩んでいた。蒼慶は幼い頃から仏頂面ではあったが、彼らと過ごした短い時間の中で、嫌われるようなことをした覚えが一つもなかったのだ。

「父さん、蒼慶兄さんがどうかしたの?」

 雪弥が咳払いのあとに尋ねると、父がひどく重々しそうに言葉を返した。

『…………蒼慶が来月中に、私のあとを継ぐ事に決まった』
「そっか、良かったじゃない。無事に決まったんだね」

 雪弥は、心の底からほっとした。蒼慶が自分を嫌いに思っているのは、きっと跡取り問題があったからだろうと考えていたからだ。父もこの件で忙しく動いていたので、ようやく肩の荷が下りるだろうとも思った。

 喜ぶ雪弥とは正反対で、父の声は重く沈んでいた。

『秘書の席には、緋菜(ひな)が就くことになった。結婚するまではうちが持っている会社でも、十分に社会経験が詰めるだろうと蒼慶が意見してな』
「へぇ、兄さんが緋菜を?」
『大学を出て大手企業の秘書をやっているが、見合い話の多さに亜希子が心配してな。蒼慶も緋菜の器量の良さを認めていて、外で秘書をさせるより自分の元にいるほうが能力も伸びるだろうといっている。私たちも、十分にその役職が務まるだろうと判断して推薦した』
「うん、そうだね。緋菜はしっかりした良い子だから」

 雪弥は、妹が蒼緋蔵家の役職に就く驚きよりも、正直な感想を述べて肯いた。

 家名の「緋」の文字を与えられた一つ年下の妹、緋菜は小、中、高、大学をトップ成績で卒業した、兄に継ぐ優秀な頭脳を持った和風美人だった。

 雪弥は成人式以来彼女に会っていなかったが、美しい黒髪を背中に流したその姿を容易に想像できた。「着物が良く似合うわね」と紗奈恵に言われてから、緋菜は癖のないロングヘアスタイルを変えた事がなかったのである。

 今年彼女が大学を卒業した際は、蒼緋蔵家や別の財閥が会場に入っていたので、雪弥は祝いの言葉をつけた花束とプレゼントを送っただけで、顔を出す事はしなかった。毎年家族の誕生日やお祝い事には、欠かさず花やプレゼントを送っている。