ナンバー1のもとから出た雪弥は、すぐ地下ニ階にある情報課に行き、用意されていた分厚いファイルを受け取って閲覧室で目を通した。

 本部は二十四時間フル稼働しているので照明灯も変化はなく、窓が一つもない冷たい地下は時間の流れすら分からない。しばらくファイルをチェックした後、ようやく一息ついたタイミングで何気なく腕時計を見て、彼は驚いた。

 もう夜の九時を過ぎていた。

 手に収まらないファイルの分厚さは圧倒的で、雪弥は「無駄にあり過ぎだろ」と愚痴りながら似たような内容のページをめくっていった。速読する事さえ面倒になり、必要がなさそうな文章は読まずにぼんやり見やるだけで飛ばし、最後の一ページだけゆっくりと目で読んでファイルを閉じた。

 ふうっと息をつき、座ったまま凝った身体をほぐすように背伸びしたところで、雪弥は、ふと動きを止めた。


「……電話するの忘れてた…………」


 思い出して、雪弥は係りの者にファイルを返すと、エレベーターで屋上へと上がった。休みがあればすぐに問題は解決しているだろうに、と思いながら屋上の扉を押し開けて外へ出る。

 少し湿った涼しい夜風が吹きこんで、雪弥は反射的に目を細めた。月明かりで照らし出された屋上は、雪弥にとっては十分な明るさがある。屋上を取り囲むように飛び出ている塀に歩み寄ると、静まり返った駐車場と直立不動している警備員が見えた。

「……御苦労なことで」

 柵に身を預けながら呟き、雪弥は携帯電話取り出した。ふと何も食べていない事を思い出し、一階の購買で何か買ってくるべきだったかと口の中で呟く。

 話しをすませてから食べようと決めたのは数秒後で、そのとき既に、携帯電話を慣れたように操作して耳に当てていた。


『はい、蒼緋蔵ですが』


 凛とした、はっきりと言葉を切る女性の声が上がった。

 ずいぶん久しぶりに聞く声だったが、それが亜希子のものだと雪弥はすぐ分かった。音楽教師をしていただけあって、亜希子は容姿もさながらに美しい声をしているのだ。

「亜紀子さん? 僕、雪弥ですけど――父さんはいますか?」
『まぁ、雪弥君なの! すごく久しぶりねぇ、元気?』
「はい、すごく元気。父さんお願いします」
『うふふ、棒読みねぇ。相変わらず目的の用件以外は、あまり興味がないって感じかしら。いいわ、電話を繋げるから、ちょっと待っていてちょうだい』

 ぷつっと通信が途切れ、代わりに電子音楽が流れた。昔から変わる事のない「エーデルワイス」の曲である。

 それは亜希子と紗奈恵が気に入っていた曲で、雪弥たちが訪れる度に蒼緋蔵家ではその曲が流れた。亜希子がピアノを伴奏しながら、紗奈恵と共に優しく歌い上げるそれは、耳にした者がしばらく動きを止めるほど心地よいものだったのを覚えている。

 思い出しながら、雪弥は駐車場に一台の高級車が入って来るのを意味もなく眺めた。重い鉄の門が機械制御によって滑らかに動き、元の位置に戻って行く。静寂を震わせる耳元の曲はワンフレーズが終わると、初めの演奏から繰り返された。

 見慣れた都心の明かりは、すっかり夜空の星の輝きを消してしまっていた。強く主張し続ける月に小さな光たちが、遠慮して輝きを止めているようだ。その月明かりさえ打ち消す人工のきらめきに、雪弥はエージェントが今夜も仕事をしているのだろうな、と静かに思った。

 そのとき、不意に曲が途切れた。