夜の高速道路を、三台の大型トラックが縦に列を成して走行していた。
先頭車両の助手席には、短い手足をした小さな男が腕を組んで座っていた。量の少ない長髪を、和風というよりは中国風と思わせるようなキッチリとした雰囲気で後頭部で一まとめにし、細い目の上の眉も不自然な位置で細く整えられている。
小さな唇からはしまいきれない前歯が細く覗き、その顔立ちの全体的な印象を述べると、まさに「鼠」であった。当人にとって、それは全く嬉しくもない「覚えやすい第一印象」と化して半世紀近くが経っている。
常々鼠顔だと言われて覚えられるその男は、丸咲金融第一支店を任されている尾賀である。
人生の半々を日本と中国で過ごした尾賀は、中国人の父と、日本人の母を持つハーフだった。彼の父は人身売買を行うクラブオーナーで、祖父の代でぐんと大きくなった組織を更に確固たるものにしていた。
尾賀は凛々しい顔立ちの大柄な父に似ることもなく、店で一番人気だった美しい日本人母の面影すら受け継がなかった。父方の曽祖父にそっくりだと言われることが多く、それを聞くたび、尾賀は釈然としない気持ちを覚えた。
尾賀は主に、違法薬物の売買を行ってきた。中国で活動している父の悪名は強く、喧嘩も出来ない成り上がりでありながら、円滑に動くことが出来る立ち場にあった。
父の紹介で夜蜘羅のもとに寄越され、ブラッドクロスの「強化兵」計画を手伝うことになったものの、数年前まではほとんど下っ端のような仕事をしていた。榎林の下で共に動くようになってからようやく評価され、計画の一部を担う幹部として席を与えられた。
ブロッドクロスによってパートナーとして組まされたとはいえ、彼らが関わる大きな仕事や、表向きの経営に関しても榎林を通さなければならず、組織内での立場は若干彼が上でもある。彼があってこそ、尾賀はこの大きな組織の中で今の立場にいられている。
二人がパートナーのように組まされてから、数年が経っていた。
しかし、榎林と尾賀は、互いが腹の底で悪態をつきあう犬猿の仲でもあった。
両者ともに、ひどく自己主張と自己欲が強いのだ。自分が偉いと自負する尾賀は、なぜ榎林のような男が社長の席についているのかも理解出来ないでいた。
ブロッドクロスとほぼ対等の位置にある夜蜘羅の贔屓で、榎林は幹部の席に座っているにすぎない。尾賀はずっとそう考えていたし、夜蜘羅と仕事の話を出来るような人間は、榎林ではなく自分の方であるはずなのにおかしな話だ、と常々強く思っていた。
「取引をしくじるんじゃないぞ、しっかりやってこい」
榎林は、いつも早口で上から物を言う男だった。数刻前、トラックを出発さる準備をしていた際わざわざやってきたかと思うと、そうふてぶてしい物言いで告げてきたときは、いちいち煩い男だなと憤死しそうになった。
あのとき、尾賀はどうにか平静を装って「お前が確認すればいいね」という本音を堪え、「私がしっかりと確認してくるから心配いらないね」と述べたのだ。すると、彼はトドメのようにこうも指示を付け加えてきた。
「私は今日大事な予定が入っているから、報告は明日聞く。いちいち到着時の報告や経過報告などしなくとも、スムーズにやってくれればそれでいい」
まるで立派なボスみたいな話口調が、最近は特に鼻につくようになっていたから、尾賀は反吐が出そうになって「準備が忙しい」と下手な言い訳で早々に帰ってもらった。
なにしろ榎林は昨日の午後、「ちょっと行って来る」と佐々木原たちを連れ出したかと思うと、とうとう一本の連絡も寄越さず会社にも戻ってこなかったのだ。新しい取引の場所となった学園で、初めてヘロインを入荷する前日のことだったので、尾賀は苛立った。
上に立つ者としての素質は皆無だと、内心愚痴ったものだ。しかも、今日会ってその件についてつついてやろうとしたら、まったく榎林の悪さ満載という感じが濃厚に出ていて、非常に苛々させられたのである。
まだ先も長い高速道路を見据えていた尾賀は、つい、その時の事を思い返した。
思わず小さな鼻に皺を寄せ「ふんっ」と憤りを露わにするものの、運転席に一人座る大柄な男は声を掛ける事もなく、ただ黙々と運転を続ける。
今日も決まった時刻に、榎林は第一支店の様子を見にきた。昨日のことをさりげなく尋ねてみたら、すぐ小馬鹿にするように尾賀を見降ろしてきた。榎林も小さい方ではあったが、李と同じ百四十五センチしかない尾賀を見下ろすのが、とても好きな男だった。
「昨日私が何をしていたかだと? 尾賀さん、そんなことを聞くぐらいだったら、今日の取引について考えるべきだろう。違うかね?」
榎林の隣には、暴力団の佐々木原がいた。彼は高い身長をしていて、いつも凶暴な目付きを隠すようにサングラスをしている。彼は相変わらずくぐもるような笑い声をあげて、こう言ったのだ。
「榎林さんの言うとおりでしょうねぇ」
佐々木原の張り付いたヘタクソな作り笑いを思い出し、尾賀は更に苛立った。会話もない車内で「榎林と佐々木原め!」と罵り、浮いた足を二、三度前方に振り上げてしまう。短く覗いた細い脚は、黒いポンチョの下から虚しく宙を切った。
本当は黒のロングコートを着用したい尾賀だったが、彼の背丈だと「風にはためく」生地がなくなってしまう。夜蜘羅の提案の元、彼が考えたのが、四季に合わせて上質な生地でオーダーメイドさせるポンチョだったのである。
尾賀は今回、自身の暗殺集団を引き連れていた。ブラッドクロスでは駒となる人員に肉体強化が行われており、尾賀は素手で人の頭がい骨を砕く大柄で屈強な部下を与えられていた。
それは佐々木の持つ組員よりも、はるかに使える頼り甲斐ある部下たちだ。三台のトラックを運転する三人もそうである。二台のトラックはこれから入荷する商品を乗せるので荷台は身体が、後尾列のトラックには十二人の部下が待機している。
肉体強化が行われた男たちは、ブラッドクロスによって脳を弄られているため命令には忠実だ。しかし、それ以上の人材が今は求められていた。特殊筋を持った家系から突然変異として生まれる「化け物」を、意図的に作り出す計画が「強化兵」である。
尾賀は、自身の手首サイズに合わせた細い腕時計を見やった。「明美と落ちあわないといけないね」ときぃきぃとした耳障りな声で呟く。
実験に必要な材料を集める役目だった尾賀は、ブルードリームについて李がまくしたてる事は分からないでいた。とはいえ、同じ中国系として、取引のビジネスでは約七年の付き合いがあることもあり、小うるさい老人の性格はよく知っているつもりだった。
李はせっかちだ。取引の時刻前には学園に到着するだろう。尾賀はそう踏んでいた。明美が迎えに行くという段取りは、そこで変わるに違いない。
李に取引について再確認するのは明美ではなく、出迎える富川か学園に待機している藤村のどちらかになるのだ。そうなると、明美は予定の時間を繰り下げて自分と落ち合う可能性がある。
彼女を学園に送ってから、報告といったやりとりは全て電話になっていた。今のところ何も問題なく進んでいるが、尾賀としては今後も付き合っていくうえで、明美が見た学園側の人間の詳細について話を聞きたいとも思っていた。
とはいえ、金曜日とあって高速道路は予想以上に少々混んでもいた。 時間が間に合えば、取引前に直接報告を聞く事が出来るだろうが、少しされは難しそうだとも尾賀は予想してもいた。
彼女は富川の相手をしているので、無理であれば、諦めて後日にタイミングを見計らって東京に呼ぶか、こちらからこっそり出向かなければならないだろう。少し面倒ではあるが、使う手駒の情報については、個人的な趣味や性質なども知っていた方が何かとやりやすいのも事実だ。
榎林が、自身のパイプをつかって見付けた富川がそうだった。相手側が富川をよく知っていたおかげで、尾賀は明美を使って今回の取引の場所の協力者として、彼を引き込む事に成功したのである。
「おい、速度を上げろ」
尾賀はそう指示した。運転席に座っていた男が返事もなくアクセルを踏み込み、夜も深まった高速道路で、高知県方面へと向かう三台の大型トラックが加速した。
途中の信号で時間を取られて、暁也と修一は少しの間二人を見失ってしまった。彼らが歩いて行った方角から、もしやと思ってゲームゼンターのあたりに向かってみると、人目から隠れられるその裏手に常盤と雪弥はいた。
ようやく声が聞こえる位置まで入りこんだところで、常盤が彼に違法薬物を押しつけて「今夜放送室に来て」と待ち合わせ時間を告げたのを目撃した。
視線の先で常盤が弾くように動き出した瞬間、二人はギクリとして、反射的にその場から駆け出していた。そのまま全力疾走で大通りの人混みへまぎれると、他に話し合いの場所など思い付かず、歌うわけでもなくカラオケ店の一室に入った。
「なぁ、どうしよう。思わず逃げてきちゃったけどさ……」
個人的に常盤を知らない修一は、彼が違法薬物を所持していたことに驚きを隠せないでいた。先日、暁也から「ヤバい事してるぜ」とは言われていたものの、まさかここにきて違法薬物が出てくるとは思わなかったのである。
もともと常盤の素行について知っていた暁也としては、雪弥が目をつけられた事に焦っていた。勉学に効果があるという誘い文句を思い出すと、進学校から来て勉強に悩んでいる雪弥を、三学年トップの常盤が誘うのもおかしくないのかもしれないが……
「あいつ頭良いけど根が甘いからな、行きそうな気がする」
彼が強く何かを反対したりするところを見た事がないせいで、余計に気になって仕方がない。雪弥は、あまりにも優し過ぎる少年だと思うのだ。
常盤はどこか「自分は偉い」と他生徒を見下す傾向を持っているところがあり、暁也は彼のそういうところも嫌いだった。白鴎学園で一人浮いていた常盤が、話しかけ易く頭の良い雪弥を「自分の友人に相応しい」として気に入ったのではないかと勘ぐると、ますます嫌な気持ちが込み上げる。
白鴎学園一控えめな本田雪弥は、不思議と誰からも好かれた。修一のように運動派で無駄に元気な生徒だけでなく、一癖ある生徒も、彼となら普通に話しを交わした。雪弥は言葉数が多いわけではないが、話し掛ける時も話しかけられた後も、不思議と心地良い余韻を残す少年であった。
雪弥は、合同で体育の授業を受けている四組の生徒にも好評だった。西田は「この俺にサッカーで挑んでくるとは笑いが止まらんよ!」「くそぉ、俺はお前が嫌いだ!」とも断言したりしたが、一階食堂で修一や暁也と顔を合わせる度に、雪弥のことを尋ねてくる。
今日の昼休みは、「本田雪弥にこの俺が焼きそばパンを恵んでやろうと思ってな!」と言い、焼きそばを単品で購入した修一と走り回っていたほどである。
「つか、常盤どこで薬物を買ったんだろ」
「さぁな、相当遊んでるんなら、知り合いからって口じゃね?」
しばらく二人は話し合い、夕刻の六時前にようやく結論を出した。
「常盤ってやつもさ、きっとなんか理由があってやってるのかもしれないし、薬物は危ないって教えたらやめてくれるんじゃないかと思うし」
「お前は相変わらず頭の中が平和っつうか……。まぁいいか。あの馬鹿正直は絶対行くだろうから、俺たちで先に常盤の野郎と話をつけるぞ」
約一時間半の話し合いで、雪弥が放送室に到着する前に、二人で常盤と対峙しようという事が決まった。夜十時過ぎまでに学校に忍び込む作戦である。
※※※
暁也は修一と別れた後、第一住宅街にある自宅へと向かった。
第一住宅街は茉莉海市の北側に位置しており、一軒家が多く立ち並ぶ高級住宅街である。大通りから真っ直ぐ続く道路は緩やかな坂道に変わり、広い敷地を持った家がずらりと続く。その中腹に佇む、一番広い敷地に建つ三階建ての一軒家が金島家である。
金島家の部屋数は十あり、美しい庭は専用の庭師が定期的に手入れを行っていた。家は西洋の煉瓦造りで、下の階が一番広く間取りを取られている。二階には広々としたテラスが設けられ、そこを避けるように作られた三階部分に、暁也の部屋と両親の寝室があった。
自動扉が設置された車庫には、車四台分の駐車スペースが設けられていた。去年自動二輪の免許を取った暁也のCB四百のバイク、母が使っているスタリオンの赤いスポーツカーがある。一台分の間を開けて、父が仕事外で使用しているメルセデス・ベンツのE300もそこにはあった。滑らかな光沢を放つ白い車は、七百八十万円もする高級車だ。
暁也は家に着くと、台所で料理を作る母を横目に、まずは自分の部屋へと上がった。途中「お帰り、アキ」とリビングから声を掛けられ、足を止めて「ただいま」と柔らかく答える。
暁也の部屋は家の東側にあり、十五畳分の室内には大きなベッドと勉強机が置かれていた。埋め込みタンスに他の私物をしまっているため、一見するとベッドと机、難しい本が並ぶ本棚ばかりで殺風景だ。
暁也は、鞄を放り投げてベッドに腰かけた。「違法薬物か」とぼやき、ボリュームのある寝台へそのまま身体を預ける。
高い天井一面には十二星座の蛍光絵画が張られており、電気を消すと小さなプラネタリウムが視界に広がる仕掛けになっていた。覚せい剤、麻薬と改めて考えたところで、やはり暁也は、常盤に強い嫌悪感を覚えた。夜遅くに雪弥を呼び出す、という手口も気に入らない。
そのとき不意に、閉まっているはずの学校放送室で待ち合わせということに疑問を覚えた。
「……そもそも、なんで学校なんだ?」
暁也は考えたが、途中母に呼ばれて思考をそこで止めた。さっと手早く私服に着替えると、急ぎ足で一階へと降りた。
リビングには、普段と変わらず二人分の食事が広げられていた。母と暁也、二人の食事風景はいつものことだった。父がいないことの方が、暁也には居心地が良い。
高知市にある高等学校の二年生だった頃、彼は校内で暴力事件を起こした。一年生の女子生徒に手を上げた三年の不良集団が気に食わず、そのまま一人で全員を病院送りにしたのだ。
遠巻きに見ているだけで、助けもしない学生たちに腹が立った。不良集団と、そこで起こっている悪行に見て見ぬ振りを決め込む教師たちに怒りを覚えた。気付いた時には、女子生徒に手を上げた先輩学生を殴り飛ばしていた。
ようやく浮き彫りになった校内の風紀乱れと苛めの実態を、学校側は暁也が悪いと主張して自分たちの立場を守った。不良集団リーダーの父親が、県議員だったことが理由だった。
暁也は権力も不正も嫌いだった。人間関係や縛られる生活よりも、ならばと一人でいることを選んだ。
しばらく擦れ違いなっていた父と、あの事件を起こしたときまともに顔を合わせた。暁也は校長室で彼に「こんなときに父親面してんじゃねぇよ」と言い掛けて、不意に言葉が詰まった。悪に正面から立ち向かう父の威厳溢れる顔が歪むのを見て、まるで自分のすべてを拒絶されているように感じた。
どうせ何を言っても、俺の話なんて聞いてくれねぇんだろ?
中学生までほとんど接したことがなかった父は、暁也にとって「父親」という名の男にすぎなかった。なのに呼び出された校長室で父の顔を見たとき、たった一人の父と子なのだというものを眼差し一つで感じさせられたような気がして、一瞬、呼吸も忘れるほど胸が詰まったのだ。
理由も分からず怒りが身を潜め、暁也はそれ以降父を避けるようになった。父を見掛ける度に、まるで被害妄想のように、その顔に「恥を知れ」という自分がもっとも見たくない表情が浮かぶのを想像した。
白鴎学園に編入出来たとき、「コネで入学できたんじゃねぇの」という自分の噂を聞いた。以前の学校で不正で潔白を勝ちとった不良集団リーダーの父親を思い出して、暁也は再び怒りを覚えた。それだけがどうしても許せなくて、入学早々にそう言って絡んできた三年生と喧嘩を起こした。
正義を掲げる父を遠ざける理由を、嫌悪感だといって自分を納得させると、鬱陶しい想像も浮かばなくなった。その方が、小難しく考えずに済んでひどく楽だった。
だって俺は「不良」なのだ。
期待なんかされる方がおかしい。
「もらったジャガイモが大きくて、煮込み切れているか心配だったのよ。どう? アキ」
「ん、普通に美味い」
「そう、良かったわ」
母は料理上手だ。友人をテラスに呼び、紅茶と手作りの菓子を御馳走するのが日課であった。暁也が何も語らなかったが、母だけが事件後も変わらずに接してくれていた。
理不尽に高校を追いだされた暁也が、「俺なんて産まれて来なきゃいいって思ってんだろ」と当たり散らしたとき、母は彼を抱きしめてたった一度だけ、その事件の想いを口にした。「そんな悲しいこと言わないで。アキが優しいこと、母さん知っているもの」と彼女は言った切り、以前通っていた高校のことを話題に出さなかった。
食事が終わった頃、暁也は何食わぬ顔で母に「今日の夜も、ちょっとバイクを走らせて来るから」と告げた。
いつも父が帰って来る午後九時から午後十時に掛けて家を出ると、母が就寝する十二時前までは一人ツーリングを楽しむことが日課だった。だから暁也にとっては、怪しまれることもない外出理由だったのだ。
午後十時頃に修一と落ち合うことも知らない母は、明日の土曜日にでも一度バイクの定期検診を受けさせることをすすめただけだった。母もバイクを乗り回していた人間だったので、暁也が夜のドライブを始めた頃も「夜風って気持ちいいし、夜景も最高よね」としか言わなかったのだ。
暁也は部屋に戻ると、修一に『俺出る口実オーケー、お前は?』とメールを送った。すぐに返ってきた返事は『メシ食ってる、ハンバーグ最高。親どっちも帰り遅くなるから、友だちんとこに宿題写しに行くって書き置き残す』とあった。修一の両親は自営業で食品加工を行っており、途中母親が職場を抜けて夕飯を作っておくことが多かった。
午後十時前に、改めてショッピングセンター前で待ち合わせすることを確認し合って、暁也は時間を待ちながら持って行くものを揃えた。
携帯電話と免許証の入った財布をポケットに詰め、バイクの鍵とヘルメットをベッドに並べる。最後に彼が手に取ったのは、火曜日に修一とカケオケ店へ行く前に買った、安物の腕時計だった。
今まで時間を気にすることはなかったから、腕時計なんて買った経験もなかった。しかし、授業時間外を利用して雪弥に校内を案内するようになってから、ベルト式の細い腕時計は必需品の一つになっていた。
人に時間を合わせたり、説明することは苦手だったはずなのに、修一と同様に、雪弥に対しても不思議とそんな面倒臭さを覚えなかった。最近はもっぱら、授業も休み時間も常に三人でいることが多く、「おはよう」から「また明日ね」を、修一や雪弥と交わすことも心地良かった。
暁也は、三学年で一番の遅刻魔である。時間に縛られることが好きではなく、つまらない学校でじっと過ごすことも耐えられなかった。事件の一件以来、教師や生徒も信用できず、そこでは過ぎて行く時間すらひどく遅いと感じた。
それが今週の月曜日からは、あっという間に流れているような物足りなさを感じていた。家で一人じっとしているときや、バイクで走り回っている方が、暁也は時間がのろのろと時を数えているのではないかと思った。
時計の針が九時四十分を打った頃、暁也は昨日読みかけになっていた本から目を上げた。まだこんな時間かよ、と悪態をつきながら、ふと常盤への苛立ちを思い出して舌打ちした。
「常盤の野郎、雪弥を巻き込もうとしやがって」
一発ガツンと言ってやらないと気が済まない、と暁也は本を閉じた。
月曜日から金曜日までの五日間、暁也は修一と共に雪弥と過ごした。大人しいだけの少年かと思いきや、雪弥は自分のことよりも第三者を考え、時には予想もつかいない行動を起こして暁也たちを驚かせた。
教室で一人の男子生徒が「この年頃になって母ちゃんと一緒に買い物なんて笑えるよな」と言ったとき、雪弥は「そんなこと言っちゃ駄目だよ、聞いている子を知らずに傷つけることだってあるんだから」と真っ直ぐに主張した。
普段三組のクラスメイトたちは、「またレッテル貼って」と迷惑そうにその男子生徒を見るだけだったのだが、反論意見が上がるのは初めてのことだった。その男子生徒に「じゃあお前はそうなんだ?」とからかわれる対象になるのが嫌なのである。
案の定、その時雪弥は「お前まだ母ちゃんと一緒に行動してるマザコンなんだろ」と笑いのタネにされたが、彼は平然と笑ってこう返した。
「両親や家族を大事にすることって大切だと思うよ。その対象が例えば母親だとしたら、僕たちは男で、彼女は女性でしょう? 僕たちは、助けられるときに手を差し伸べて、そして守ってあげるべきじゃないかな」
家族の繋がりって大事だよ、と雪弥は強調した。
その男子生徒を含むクラスメイトたちは、何も言い返せなかった。しばらくすると「確かになぁ」と賛同する意見が多数上がり、結局その男子生徒は「そうだよな、その、ごめんな。別に深い意味があったわけじゃないんだ」といって項垂れた。けれどからかわれたにも関わらず、雪弥はその男子生徒にこう続けたのだ。
「自分だけが大事に想っているのかなと思って、そんなことを言っただけだろう? 君は不器用なだけで、本当は優しい子なんだね」
フォローするような言葉だった。その少年は柔らかく諭され、後味悪くもならずに照れただけで済んだ。クラスメイトの誰も、その少年を嗤ったりしなかった。
雪弥は口数が少ないと思いきや、饒舌に話しを切り出すことがあった。初めての合同体育の授業の際は、てっきり運動音痴の真面目君かとマークされなかった彼が、一瞬にして点数を奪って盛り上がったときもある。
折り紙を初めて触ったとクラスメイトたちを驚かせ、野球のルールも知らずに百二十キロ以上の剛球を放ってピッチャーを泣かせた。小食かと思いきや、今日は修一ですら食べられないほどの量を、あっさりと胃袋に課おさめてしまった。
彼といると退屈しない。合同授業で一緒だった三組の西田たちが、最近よく四組に出没するという騒動も笑みが絶えないものだった。
「ったく、そんな奴に薬物とか、常盤の奴マジで馬鹿だろ」
色々と思い返して浸ってしまったせいで、暁也は彼らがどうして学校で待ち合わせするのかという疑問をすっかり忘れた。
時計が午後九時五十分を差したとき、ヘルメットとバイクの鍵を持って部屋を出た。バイクはショッピングセンターの駐輪所に停めとくか、と考えて階段を下り始めたが、ふと一階から少し騒がしい気配がすることに気付いた。
一階へと差しかかって、暁也はそこにスーツ姿の男たちがいる事に気付いた。懐かしい顔触れは、父の部下たちであった。毅梨、内田、澤部、阿利宮、そして阿利宮といつも一緒にいる三人の若手刑事たちの姿もあった。
階段から降りた暁也は、振り返った男たち一同に見つめられて「なんだよ?」と思わず顔を顰めた。こうしてきちんと顔を合わせるのは、高知市に住んでいたとき以来だ。
「暁也君、これからバイク……?」
若手時代から面識のある阿利宮が言い、暁也は怪訝そうに眉を持ち上げて「そうだけど?」と答えた。
阿利宮は、まるでそれがまずい事でもあるように言葉を詰まらせた。リビング出入り口に向かって内田がけだるそうに「金島さ~ん、息子さんっすよ~」と声をかけると、床を叩くような足音が聞こえてきて、全員の目がそちらへと向いた。
圧倒的な雰囲気をまとった父が姿を現し、集まっていた男たちが、言葉もなく通路を開けた。
父から仕事の瞳を向けられることが初めてだった暁也は、思わず息を呑んで彼を見上げた。室内にはどこか緊迫した空気があることに気付き、足元からすうっと萎縮するような緊張感をどうにか堪える。
「ちょっと、バイク飛ばして来る」
久しぶりに父に投げかけた声は、喉から絞り出してようやくしか出て来なかった。屈強な体格を持った父を今一度確認し、暁也は思わず「こんなに大きい親父だったのか」と思ってしまった。
すると、目の前に壁のように立つ父――金島本部長がこう言った。
「外出は禁止だ。今日は大人しくしていなさい」
強い口調に、暁也は反論しかけて口をつぐんだ。リビング奥から出てきた母が、今にも泣きそうな顔で「暁也、お父さんの言うことをちゃんと聞いて」と懇願したのだ。
暁也はわけが分からず、自分へと視線を向ける男たちを見回した。
「いったい、どうなって――」
「これは命令だ、暁也。今すぐ部屋に戻りなさい」
父親ぶった物言いだ、暁也はカッとなった。
こちらを見下ろす父に強い怒りを覚え、階段の柵にヘルメットを打ちつけて睨み上げた。苛立ちは一気に膨れ上がり、彼は不満と憤りで持っていたバイクの鍵を握りしめて叫んだ。
「あんたはそうやって、俺に説教ばっかりだ! こっちの話も聞かない癖に! 一体何がどうなってるのかくらい、話してくれてもいいだろ!」