ベンツの窓ガラスは、こちらから見ると周囲の景色を写し取るだけの黒だったが、その向こうで夜蜘羅が笑ったような気がした。それが苦手な兄の存在と重なり、思わずじりじりとあとずさってしまう。

 分かった、こいつは絶対ドSだ。

 しかも、優しさオプションがついた性質の悪いタイプの方の、超ドS。

 雪弥は手つかずになっている家の事情と、黒いベンツの彼と対峙してしまっている今の状況から逃げ出したい衝動を覚えた。しかし、こちらの気持ちもお構いなし、といった様子で夜蜘羅は続ける。


「手加減するようには言ってあるよ。これは『小蜘蛛』だから、君が殺すのには全然構わないんだけどね――ああ、でも帰る時は『糸』を辿らないと大回りになるし、さて困ったな」


 どうしようか、と夜蜘羅の声が笑んだとき、車体の下から強烈な殺気が溢れ出し、大きな黒い影が明確な殺意を持って飛び出してきた。

 それを敏感に察した雪弥は、反射的に地面を蹴り、マンションの三階部分の高さまで飛び上がっていた。ふわりとなびく前髪から地面を凝視した彼は、そこに人間とは呼べないモノがいることに気付いて、黒いコンタクトレンズがされた目を見開いた。

 車体の長いベンツの脇に、猫背のように盛り上がった屈強な肩を持ち、アンバランスなほど長い四肢をした二足歩行の『ナニか』が佇んでいた。

 二メートルほどあろうかという身体は、伸縮性の黒い服に包まれており、それはやけに細い腰周りをしている。ぴったりとした黒い衣服の袖口から覗いた手は、獣というよりは昆虫のごつごつとした棘のような剛毛に指まで覆われ、サージカルステンレスを鋭利に尖らせたような獣の爪が五本付いている。

 その剣のように太く弧を描いた爪は、一掴みで軽自動車のフロント部分を切り刻めるほどの大きさがあった。手首部分から先だけがやけに巨大で、それが重々しく地面に垂れ下げている光景も異様だ。

 否。異様なのは、全体的な骨格や形ばかりではない。

 晒された男の顔は、火傷跡のような黒い皮膚に覆われていて頭皮には毛がなかった。穴が開いただけの潰れた鼻下には、割れ広がった長く広い口があり、短い額に小さな三つの赤い瞳がそれぞれ違う方向に動いている。

 これは人間じゃない、と呟いた言葉が唇の上を滑り落ちる。

 化け物の三つの赤が、途端に雪弥を追うように宙へ向けられた。その様子を車内から見ていた夜蜘羅が「素晴らしい!」と感嘆の声をもらす。「なるほど、身体能力は五分五分といったところかな? ますます楽しみでならないよ」という言葉が聞こえた。

 雪弥はそれに反応を返す余裕もなく、警戒したように化け物を注視したまま、マンションのレンガ壁に垂直に着地した。


 ブレザーの裾とネクタイが宙を舞い上がり、それが重力に従って落ち着く時間も与えないかのように、唐突に化け物がその身を揺らして一気に跳躍した。