雪弥は「ちッ、なかなかタイミングが悪いな」と舌打ちし、走り出そうとした。しかし、不意にその停められている車のある部分に目が留まり、顔を顰める。


 車体の左側面部に、大きな凹み傷があった。まるで同じ大きさの車に衝突させられたような、ひどい損傷である。近寄って細部を調べると、剥き出しになったアルミに少量の血痕が残っていた。血液は冷え切ってはおらず、まだ固まってもいない。

「何かが起こったのか……?」

 嫌な予感がして素早く踵を返した時、雪弥は微動するような低いトルク音を聞いた。こちらに向かってくる何者かの気配を覚え、ひとまず様子を見るべきかと、咄嗟に地面を蹴り上げて高く跳躍し、古びたアパートの屋上に飛び移った。

 雪弥は、屋上で身を屈めるように膝を折ると、気配を殺して先程までいた地上を見下ろした。

 一台の白いBMXが、こちら向けに路地が連なる細道を猛スピードで走行していた。茉莉海市では見掛けない高級車である。それは、人の少ない方向へ向かうように、荒々しく進行方向を変える。

 その車が古びた建物の向こうの角を曲がっていく直前、雪弥は車のナンバーへと目を走らせた。光を帯びた彼の瞳孔が収縮し、1.5キロ離れている先の車のナンバープレートに『東京』の文字を見つける。

 榎林たちと、何かしら関係がありそうだ。

 続けて東京方面から車が入ってくると言うのも珍しい。雪弥は、地面へと向かって飛び降りた。走り去ったその車の方角が、損傷し停車しているアルフォードの横を走る新しいタイヤ痕が伸びている方角と一致しているのを見て、迷わず駆け出す。


 逃走中の鴨津原も気になるが、まるで襲撃を受けたような車や、そばに残る別の車のタイヤ痕、新たに登場した東京ナンバーの車と、頭の中は忙しない。


 茉莉海市一帯の地図を頭に浮かべてみると、向かう先は人の少ない土地であると分かった。以前頭に叩き込んだ地理資料を記憶から引っ張り出すと、この方角に位置していて、尚且つ取引に使えそうな無人廃墟には一軒心当たりがある。

 耳を済ませると、先程覚えた車の走行音もそちらに向かっているようだった。

 雪弥はまるで廃墟外と化したような、古い時代を思わせる人も車もないそこを猛全と駆けた。