心地よいテノールは、柔らかく尖って室内に漂う重々しい空気を漂わせた。しばらくしてナンバー1が『そうだな』と言っても、誰も声を発しなかった。

 尾崎が長い沈黙を置いた後、ひどく穏やかな微笑をたたえた。自分が所属する前には退職しているはずの彼は、現役当時と変わらぬ威厳と能力を維持していると直感的に悟り、雪弥は「やれやれ」として言った。

「尾崎さん、すごく怒ってますよね?」
「ふふふ、いいえ、ナンバー4。私は至って冷静ですよ」
『……教官、声だけでも怒っているのが丸分かりです』

 尾崎は長くたくわえた眉をそっと、困ったように寄せて笑った。

「そんなことはありません。きちんと、ナンバー1が考えてくださっているでしょうから」

 すべてのエージェントが分かっていることを尾崎は述べた。特殊機関のトップに立つ男は、決して判断を誤らない。雪弥もそれを知っていた。彼が機関をまとめているからこそ、すべての決断や判断を任せられるのである。

 雪弥は、壁にかかった時計を見て立ち上がった。話し合ってから十五分が経っていることに気付いたのだ。そろそろ切り上げどきだろう。

『潜入しているエージェントからの情報で、明日にも取引きが行われると分かった。ブルードリーム使用者も同じ時間帯、学園に集まることが判明している。はっきりとした時刻は確認しだい、他の情報に関しても入手してまとめて知らせる。それまでにはすべてが決まっているだろう。――話は以上だ』
「了解」

 緊張もなく雪弥は答え、椅子に腰かけたままの尾崎に向き直った。そばに控えていた岡野が何も言わずに歩き出し、先に扉へと進む。

「じゃあ、僕は行きますね」

 先日ナンバー1から『片足をやられて退職した』とは聞いていたので、雪弥は彼に起立を促したり握手を求めたりはせず、あっさりとそう言った。

 この部屋に訪れてから、尾崎が一度だってその椅子から立ち上がってはいない事については、おおよその推測は立っていた。彼は当時と変わらない能力を持ちながら、しかし、その片足はそれを上回るほどに、本来であれば重症なのだあろう。

 恐らくは、普通の人であれば歩けないほどの何かであるのかもしれない。それを彼は、持ち前のポーカフェイスと気力と、――時間をかけた訓練で『一般的な歩行』を一時的に可能にしているにすぎない。

 雪弥が労うように微笑むと、尾崎が「優しいですねぇ」と言って、感謝するような眼差しで微笑み返した。

「生徒としてのあなたと会うことは、恐らくもうないでしょう。しばらくお別れです、ナンバー4。あとは、あなたのような若い方々に頼みましょう」
「そうですね、僕が高校生としてあなたの前に立つのは、これが最後だと思います。しばらくさようなら、尾崎さん」

 それから数秒間見つめ合い、雪弥は踵を返して歩き出した。


 部屋中の壁から微弱な振動と連続した金属音が上がった後、岡野がスイッチでも切り替えたかのように、「事務員の岡野」に戻り、ぎくしゃくした動作で扉を押し開けた。