蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 修一と暁也を含んだ生徒たちは、矢部の合図で何事もなかったかのように黒板へと向き直った。雪弥は全員の注目が離れたことにほっと安堵し、取り出した携帯電話を机の下へと滑らせた。

「こうすると、ニの数字になるので……」

 矢部が授業を再開したところで、雪弥は黒板を見つめる素振りをしたあと、携帯電話へと視線を落とした。着信画面に名前の表示がない電話番号が記載されているのを見て、思わず顔を顰める。

 組織で用意された携帯電話は、通常、盗聴防止や機密回線として、独自のシステムを介し転送される仕様になっている。直接通信で電話番号が出ているという現象は、滅多にないといっていいくらいで、ふと嫌な予感を覚えた雪弥は、次の着信を見越してバイブ機能を切った。

 その直後、またしても着信が掛かり、携帯電話の画面の中で音もなくコールが続いた。掛かってきたその電話番号を、口の中で数回反復したところで――

 雪弥は反射的に身体を強張らせしまい、後ずさった反動でがたん、と椅子が音を立てた。

「……どうした? 本田……」

 矢部が数十秒遅れで言った。他の生徒たちもこちらを振り返り、目で「どうしたの」という具合に尋ねてくる。雪弥は言葉が思い浮かばず、「いや、ちょっと……」と言ってどうにか引き攣った愛想笑いを浮かべてやり過ごした。


 上手い説明も出来ないほどに、雪弥はかなり動揺していた。何故なら、音もなく呼び出しを続けているのは、兄の蒼慶だったからである。


 くっそ、どこか見慣れた番号だと思ったよ!

 そう思いつつ座り直し、雪弥は持ち慣れないプラスチックのシャーペンを手に持った。問題ないですと伝えるように、そのまま言葉なくノートを取り始めると、それを確認した矢部が途切れた説明を再開した。

 矢部のぼそぼそとした声は掠れ、聞こえなくなると生徒の誰かが「先生、聞こえません」と遠慮がちにいつもの台詞を述べた。大半そう口にしたのは、サッカーの授業で「委員長」と連呼されていた少年、眼鏡を掛けた佐久間である。

 ったく、毎回毎回、どこで僕の代用携帯の番号を調べてるんだ?

 雪弥は、蒼慶の情報収集能力に呆れるばかりだった。特殊機関がそのつど発行する偽装通信機器は、携帯電話であっても通常の物とは違い、数字も五桁であったり十八桁であったりと様々で、番号の間にアルファベットやシャープが入る盗聴防止機能付属の優れ物だった。

 勿論、通信番号は国家機密である。その通信機器から電話を掛けられても、相手の着信画面は「非通知」となる。しかし、番号が表示されないだけで、掛けられた電話機から折り返すと、システムで許可されている間は掛け直しが出来るという仕組みになっていた。

 潜入調査を進めながら集まりつつある情報を、頭の中で整理している中で、蒼慶の毒舌をすんなりと避わせる自信がなかった。仕事でなくとも彼からの連絡だけは受けたくない、というのが本音である。
 雪弥は、「一方通行で話しをされる身にもなってみろよ」と忌々しげな長男の姿を思い浮かべた。

 二年前、妹である緋菜(ひな)の成人式で会ったとき、実に五年ぶりの顔合わせになった長男は、すっかり大人の様相をしていた。しかし、相変わらずすました仏頂面で「貴様は馬鹿か」と蒼慶は開口一番に言ったのだ。

 彼は雪弥が「久しぶり」というよりも早く、「貴様は時間に遅れる癖も直せないまま、のこのこと悠長に」と一方的な説教が始めた。そして、それを終えると、やはりすこぶる機嫌が優れないというように顔を顰めて、次の言葉でしめくくった。


――「私が貴様と最後に会ったのは五年前だが、ミジンコ並みの成長も見られないな」


 蒼慶と会うのは、彼の成人式以来だった。とはいえ、その成人式を思い返してみても、懐かしさというより「あれはないよなぁ」という感想しか浮かばない。

 七年前の一月にあった蒼慶の成人式の年、雪弥はまだ十七歳であった。高校を中退して特殊機関に勤めていた彼は、仕事の合間を縫って祝いに行ったのだ。しかし、そのときも顔を合わせて早々、喧嘩をふっ掛けられそうになった。


――「数年も顔を見せずにひょっこり現れよって。去年緋菜の高校入学祝いに顔を出したそうだが、私から逃げるように帰ったらしいな。上等だ、お前に基本的な礼儀とやらを教えてやろう」
――「蒼慶様お任せ下さい。ここは、わたくしが手取り足取りと――」


 そこまで回想したところで、本能的な拒絶感から、ピキリと思考が止まった。

 一癖も二癖もある蒼慶の執事を思い出し掛け、雪弥は恐ろしいと言わんばかりに回想を打ち払った。信じられないという表情を浮かべ、「危なかった」とぼやく彼の額には薄っすらと汗が浮かぶ。

「おい、大丈夫か?」

 小声で暁也がそう尋ねてきたので、笑わない目と引き攣った口元で「何でもないよ」と答えた。雪弥がぎこちなく黒板へ視線を滑らせたので、そこで会話は終了となった。

 矢部は相変わらず、自分の教科書を深く覗きこみながら話している。

 その説明が所々聞き取れず、生徒たちは困惑顔で「先生、聞こえません」と告げた。授業に飽きた修一は、教科書の下にスポーツ雑誌を隠して読んでおり、視線を黒板へと戻した暁也の机には、先程配られたプリント以外は何も出ていない。

 痺れを切らした女子生徒が矢部に強く指摘すると、彼は先程より聞き取り易く話した。しかし、後列席の生徒たちは一様に顰め面を作っている。

 聴力が優れている雪弥には聞こえていたが、一番強く吹き抜けた風にカーテンがはためく音を上げると、生徒全員が「聞こえません」と揃えて抗議した。まるでコントである。

 ほんと、穏やかだよなぁ。

 雪弥は他人事のように思ったが、蒼慶からの電話連絡を取らなかったことを思い出して机に突っ伏した。
 蒼緋蔵家長男、蒼慶の場合は、電話を取らなかったあとが怖いのだ。窓の向こうに広がる青空から視線を感じ、雪弥は机に伏したまま、げんなりとそちらへ目を向ける。

 見てる、絶対見てる。

 この感じは夜狐じゃなくて、兄さんが買収した衛星だ。

 プライバシーの侵害だろ、と雪弥は呆れて窓のカーテンを締めた。矢部が「どうした」とぼそぼそ訪ねてきたので、「少し眩しかったんですよ」と答えて溜息をつく。

「……本田、勉強疲れか?あまり、根を詰めるとよくない……」

 口ごもる声で矢部が言った。生徒たちから「本田雪弥」の話を聞いているのだろうと雪弥は推測しながら、何も答えずに意味もなく参考書をめくった。

            ※※※

 結局、数学の授業が終わっても、休み時間に兄に連絡を入れる暇はなかった。

 授業中に珍しく雪弥が携帯電話のバイブ音を響かせた一件で、何人かの生徒たちが話しかけてきたからだ。それに加えて、修一と暁也もこちらの方を向いて新しい話題を振ってきた。

 午前中の授業は残すところあと一つとなったが、三学年生は四時間目の授業が急きょ自習へと変更されることになった。

 本来なら三学年全体で煙草に関する保健授業のはずだったが、外来講師が来られなくなったため自習となったのである。

 白鴎学園は現在、特殊機関管轄内となっているため封鎖されている状況だった。事件に関わりがない者が足を踏み入れることは出来ないので、そう考えると当然だろうなとも思えてしまって、雪弥は冷静に話を聞いていた。

 一旦教室に戻ってきてそれを説明した担任教師の矢部は、図書室や教室での自習、体育館の使用や運動場の利用、進路指導室の資料閲覧など時間を有効活用するようにと生徒たちに言い渡した。

 三組の生徒たちの大半は、矢部が担当している進路指導室へ大学の資料を見に行った。残った生徒たちは、教室で談笑しながらの自習を始める。

 まだ一度も図書室に行ったことがなかった雪弥は、それを理由に教室から抜け出そうと考えた。高校生としてこの学園に四日いても、少年少女たちの集団の中は彼にとって落ちつかない場所だったのである。

 そのとき、自然な仕草で立ち上がった雪弥の腕を、修一が掴んで引き止めた。彼は机の上で堂々とスポーツ雑誌を広げながら、きょとんとした様子でこちらを見上げている。

「どこ行くんだ? 体育館? それとも運動場?」
「あのね……、受験生が行くところだよ」

 呆れる雪弥に、修一が二秒半遅れてはっと息を呑んだ。

「…………まさか、進路指導室――」
「図書室」

 修一はこの二日間で、進路指導室に嫌な思い出でも出来たようだった。行く場所を正確に教えた雪弥に対して、そっと視線をそらすと「……矢部先生、意外と先生の中の先生っていうか、さ」と中途半端に独り言を途切らせて、遠い目をした。
「あんなところに行っても、つまんねぇだけだぜ」

 言葉を失った修一に続き、暁也が淡々として口を挟んできた。彼は机に両足を乗せながら雑誌を眺め読んでいる。その言葉を聞いた生徒たちが忌々しげに暁也を振り返ったのは、勉強する素振りもない彼が、学年で二番の成績を持っていたからだ。

 雪弥は短く息をつくと、自分の腕を掴む修一の手をそっとほどいた。

「僕は、まだ図書室に行ったことがないんだよ」
「そうなのか? 転入して来たとき放課後残ってたからさ、そんとき行ったのかと思ってた」
「校内を散策していただけだよ」

 雪弥は答えて肩をすくめた。やんわりと崩した表情を浮かべていたものの、二人の少年から視線をそらすその瞳は、あの夜、ゲームセンターで見掛けた常盤という男子大学生を思い浮かべていた。

 実をいうとニ日前から、雪弥は今事件の共犯者である、三年一組の常盤と接触を図ろうとしていた。修一と暁也の目を盗んで彼の姿を探したが、常盤は常に歩き回っているようで、その姿を見掛けることもなかった。

 実際にブルードリームを配っている本人に会ったほうが、仕事が遥かに進むだろうと雪弥は考えていた。ナンバー1からの連絡が来る前に、さらなる情報を仕入れたかったのだが、今のところ目標は達成できていない。


 常盤は、高等部側で唯一動いている協力者である。先日「シマ」と呼ばれていた男との会話を思い返すと、薬の意図は知らずとも、取引についてはよく知っているはずだと推測される。

 そうすると、五月に起こった土地神の噂や怪談騒動も、取引現場となる学園から人払いするため、常盤と理香が動いたのではないかという憶測も浮かんだ。


 前もって準備を早急に進められて今に至るのだとしたら、やはり大学学長の富川は、常盤の後に協力者として傾いたという憶測も立ち始める。何故なら「シマ」は彼の名前を出した際、常盤よりも信頼していないような口振りだったからだ。

 保険医の明美が着任した頃と、事が起こり始めた時期について考え直すと、その線が強いような気もした。彼らを上手いように使っている別の大きな組織がいるとしたら、明美自身が寄越された仕掛け人の一人だ、と考えてもおかしくない。

 蓋を開けてみたら、どんどん厄介で複雑になっていく感じがするな。

「なぁ、お前が図書室行くっていうなら俺も付き合うぜ。『走れサッカー少年』の新刊出てるって聞いたし」

 考え事をしていた雪弥は、「え、ああ」と言いながら反射的に言葉を探した。

「えっと、図書室って混んでないかなぁと思ってさ……」
「混んではないと思う。三年はほとんど教室で自習してる奴が多いんだ。先週の自習もそんな感じだった」
 地理の沢田(さわだ)先生がまた風邪をこじらせて自習になってさ、と修一は頭をかいた。「若いんだけど一年中体調が悪くて、おっさんみたいな先生」と彼は評して暁也へと話を振った。

「なぁ、あんま人いないと思うし、暁也も行こうぜ」
「おう、行く」

 暁也は間髪入れずに答え、雑誌を閉じると机から足を降ろした。

 二人の少年はそうして、すでに校内の全てを把握している雪弥を図書室へと案内するべく立ち上がったのだった。

             ※※※

 図書室は高等部校舎の中央に位置しており、三階にある広々とした視聴覚室の真下にその部屋を構えていた。

 校舎は中央に一階から学食、図書室、視聴覚室と続くが、どれも全く同じ面積と間取りを持っている。進学校のため図書室には専門書なども数多く揃えられ、置いてある本のジャンルも児童文学から大人向けの単行本と幅広い。

「あのさ、一組の常盤って生徒知ってるかな」

 東側の階段を降り、二学年の教室前を図書室へと向けて進みながら、雪弥はさりげなく尋ねてみた。

 真っ先に反応したのは暁也だった。彼は嫌な物を見るように振り返り、「俺はあの秀才野郎が嫌いだ」と開口一番に吐き捨てた。口を開こうとした修一から常盤をフォローする言葉を読みとると、彼は一睨みで黙らせてこう続けた。

「かなり性質が悪いって感じがする。あいつには関わらない方がいい。しかも、優等生ぶって裏で相当女遊びしてるみたいだぜ? この前あいつ、パチンコ店の裏手にいたのバイクで見掛けたけど、女とキスしてた」
「嘘だろ? だってあいつ、学年一番の優等生じゃん」
「嘘じゃない。何考えてんのか分かんねぇし、いろいろとやばい事やってそうだぜ。学校では特につるんでる奴はいないみたいで、この前は一人で図書室にいるの見かけたけどな」

 思い出して語る暁也に、修一が顔を顰めた。

「お前が図書室に?」
「俺の意思じゃねぇよ。矢部から逃げてたんだ」

 暁也は舌打ちをして言葉を切った。

 雪弥は「そろそろナンバー1から連絡が来てもいい頃なんだけどなぁ」と内心呟きつつ、近づいてきた図書室へ視線を滑らせた。

 常盤少年のことは気に掛かったが、夜狐に頼んだ調査の返答もないことに疑問を募らせる。里久にレッドドリームを渡した人物の情報を調べ、雪弥とナンバー1に報告することが夜狐の新たな任務に加わっていたのだ。

 ほんと、どっちも一体何してんだか。

 雪弥が頭をかいたとき、三音の階層が違う音が校内に流れた。それは、校内放送を知らせる音で、暁也が図書室のドアに掛けていた手を止め、修一も「珍しいな」と呟いて足を止める。


『三年三組の本田雪弥君、今すぐ事務室へ来て下さい。繰り返します、三年三組の――』


 修一と暁也が、揃って雪弥を振り返った。

「…………呼ばれてるけど、なんかしたの?」
「…………事務室なら書類とかじゃねぇかとは思うが」

 お前、何か出し忘れてる物とかあるか、と暁也は尋ねた。すぐに校内放送の意図に気付いていた雪弥は、ぎこちなく視線をそらして答える。

「えぇっと、うちの親すごく忙しいから、編入願書に書き忘れがあったのかもしれないな、うん、そうだと思う」

 雪弥は、二人の少年に「先に図書室に入っていてね」と伝えて、その場をあとにした。
 正面玄関のそばにある事務室には、三人の女性がいた。窓口に中年の女性が座り、後部の事務机では若い二人の女性が囁くような声量で会話をしている。

「あの、本田雪弥ですが」

 雪弥が尋ねると、事務机にいた若い女性が席を立った。緑と白のストライプが入ったごわごわのシャツは、百五十センチもない小柄な体躯に比べてサイズが大き過ぎていた。下からはいているロングスカートはくびれもなく広がっており、飛び出た頭と手足は一見すると寸胴であった。

 セミロングの黒い髪を二つに結びまとめた彼女は、事務室から出て来ると、分厚い眼鏡を親指と人差し指で挟むように押し上げた。かなり視力が悪いのか、眼鏡の度数が合わないのかは分からなかったが、かなり下から雪弥を覗きこんでくる。

「ん~本田君ですか? わたくし、事務の岡野(おかの)メイです」
「えっと、そうです。本田です……」

 岡野と名乗った女性は、どこか間が抜けたようなゆっくりとした口調で話した。戸惑う雪弥を見て、事務にいた中年女性が「ちょっと岡野さん」とうんざりしたように声を掛ける。

「写真の通り、彼が本田雪弥君よ。あなたが見つけた編入願書の抜けてる項目、ちゃんと説明して書かせてちょうだいね。ご両親の欄はミスがないから、生年月日のついでに進路調査表もお願い」
「はい、はい、はい。分かってます、分かってます」

 ゆっくりと答える岡野は、これ以上女の言葉は聞きたくもないといった様子だったが、表情と抑揚に変化は見られなかった。手に持っていた茶袋の封筒を雪弥に見せ、「抜けているところがあるので」と続ける。

「うちの説明不足ですみませんでした。覚えてます? 電話でお話しを伺った岡野です」
「さぁ、どうだったかな。実際にお会いしたことはないですし、全然分かりませんでした」
「構いません。では、こちらへどうぞ」

 長いスカートから小さく覗いた岡野の寸胴な足が、力なく前進を始めた。

 伸び過ぎた彼女の背筋はやや後ろへと傾き、短い両手両足を大きく振る様子はぎくしゃくとして動く。岡野と、彼女の後ろをゆっくりと追う雪弥を、事務室から覗いた二人の女がしばらく心配そうに見送った。
 事務室の隣は職員室となっており、岡野はその向かいにある階段を進むと、二階へと上がり「校長室」と書かれた東側の扉を二回叩いた。返事もないまま茶色の質素な扉が開き、外観からは想像もつかないほど立派な校長室が姿を現す。


 黒いカーテンで窓が仕切られた室内は、弱々しい灯かりだけがつけられていた。中央に置かれた重量のあるテーブルと、向かい合った黒い革ソファの奥に、理事長兼校長の書斎机があった。

 岡野が無言で扉を締めると、その席に腰かけていた六十代前半の男性が、雪弥に微笑みかけた。少々薄くなった灰色の髪をしており、大きめのグレースーツを恰幅の良い身体に着こんでいて、その顔は写真で見た尾崎その人だった。

「はじめまして、ナンバー4。元、エージェントナンバー十三の尾崎と申します」

 心地よいテノールで尾崎が言った後、雪弥の後ろに控えていた岡野が、後方に手を伸ばして扉横に触れた。くぐもるように金属音が連続して起こり、雪弥は室内が完全に遮断されたことを理解した。

 つまりは、一見するとどんくさいようにも見える事務員の彼女もまた、尾崎の事情を知る関係者の一人であるらしい。雪弥はそう思いながら、初対面となる元エージェンの尾崎に挨拶をした。

「はじめまして、尾崎さん。ナンバー4の雪弥です」
「わざわざすみません、事は少々厄介な方へ転がっていましてね」

 語る尾崎の声は、童話を語り聞かせるような口調だが、微笑をたたえる瞳の奥には考えが読めない鋭さがあった。すっと歩き出した岡野へと大きな白い手を向け、「彼女は、元ナンバー六十二のメイです」と紹介した。

 岡野は、書斎机の横で踵を返すように雪弥を振り返ると、「突然呼び出して申し訳ありませんでした」と、先程までなかった滑らかで早い言葉を紡いだ。

 肩をすくめて応えた雪弥に、尾崎がふふっと笑みをこぼす。

「大丈夫、この部屋は室内で爆発が起ころうと外に音がもれません。四方に盗聴防止機器が設置されて、外界から完全に遮断されています」
「恐ろしい校長室ですね」

 雪弥は思わず本音をもらした。尾崎は「理事室としても使わせてもらっています。厚さ五十センチの超合金、窓も同じ厚みがある」と言って、穏やかに装われただけの瞳を雪弥に向けた。

「本部から音声通信を繋げてあります。設置機器の問題で、映像とまではいきませんが」
「いいえ、音声通信だけで結構ですよ」

 二人の会話が途切れた時、岡野が書斎机の上に置かれた小さな灰皿へと手を伸ばした。それがカチリとひねられて、金庫室の鍵が回って行くような音が三回上がり、不意に途切れる。

 そのとき、一つの音声信号が入った。

『雪弥、聞こえるか。こちらナンバー1、総本部オフィスからだ』
「聞こえてますよ。こちらは今、尾崎さんのオフィスです」
『急きょですまないが、事態が変わった。今回調査に当たった研究班の班長、キッシュと通信が繋がっている』
 室内に響き渡る低い声が『おい、説明しろ』と続けられたあと、室内の四方に埋め込まれたスピーカーから若い声が『はい』と答えた。

『え~こちら地下十階、レベルB1研究室、班長のキッシュです。はじめまして、ナンバー4。続けて報告に入ります』

 キッシュと名乗った男は、かすれた声色で『え~』と話しを切り出した。

『これまで東京で出た、異常障害の検挙者からご報告させていただきます。彼らから押収した青い薬物は、ブルードリームと呼ばれる覚せい剤でした。形状は最近出回っている完成度の高いMDMAと比べると、一回り大きいくらいですね』

 ただし、とキッシュは強く言葉を区切った。

『これまでの覚せい剤に分類できない薬物となっています。厄介なのは、摂取することによって、こいつが遺伝子に傷をつけることです。今回東京で起こっている薬物事件で、異例な中毒者を出している代物が、ブルードリームとレッドドリームであることが分かっていますが、これらは我々が知る通常の覚せい剤とは呼べない代物であったわけです』

 尾崎は机に両肘を乗せ、手を組み合わせて顎を置いてそれを聞いていた。キッシュの言葉が途切れたタイミングで、立ったままの雪弥に「どうぞ腰かけて。あ、茶菓子があるけれど食べますか」と打ち解けた様子で尋ねる。

 雪弥が「いただきます」と真面目に肯いてソファに腰かけると、岡野がやってきて、テーブルに茶菓子の入った皿を置いた。

『おいおい、お前ら……』
『いえ大丈夫です、ナンバー1。報告を続けます』

 そう言う声には若干の引き攣りがあったが、緊張感の全くないマイペースなエージェントであるナンバー4と元ナンバー十三に対して、キッシュが気を取り直すように冷静な口調で続けた。

『覚せい剤や麻薬は体内組織を溶かしますが、ブルードリームはそれと同時に遺伝子情報に直接作用することが判明しました。その依存性によって定期的に摂取すると、その結果、身体組織にある遺伝子が非常に不安定になるのです』

 その時、室内に茶菓子の袋を開ける音が上がった。
 
 雪弥が「あ、これ美味い」と言い、尾崎が「私のお気に入りなんだ」と場違いなのんびりとした会話が交わされて、キッシュが小さく咳払いをした。

『今回運ばれてきた里久という人間の遺伝子を調べて、ブルードリームとレッドドリームがセットで造られているという推測がぐんと高まりました。レッドドリームは、これまで見た合成麻薬とは見事に違っています。運ばれてきた対象者の身体にまだ成分が残っていたので、現物と併せて解析してみましたが、材料としてヘロインが配合されている他は全く未知の薬です。まだいろいろと不明な点が多い薬ですが、厄介なことに、傷ついた遺伝子を無理やり捻じ曲げる働きがあるようです』

 つまりレッドドリームが本来の薬物としての目的では作られていない物である、というのが判明した証拠だとキッシュは言う。
『どういった成分が使用されているのか分かりませんが、レッドドリームは、ブルードリームによってある程度まで遺伝子に隙間が開いたところで、食いついて力づくで情報を変えてしまうという働きがあるようです。条件を満たした人体の中に入ると、一気に増殖し、まるで生きているように食いつくんですよ。一体どういう原料から取られた成分で出来ているのか、全くもって不明です』

 雪弥は耳を傾けながら、口に入れた茶菓子をもごもごとさせた。『聞いてるか』とナンバー1が問いただしたので、「聞いてますよ」と答える。

 ナンバー1と雪弥の会話が終わったと確認するまで、キッシュは数秒の沈黙を要した。

『……え~、レッドドリームに食われた者は、急激に変化した組織や遺伝子ががっちり凝り固まってしまいますので、二度と元の姿には戻りません。ブルードリームのみの使用だと、肉体が死ぬと元の細胞に落ちつくのは確認されています』

 まるで、どこかの映画かアニメみたいな話ですが、と彼は前置きする。

『四月以降に出回っているこの二種は、遺伝子レベルで作用するため、今のところその急激な変化に身体が耐えられないという欠点があり、細胞が自滅を始める特徴があります。火曜日の夜に運ばれてきた青年は、今日の昼まではどうにか生きていたんですがね……彼は今までの検挙者の中でもっとも異常でした。調べていくとこれがまた厄介でして…………』

 キッシュが苦々しく言葉を濁した。つまり怪物と化したまま、精神状態が戻ることもなく先程、里久の死亡が確認されたのだろう。

 岡野が準備した紅茶で喉を潤した雪弥は、そこで眉根を寄せて顔を上げた。

「一つ訊いていいかな。服薬の順番的には、絶対青いほうを先に飲むようにいわれるってことだよね?」
『まぁ、そうなりますね』
「じゃあ、例えば赤いほうを先に摂取したらどうなるの」
『強烈な快感のあとに苦痛が来ます。んで、各細胞が破裂して、ぽーん、です』

 キッシュは簡単ながら、あっさりと実に分かりやすい言い回しでそう答えた。情報を整理させるようにスピーカーの向こうが沈黙したので、二人はそれぞれの自然な表情を浮かべて見つめ合った。

 尾崎が柔らかな声で、「東京だけでなく、今はここもそうだということでしょう」と言った。今にも拳銃を撃ち抜きそうな雰囲気を感じ取ったが、雪弥は平気な顔で茶菓子を口に放り込んだ。

『……尾崎教官、頼みますからスピーカーをぶっ壊さないでくださいね』

 音声だけで察したらしいキッシュが、『うちも早急に動いているところなんですから』と念を押してくる。

 ナンバーの位が高いエージェントは、将来特殊機関に配属される子供を教育する現場教官を務めることも多い。基本的に希望制であるが、教育熱心だった尾崎はまるで教師のように教官職に力を入れ、軍用ヘリで仕事現場と本部を行き来していたという伝説の教官でもあった。

 現在技術、研究、情報、と各部署に別れて配属している人間の中にも、その教育機関出身の者は多くおり、キッシュもそのうちの一人だ。