常盤(ときわ)聡史(さとし)は、裕福な家庭に生まれた三人兄弟の末っ子だった。幼くして通信教育や家庭教師、有名な塾やピアノ教室に通う優秀な末っ子として両親に可愛がられて育った。

 十歳近く離れた兄たちは弁護士と税理士、父は病院の院長で、母は大企業である富豪の父を持つ娘というエリート一家だ。十年前県の要請を受けて病院が移転し、常盤は両親と共に茉莉海市にやってきた。

 自分の意思もない縛られた生活に、常盤は常々不快感を抱いていた。

 もともと勉強やピアノにも興味はなかった。同じ年頃の子供たちが遊ぶのを羨ましく思った気持ちは、成長するにしたがって次第に冷めていき、何に対しても関心を示さなくなった。

 どうして生きているのだろうと、小学校高学年から、常盤は疑問を覚え始めた。楽しみも苦しみも与えられない満たされた生活は、彼の感覚を麻痺させていた。


 そんな彼が自身の人間性を取り戻したのは、中学生を卒業する頃だった。


 講演などで出張が増えた父の留守の日、突然塾の講義がなくなった常盤は、そのまま帰路についた。

 家の前に見慣れない高級車が停まっているのを見たとき、ひどい胸騒ぎを覚えた。そっと鍵を開けて家に入ると、玄関には男性用革靴が並べて置かれていた。いつもなら食事を作る音が聞こえるはずの家は、怖いほど静まり返っている。

 まるで泥棒にでもなった気分で、常盤は鞄を胸に抱えて家へと上がった。

 電気は一つもついておらず、カーテンもすべて閉め切られていたので、夕刻の室内は恐怖を感じるほど暗かった。鼓動が身体中を波打ち、彼は心臓が震えているではと錯覚する胸中の痛みを感じた。

 常盤は浅い呼吸を繰り返しながら、二階へと続く階段を慎重に上がっていった。途中、正面にある両親の寝室の扉下から、暗がりでは眩しく感じる光りを見て足を止めた。

 母さん、どうして寝室に?

 心臓が大きく高鳴り、耳元で煩いぐらい不規則な音が続いた。

 常盤は内臓が軋む思いで階段の最上段まで登ったが、寝室から聞こえてきた小さな二つの声に身体を強張らせた。寝室にいる母が何をしているか悟った彼は、一瞬呼吸すら忘れて聴覚を研ぎ澄ませた。そして二秒半の時間を要して、相手をする若い男の声が、父の病院に勤める医者であることに気付いたのだ。

 胃の底から強烈な嫌悪感が込み上げ、常盤は急く思いで家を飛び出した。死んでいたと思っていた彼の心は、一気に命を取り戻したように激しく震えていた。