シェリーに最期のおやすみを

 二人で喫茶店に入ってから二時間半後、谷川はようやく自分の話を始めた。じっとしていられない萬狩の性格を知っているから、ちょうど小腹をすかせた彼が、追加でアボガドのサンドイッチを注文して食べて暇を潰している間に、誰もが警戒心を解いてしまう心地よい口調で語り聞かせる。

 社交的で立ち周りの上手い谷川は、、自分が周りからフットワークの軽い優男と見られている事は自負しているし、「谷川さんだから、萬狩社長にあんな口が聞けるんだろうな……」という評価も知っている。

 けれど、谷川は唯一親友と認めている萬狩を、心の底では敬愛していたし心配もしているのだ。彼から言わせれば、萬狩は働き過ぎだった。

 萬狩が代表取締役から会長になった現在、新しい後任が務めて三年が経過し、ようやく会社の人事も落ち着いてきていた。萬狩ほどの腕はないにしろ、部下達も、最近は渋々と新しい取締役を受け入れ始めてもいる。

 実際のところ、今の会社の人間は皆、萬狩の背中を見てここまで来た。どんな苦境にあろうとも、彼についていけば大丈夫だという尊敬と信頼と、畏怖に相応しい実績もあったのだ。だから萬狩が「五十年、百年と続く会社」の考えを打ち出して新たに代表取締役を選任した時は、かなり揉めた。

 谷川は、ここ二ヶ月ほど考えて、ある計画を立て、慎重に相談も重ねて行動に移し始めていた。それを親友に悟らせない己のポーカーフェイスに感謝しつつ、萬狩が苦手とする気遣いを悟らせないよう、何でもない顔で話し続けた。

 彼は話ながら、今回の件に関して「萬狩さんが、しっかり見てくれているのであれば……」と、渋々折れた形の古株重役達の弱腰を思い出し、思わず膝の上に置いた拳を握りしめていた。みんな彼に頼り過ぎだし、彼も頼られ過ぎなのだ。
 萬狩は、昔から弱みを見せる事を嫌っていた。もとより不器用な男ではあったが、大学時代から付き合いのある谷川からいわせれば、一人で数人分の仕事をこなす萬狩だって、一人の人間なのだ。

 睡眠も削って会社に泊まり込み、栄養ドリンクとコンビニの握り飯を片手に、時折、死んだように目を閉じている親友の努力や苦労を知らないでいる部下達を、谷川は憎く思う時もあった。

 萬狩の妻は、確かに谷川が知る女性の中でも厳しい女ではあった。仕事の他に金も持っていたから、一時的な別居騒動も一度や二度ではないし、三十代から「離婚してやる」との言葉もよく聞いていた。

 離婚については、新婚機関が過ぎた頃から既に秒読みだったが、結局のところ、二人の息子は父親である萬狩を責めなかった。

 萬狩は自分自身や人間関係には疎いところがあるから、子に怨まれてはいないという、比較的にも救われる結果を知らないでいるのだ。谷川からしてみれば、それがすごく歯痒いところでもある。

 谷川は、今回の件が萬狩の心身を癒し、彼が抱えている精神面の壁や、問題を解決してくれる事を期待していた。

 谷川は、萬狩と出会えてから人生が楽しくて仕方がなかったのだ。素晴らしい女性とも巡り合え、結婚まで出来たのも萬狩のおかげだと思っている。不器用で自分にも疎い親友は、仕事に青春をつぎ込んだが、彼が今後の人生を楽しめるような日々を、谷川は誰よりも一番に願っていた。

 萬狩は友人の心境も知らず、その優しげな眼差しを見つめ返しながら、興味もなさそうに相槌を打った。そんな馬鹿な話あるものか、と冗談口調で切り返し、お得意の嘲笑を片方の口角に刻んだりもした。

 しかし、嘘をついた事のない友人の話は信頼もあり、萬狩は、軽い気持ちなりにきちんと話は聞いていた。谷川は、面白い世間話を聞かせるような軽いノリで、最後はこう話した。
「僕の従兄弟が不動産業をしているから、その関係で耳にした話らしいんだよ。土地と家が破格なお値段なんだけど、まぁ条件の内の一つに一括払いとあるから、みんな躊躇してしまうのだろうね。僕も興味があったのだけれど、さすがに海の向こうから、毎日ここに通うなんて出来ない。そうだろう?」

 谷川は指を折りながら、その案件がどれだけ今の萬狩にとって都合がいいものか説明した。

 萬狩は現在、比較的拘束のゆるい会長という立場にはある。この友人がいうように、メールや電話、郵送やFAXを利用して仕事に関わる事も可能だろうが、現実味は持てないでいた。

 何しろ、萬狩は毎日のように相談を受け、部下から指示を仰がれていたからだ。俺が抜けるなんて無理だろう、とも思っていた。

 とはいえ、谷川が持って来た面白い話の内容は、実に魅力的で、萬狩は酒が抜けた後も、その話を覚えて考えてもいた。

 試すようにいくつかの仕事を部下達に振って様子を見たが、予想していた以上にスムーズで、萬狩は「これならいけるんじゃないか?」と考えた。

 そして、彼は決断し、早々に準備を整えた。


 萬狩が飛行機で南の島――沖縄本島へと向かったのは、それから一ヶ月後の五月上旬の事だった。
 萬狩が、谷川に聞いた話の家と、その土地を買い取ろうと思ったのは、ただ酔狂に乗ったわけではない。手元に残った金額から最小限の出費で、肉体的、特に精神的に開放される事に気持ちが傾いたのが理由だった。

 遠く離れた南の土地の物件は、彼がこれまで聞いた事がないほど破格な値段だった。

 条件の一つとして全額一括払いする以外にも、とある約束事が守れる人間に限定されており、前もって一回は必ず、物件の販売先である不動産で実際に足を運び、話を聞かなければならないという括りもあった。

 その家は情報誌にもネットにも載っておらず、口コミだけの情報源しかない。

 遠くの人間は、さぞ躊躇を覚えるだろうなと思い、萬狩は焦る気持ちも覚えず、その不動産に連絡を取ってから飛行機のチケットを手配した。

 高い飛行機代を払い、日帰りで沖縄に足を運んだ。物件情報を聞くためというよりは、まるで面接を受けるような心境だったが、萬狩は値段の良さと物件の保存状態、そして山の上一体に構えられた土地の広さを現地の資料で知り、余計にその家が欲しくなった。

 詳しく聞かされた話の中で、谷川から聞いていた内容と同じ『物件購入の条件書』があった。実際に弁護士に預けられたという、元の持ち主が定めた内容は、次の通りだった。


――『愛する家族の一員である老犬を、最期まで大事に見届けてくれる方。
   介護が必要になる場合にも、その子を大切に見守り、手助けをしてくれる方に、
   私の土地と家を、この値段でお譲り致します。』
 老犬が健在の間は、土地や物件に対して変化を加える事は禁じられている。もし、その老犬が無事に天寿を全うしたならば、その時は土地と家の両方を、売るなり改築するなり自由にしていいとの事だった。

「前家主様は、我が子のようにその犬を愛していらっしゃいました。お客様の入居後も、その犬にかかる費用は全てこちらから出させて頂く事となっております。生活の中で、老犬に関わる費用が発生した場合は、こちらの方に支払いの請求をされて下さい」

 不動産で最終の契約をし終えた後、萬狩は、酒井(さかい)と名乗った弁護士の男から詳しい説明を受けた。疑い深い目を分厚い眼鏡の奥に隠したその高齢の男は、淡々と説明しながら、支払い請求先を記した用紙も萬狩に手渡した。

 どうやら、元の家主の財産は、老犬に相続されているらしい。管理をしているらしい弁護士事務所の代表である酒井は、話の最中、始終眠たげで、萬狩にはまるで関心もないといった顔をしていた。

 しかし、酒井はどこか抜け目ない眼光を宿しており、気のない振りをしつつも萬狩の反応を一つ一つ見ては、顔を僅かに顰めるような表情を浮かべたりした。何度もピンと伸ばした中指で眼鏡を眉間に押し込み、打算するようなその眼差しが、萬狩は人間としての点数を計られているようで苦手意識を覚えた。

「残った財産は、寄付される予定ですよ。ご立派だと思いませんか?」

 そこまでの情報は必要としていない萬狩は、何故それを俺に話すんだろう、と鼻白んだ。しかし、説明はきちんと聞く義務があるだろうから、反論もせず下手くそな紙芝居のような弁護士の、淡々とした棒読みの説明に長々と付き合った。
 その男は、事務的な手続きをさっさと済ませたいのか、萬狩に休憩時間すら与えず言葉早く先を進めた。萬狩も、とっととこの男と別れたいと思って、苛々を抑えて根気強く聞き手に回っていた。

 説明が老犬の内容にさしかかったあたりで、萬狩は、ふと当初から感じていた不安を口にした。

「私も犬の一般的な飼い方を知らないわけじゃないが、生憎、友人の犬を一周間ほど預かっていた事がある程度だ」
「つまり、飼育経験はないと、そうおっしゃるわけですね?」

 まるで尋問のように酒井が訊いたが、萬狩は引きもせず正直に「その通りだが?」と断言し、顔を顰めた。

「不動産側にも伝えたが、特に問題ないから詳細の説明をあんたから聞くようにとしか言われなかった。その犬は老いているようだし、余計にどうすればいいのか分からないんだが」

 お前、不動産側から話を聞かなかったのか、と萬狩は眼差しで怪訝を露わにした。

 酒井は、眉一つ動かさなかった。表情筋がないような顔のまま、じっくり探るような目で萬狩の無愛想な目を見据え、器用にも萬狩に聞こえない声量で、口の中で「馬鹿正直な方ですね」と個人的な感想を呟いた。

「何か言ったか?」
「いいえ、何も」

 酒井は背を起こすと、事務的な説明を行った。

「老犬については『マニュアル』がありますので、もしもの場合はそちらをご参考下さい。それから、老犬は雌犬ですからお間違えなく。彼女のごはんは週に一度、セットで届くように手配されていますが、先程も説明申し上げました通り、他にも何か入用になってご購入された場合は、こちらの宛先まで領収書を送って下さい。数日内では契約の口座先へ振り込ませて頂きます」

 基本的に、老犬は週に一度獣医の訪問検診を受けており、同じ割合で専属の業者が訪問し、風呂やトリミングやマッサージなど、必要な事は全て行っているらしい。
 家と土地を購入した者から行われる、老犬への対応に関しては、その専属獣医が老犬の身体の状態等をチェックし、常に弁護士側に報告する流れになっている。

 食事を与えない、不調が出たにも関わらず獣医への連絡を怠る、虐待など、約束事を破る兆候や症状が確認された場合、家の所有権利を失うという誓約書にまでサインをさせられた。

 とはいえ、萬狩はそこについては重圧を覚えていなかった。

 酒井の説明とマニュアルを見る限り、老犬の生活リズムの中で決まった時間に適量の食事を与え、トイレシートを交換すればいいだけである。面倒をみるといっても簡単な、最低限の手助けだけなので、それなら俺にも出来そうだと考えていた。

 老犬に関しては、前家主が残した財産から全てが支給されており、萬狩の懐から一切費用がかかる事もない。

 そのうえ、老犬が暮らす家の水道、電気、ガスにおいても五割はあちら持ちであるし、風変わりな『条件付き物件』ではあるが、こんなに美味い話はないだろう、とも思った。

「今後、家に関わる事、老犬に関わる疑問や相談などありましたら、弁護士事務所までご連絡下さい。老犬の体調や生活に関しては、訪問される獣医へそのまま相談されても問題ございません」

 我々は、その獣医から都度報告を受けておりますので、と酒井は当然のように語った。

 筒抜けなのでしっかり面倒を見ろよ、と遠回しに嫌味ったらしく牽制されているような気もしたが、飛行機代と長時間の説明だけで、安く土地と家が手に入ったと満足もしていた萬狩は、気にならなかった。

 多分、俺の考え過ぎだろう。こいつは、もしかしたら愛犬家というやつかもしれないし、財産の中から高い契約金でも貰って仕事意識が高くなっている、という可能性もある。

 つまり気のせいだと、萬狩の機嫌は非常に良かった。

 契約を済ませて出ていく萬狩を見送った酒井が、「第一印象を裏切らないというのも、珍しい方ですね」意外と単純で呆れます、と表情なく眼鏡を押し上げた。
 入居初日、既に車と共に沖縄入りを果たしていた萬狩は、前日に郵送で届けられた鍵を持って、そこに同封されていた地図を片手に、新しい自分の家へと向かった。

 地図を見ながら、サトウキビ畑の広大な土地を真っ直ぐ抜け、ひび割れたアスファルトの細い坂道を上る。伸び放題になった雑草や、乱立して生い茂る木々が車道をより狭めていたが、この先は既に私有地となっているため、対向からの車の心配はなかった。

 高台にある開けた土地に差しかかると、路面はアスファルトから砂利に変わった。

 風化してやや丸みを帯びた石垣の塀の中に入ってすぐの場所に、雑草が生えないよう砂利が敷かれた駐車場が広がっていた。六台は停められそうなその場所に、萬狩は自分のセダンを停めた。

 駐車場から続く先には庭が開けていた。そこは学校のグラウンドほどの広さがあり、五月の厚い日差しに整えられた青々とした芝生が目に眩しかった。一軒家は山の上に建てられているので、広い敷地の周りを太く立派な木々が取り囲んでいる。

 原っぱと化しそうな広い庭の手入れについては、必要なら専門家を呼んで手入れを頼む必要がありそうだ。家庭菜園が出来そうなスペースが小さく作られてはいたが、萬狩は、家庭菜園の経験はなかったし、今後もやる予定がなかった。

 平たくされた敷地の中心地に構えられていたのは、写真で見たよりも立派な一階建ての洋館造りの一軒家だった。

 コンクリート造りのその物件は、壁もきちんと白いペンキでコーティングされており、長い築年数を感じさせないほどに小奇麗だった。玄関の扉は潮風によって錆かかってはいるらしく、鍵穴に鍵を差し込んで回す際に少しだけ、ギィッと耳障りな音を立てた。
 扉を開けた途端、錆や黴といった古きものとは無縁の、自然特有の緑と、潮の香りを含んだ心地良い風が萬狩の顔を打った。

 この家は入居者が決まるまで、不動産と、老犬の体調を管理して通っている動物病院、それから掃除を専門とする関係者達が毎日出入りしていたらしいから、こんなにも綺麗なのだろうとは推測出来た。

 萬狩が入居する本日をもって、今後老犬に関わる人間は週に一回、犬の健康診断と食糧、生活用品の配達に回って来る以外はなくなる。

 この家はアメリカ仕様だったらしく、前家主も靴を脱ぐ習慣がなかったらしい。玄関と廊下の間に本来あるべき見慣れた段差がなかったので、萬狩はマットの前で靴を脱ぎ、ご丁寧に用意されていた青いスリッパに履き換えた。

 洋風造りのこの家は、玄関から続く一本の廊下から、それぞれの部屋が存在していた。個室部屋の扉は全て取り外されており、完全な密室は洗面所の他には存在していない。廊下の突き当たりには、網戸と硝子窓のためられた白い二重扉式の裏口がある。

 設置されている窓は、いつでも外に気軽に出入り出来るよう、全て大窓造りとなっている特徴もあった。圧倒的に風通しは良く、天上に高さがある事もあって外からの光りは十分に入るため、室内はどこもかしこも明るい。

 既に生活が始められるようにセッティングされた屋内は、彼が予想していた以上に清潔感が漂っていた。前家主はお金を大層持っていたそうだから、きちんとリフォームも重ねていたのだろうか。どこへ目を向けても、古さを感じない別荘のような品質が保たれていた。

 キッチンは磨き上げられ、床も軋まなければ傷跡も見られなかった。トイレは洗浄タイプのしっかりとした個室で、浴室だけは少しばかり手狭のようにも思えたが、バスタブも落ち着くベージュ色でタイルも滑らかだ。