僕は拙い恋の始まりを紐解く

 私達は互いに忙しくなっていたから、時間を見付けて、私の部屋に集まって二人で簡単なお別れ会を行った。彼女は、生まれるまで子供の性別は調べないと嬉しそうに言った。

「どちらか生まれてくるのか、楽しみなの」
「そうか。無事に産まれるといいね」

 私は、彼女の望みに対して協力的だった。もしうまくいかなかったら、いつでも連絡をしてくれて構わないからといって、電話番号を記した紙切れを彼女に手渡した。

 それを受け取った彼女は、強気な笑顔で「大丈夫よ」と答えた。

「私は、もっと強くなるわ。たった一人の、私だけの特別な子が出来るんですもの」

 その後、彼女からは連絡がなかった。恐らくは、無事に産まれたのだろうと私は考え、どうなったのか気掛かりに思う心ごと、彼女との約束を守って蓋をした。

 彼女に関しては、結婚した後に、美容会社の社長となっている事を新聞のコラム記事で知った。女社長とは、実に彼女らしいなと思った。子供について気になったが、知る手だてはなかった。

 小学生、中学生の名前が載った記事には、自然に目を通すようになっていた。珍しい名字で、私の名前の一字が入った小学生男児の名を、学生書道コンテストの一覧に見付けた時は興奮したものだ。

 それから長い月日が経っても、私は自分の名前が入った子供に関しては忘れ難かった。自分の子供達を見つめながら、ふと、彼の歳を思い出しては数えてしまったりした。
 当時の彼女との事は、遠い思い出の向こうにしまって色褪せたはずだった。

 ――だが病室のベッドの上で、私は最近、彼女の事についてよく思い出す。

 亡き両親や、妻や、友人達は私を「ヨリ」と呼んでくれていた。彼女が私を少しでも親しく感じてくれていたのなら、もしかしたら、私の名前のが入ったその息子を「ヨリ」と愛称付けて呼んでいるのではないかと、そんな光景を想像してしまうのだ。

 その名前の中には、確かに私との思い出が生きている。

 他者に無関心な彼女が、そうやって私の事を覚え続けてくれているのなら、どんなに喜ばしいだろうかと、私はそんな事を考えてしまう。

 あの頃は気付かなかったが、私達は子が出来るまで、確かに愛情深く互いが寄り添い合っていた。彼女は、いつだって飽きずに私の顔とホクロを見ていた。

 一目見て決めたのよ、と、出会った時に言った彼女。

 今になって思い返せば、それは簡単な答えがあっての事だったのかと、苦笑せずにはいられない。どこか不器用で、疎くて。そうして私もまた、あの公園で彼女の横顔をずっと見ていたくせに、愛も恋も知らない一人の未熟な男だったのだ。

 もし我が子を愛を込めて「ヨリ」と呼んでいるとしたのなら、彼女にとって私は親愛なる協力者で、そうして初めて情愛を抱いた異性だったのだろう。

 私にとっても、あれが拙い初恋だった。

 産まれた年から数えると、彼は今年で二十八歳になるはずだ。ちょうど、私が彼女と出会った時と同じ年齢だが、一体どんな青年へと成長しているのだろう。
 聞きたい事や話したい事がたくさんあるのに、とうとう動けなくなってしまった私を、どうか許して欲しい。

 彼女と家族を信じて過去と向き合っていれば、もしかしたら私達が全員揃って、言葉を交わせる日もあったのかもしれないと、私は最近、そんな事を夢に見るのだ……。

            ※※※

 手紙の最後は、三人の子供の名前が一つずつあげられて、それぞれに宛てた言葉が綴られていた。

 ヨリは、少しだけ崩れた几帳面な字の全てに目を通し、自分に向けられた言葉の一つずつを読み込んだ。そうして「元気でお過ごしください」としめられた手紙を読み終えた時、声を押し殺して泣いた。

 そこに愛などないと少しでも思えたのなら割り切れたのに、だから自分がここにいるのだと思ったら、最後まで言葉を交わせなかった人を失った悲しみで胸がいっぱいになった。

 自分は、何も思われないまま誕生したわけではなかった。きちんと母に望まれ、父に名の一部を贈られて無事に生まれるといいと願われていた。

 そこには確かに、父と母という二人の拙く不器用な恋があったのだ。

 母にとって特別な人だったのだろう。他人に無関心な母が、その愛称さえも唯一覚え続けていたくらいに。そうして彼女は、その人だったから形を残すように愛し合った。

 ヨリは、生まれて初めて嗚咽が出るほど泣いた。こらえようにも、涙は堰を切ったように溢れて止まってくれなかった。

 父親が恋しかったあの頃の気持ちが蘇って理解した。

 ああ、そうか。僕は父の死を知って、ずっと泣きたかったのだなと、ようやくヨリは気付かされた。

 いつの間にか、再開した大雨が激しく窓ガラスを叩いていた。まるで、この悲しみ語るような土砂降りの音に守られて、彼は一人の男のためだけに咽び泣いた。

 
 きっと、この雨もいずれは上がって、晴れ間をみせるのだろう。

 何事も知らなかった頃には戻れない。でも新しい視線で見る世界は、確かにこれまでよりも開けて美しく見えるのだろうとヨリは思った。
 佐藤と拓実と食事をした、同じ週の土曜日。

 午前十時前。ヨリは、最寄りのレンタカーショップへと急ぎ足で向かっていた。

 昨日まで続いていた雨は、夜中のうちにやんで、頭上には青空が広がっていた。鰯雲が東の空に群れをなし、少しばかり肌寒い秋先の風も、暖かい日差しと相まって久しぶりに心地良い気候となっていた。

 ヨリは速足で歩きながら時刻を確認し、「しまったなぁ」と思わず呟いた。既に待ち合わせの時刻から、十数分が過ぎてしまっている。

 昨日の金曜日、ヨリは「奢った恩を返すチャンスだぜ」と、またしても唐突に佐藤から一方的な呼び出しを受けた。それは会社の飲み会への誘いで、課長の第三男の誕生祝いも兼ねるというから仕方なく参加した。

 ――翌朝から予定が入っているので酒は飲めない、とはきちんと言った。

 だが佐藤は、顔を合わせた当初から気味の悪いほど上機嫌だった。ヨリの頭を撫で「なんか知らんけど、よかったなぁ」と勝手に満足げで、どんどん飲んだ。

 女でも出来たのかと疑って尋ねてみると「昨日も玉砕した」「イケメンが憎い」と面倒な展開になった。二次会のスポーツバーで上司や先輩達は「今度こそ勝つ!」とヨリを負かそうと躍起になり、そこでまた酒が大量に進んで、男一同、性質の悪い絡み酒と化した。

 そうして、テンションが最高潮に達した佐藤を筆頭に、三次会のゲイバーまで連れ回されたのだ。おかげで遅くまで付き合う事になってしまった。

「ったく、もう少し早めに佐藤さんを沈めておくべきだったな」

 ヨリは、ゲイバーで彼を放り投げて、ようやく解散になったのを思い返した。親切で優しいママ達を困らせるんじゃない、と、遠慮なく先輩に技を決めた一件だった。
 今日、目覚めたのは、予定の起床時刻から三十分後だ。

『遅れるごめんッ』

 起床直後、待ち合わせの相手には即、詫びのメールを送っていた。佐藤絡みであると一言添えただけで、相手は全て理解したように同情的な労いのメールを返してくれた。

 目的の場所が見えてきたヨリは、そこに待ち合わせ相手がいるのに気付いて、途端に申し訳なが込み上げて走り出した。

 オープンして二十分を過ぎたレンタカーショップの前にいたのは、カジュアル姿をした拓実だった。彼はヨリに目を留めると、手を振って応えた。

「おはよう。遅れてすまない」
「大丈夫ですよ。うちの姉も寝坊したみたいなんで、お互い様です」
「でも、君も昨日は飲み会だったんだろう? しっかりと待ち合わせ時間まで守ってくれているのに」

 ヨリは、そこで溜息をもらした。

「……若さの違いかな」
「ヨリさんも、めちゃくちゃ若いじゃないですか」
「君よりは、肉体的に六歳は老化しているよ」
「いやいやいや、佐藤さん絡みじゃしょうがないですよ。俺、ヨリさんと初めて顔を合わせた翌日の帰り道にも捕まって、全然知らない人達の模合にゲスト参加させられて大変でした」
「ああ、僕も経験があるな。あれは大変だった」

 互いに顔を見合わせて、苦労を知る仲同士の苦笑を浮かべた。

 ヨリは手紙を読んだ翌日に、拓実と連絡を取っていた。今回の提案者は姉の茉莉で、ヨリもそれを希望して三人で決めて、本日の土曜日に予定を組んだ。
 茉莉とは、腹違いの兄弟としては顔合わせをしていなかったので、ヨリは一昨日、会社帰りの拓実と共に彼女のいるカフェへ行った。

 彼女は全く予想していなかったようで、非常に驚かれた。探偵会社の件を拓実から「ごめん姉ちゃん!」と謝罪された時は、ポカンとした顔をしていた。

 腹違いの兄弟として、いざ三人で集まってみても実感も半ばだった。少しだけ気恥ずかしくて、なんだか妙な空気を漂わせてもしまった。おかげで彼女の同僚に、恋沙汰か何かかと勘違いされそになったほどだ。

『遠い従兄弟、みたいなものですかねぇ』

 あの時、茉莉は三人の思いをそう代表して表現した。

 ヨリとしては、事情なだけに交友は難しいだろうと思っていた。しかし不思議な事に、彼らはヨリが一歩身を引こうとすると引き留め、積極的に話しかけてきた。

 育った環境の違いか、性格の違いなのか。茉莉や拓実は、苦手意識さえ持っていないようだった。ケーキを食べよう、サンドイッチを注文しよう、と結局カフェで三人長居する事になってしまい、鈍いヨリもどうやら嫌われていないらしいと知った。

 というか距離を置こうとした発言をしたら、泣かれそうになったんだよな……。

 ヨリは感情が豊かな男ではないので、目の前でくるくる表情が変わる有澤姉弟に困ったりもした。よければ引き続きよろしく、と言ってみたら泣かれずに済んだ。

「ヨリさん、この前も思ったんですけど、ファッションセンスいいですね」
「適当だよ。面白味がないと言われる」
「それ、佐藤さんでしょ。絶対嘘ですよ」

 佐藤さん、たった数回しかあってないのにボロクソ言われてる……ヨリは、レンタカーショップのカウンターで書類にペンを走らせながら思ったりした。
 運転経験の少ない拓実を助手席に座らせ、ヨリがハンドルを握った。

 拓実の道案内で、茉莉と待ち合わせをしている彼女のアパートを目指した。土曜日は、日中と違った賑わいがあって、道路には車の列が出来ていた。

「本当に良かったのかな。君達の実家にある、墓前に手を合わせに行って」

 信号が青に変わるのを待ちながら、ヨリはまたしても訊いてしまった。提案をされた日から、何度も尋ねている事だった。

「いいんです。きっと父もそう望んでいると思いますし」
「でも、さすがに仏壇までは」
「何度も言いましたけど、母には、父と関わりのあった生徒だと紹介してありますから大丈夫だと思いますよ」

 拓実が、歩道を渡る通行人を目で追いつつ答える。

 血の繋がりの件に関しては、父の友人だった弁護士とヨリ達しか知らない。そう続けた彼が「それに」と、車窓へ目を向けたまま言った。

「俺が、あなたに父の事を知ってほしいと思ったんです」

 実家にある仏壇に、線香を上げませんかと誘ってきたのは拓実だった。家には父の写真などもたくさん残されており、アルバムもあるから見せたいのだと、姉と揃って提案内容は大きくなっていった。

 突然実家に上がり込んで大丈夫なのかとヨリは気にしたが、そうしたいと望んでいる自分もいた。亡き人のために、線香をあげて手を合わせたいと思った。

 信号が変わり、車が動き出した。

「仏壇に、親父の写真が飾ってあるんです。あと、書斎もそのまま残っていて」

 拓実は思い出すように語る。
「親父の本棚は、すごく古くて、幼い頃はそこで俺達の身長を測って切れ込みを入れて、母さんに『高価な本棚なのよ』と怒られたりしていました。ベランダからは庭の桜の木が見えるんですけど、親父はよく写真も撮る人で、母が丁寧にアルバムに収めていました」
「そうか」
「うん、そうなんです。……ねぇヨリさん、親父の部屋にも上がってみましょうよ」

 弱った顔を向けて、拓実が笑ってきた。

「なんだか、あなたともう少し早くから、同じ時間を共有出来たら良かったのにと思ったりしました」

 そう冗談めいた事を言われて、ヨリは車のハンドルを握ったまま小さな笑みをもらした。

「――多分、僕もそんな未来があるのなら、見たいみたいと思っただろう」

 そうヨリが口にし途端、拓実がおかしそうに笑い出した。

「ヨリさんって、難しい文学者みたいな人ですね」
「そういう君は、さっきの台詞が詩人か作家みたいだと思ったよ」
「俺に文学的な事は無理ですよ。でも、まるでドラマみたいな話ですよねぇ」

 慣れた運転に安心したのか、拓実がシートにボスッと身を預けた。

「誰かに打ち明けても、あまり信じてもらえそうにないですし、ドラマに仕立てるには定番ものか極端に王道から外れる気もするし……。あ、でも、いつか誰かが、俺達みたいな話を書く可能性はありますよね」
「ドラマにも話題にもならない、短い小説仕立てで?」
「そうそう、そんな感じです。あッ、でも気付けないだろうなぁ。俺、本はあまり読まないですし」
「僕だって、話題になっている推理小説の他は、あまり読まないよ」

 ヨリがふむふむと答えると、拓実がパッと目を向けた。
「推理小説って、やっぱりかっこいいですねッ」
「え?」
「あっ、いえ、なんでも……」

 途端に、彼が「しまった」という顔をして目をそらしていく。何か別の話題でも探そうとしたのか、落ち着かず視線を泳がせた後、無理やり話を戻した。

「えぇと、無理やりドラマチックに仕立てるとしたら、佐藤さんあたりが得意そうに思いました。もし頼んだとしたのなら、そのところどうなんですか?」
「もし脚本を頼んだとしたのなら、元の話が分からないくらいの、とんでもないものが仕上がると思うよ。多分、僕か君あたりがゲイに絡まれるか、ゲイになっているかの、どっちかだろうな」
「……確かに、やりかねませんね。嘘八百というか、むしろ全くのフィクションになりそうです」
「あの人は、それが女子受けすると思っているから」

 そこで、二人はハタと気付く。そもそも、そんな三流みたいな小説は出ないだろうと分かって、何を真面目に考えたんだろうと声を上げて笑った。

 それから間もなく、待ち合わせの建物の前に着いた。帰省用に、母への手土産を詰めた紙袋を抱えて待っていた茉莉が、車内を覗き込むなり驚いた顔をした。

「どうしたの、二人とも。泣けるくらい笑っちゃう事でもあったの?」

 彼女はそう言って、特に激しく肩を震わせる弟の後頭部に訝しげな目を向けた。ひとまずは「失礼しまーす」と告げて後部座席に乗り込む。

「姉さん、おはよう。ふッ、ふふふふ……傑作なんだ、これが」

 そう笑いながら説明する弟の横顔を、茉莉は仲間外れにされた子供のような目で見やった。頬を膨らませ、大層不機嫌な表情を作る。

「ちょっと拓実、私をのけ者にしないでよ。ヨリさんっ、私も混ぜてください!」