「あの、用がないのなら僕は戻るよ。これから仕事があるから……」

 午後に大きな仕事は入っていなかったが、ゆっくり進めている生徒達の課題のチェック作業は残してある。今は、猛烈にその仕事を早急に進めたい気分だった。

 すると彼女の眼差しが鋭くなった。私は、心を探られているような緊張感を覚えた。とにかく去るためには、この場で踵を返す方が得策のように思えた。

「じゃあ、僕は行くから――」
「待って。私が声をかけたのに、あなたは去ろうというの?」

 逃げようとした私のくたびれたコートの袖を、彼女の手がつまんだ。

 振り返ると、非難するような黒曜石の目と視線がぶつかった。どうやら、私が思っていた以上に彼女はとんだ自信家のようだ。自分は美しいから、と、こんな風に男を捕まえた経験を豊富に持っているのだろうかと、私は別の意味で眩暈を覚える。

「すまないが、見知らぬ君に声をかけられても、僕は去るよ」
「でも、私はあなたに用があるのよ。勝手に去られては困るわ」

 強く言われて、私は困惑した。

「……えっと、僕と君は、初対面で間違いないね?」
「そうよ。私は、あなたの事を何一つ知らないもの」

 問い掛ければ、彼女は数秒の迷いも見せず肯定してくる。

 どこか話がかみ合わない。状況はやや特殊なようだが、まるでナンパされているような気分だった。第一印象とは打って変わって、私は「勘弁してくれ」と思った。

 それとなく彼女の指をコートから解かせて、渋々彼女と向き合う。

 正面から改めて眺めても、どこか作りものめいた美しい女性だった。はっきりと整った顔立ちは少々の幼さを漂わせているが、大人びた印象がそれを許さないでいる。