昔、母がその男に出した条件は、たった一つだった。子が欲しいから、あなたの遺伝子だけをちょうだい、と勘で選んだ見知らぬ大人に声を掛けたらしい。

 当時、母は大学の卒業を控えていた身だった。そして、卒業後に子を産んだ。母から父親に関する情報はほとんどなく、そのせいもあって唯一教えられた名前だけが、頭にこびりついたというか。

 いつしか、心が大人びてくるに従って父親という存在に興味を失っていった。頭に刻まれていた男の名を、偶然にも新聞で見付けてしまったというだけだ。ただ、それだけの話なのだ。
 けれど彼は、じわじわと胸の底に積もっていくような、言いようのない喪失感の答えを探せずにいた。


 そうして本日もこの土砂降りの中、彼はまたしても傘を差して、有給休暇が始まって三日目の昼間も、昨日と同じこのカフェ店に入ったのだ。

 今日、彼女は出勤するだろうか。

 そんな事を考えながら、こんな事をしている自分の行動理由が分からずに困惑する。注文を取りに来た三十代くらいの女性店員に、今日もひとまずブラック珈琲を一つ頼んだ。

 頼んだ珈琲が運ばれてきた後、彼は湯気の立つカップの中を見下ろしながら、今回の行動のきっかけを思い返した。

 彼の事を、母親や友人は『ヨリ』と愛称で呼ぶ。あの新聞の一件以来、ぼんやりと過ごす事が多くなったある日、会社の先輩である佐藤に声を掛けられたのだ。

『ヨリ、最近どうした?』

 佐藤とは飲みにいく仲ではあったが、深いプライベート部分を話すのも気が引けた。だからヨリは、ちらりと見ただけの何かがずっと頭に引っ掛かっているのだ、とだけ答えた。

 すると、佐藤はこう言った。