よく分からない女性でもあった。昔から一緒にいる母親ではあるけれど、彼の知る限り、どこもかしこも美しく機械みたいに隙のない完璧な女性だった。

 だから、彼女らしい反応と解答であるとも思えた。彼女は、関心のある物事の優先順位に必ず自分を中心に据え、どことなく喜怒哀楽の着眼点がずれている感じもあった。母親として、美容会社の社長としても完璧であるけれど、息子の彼にさえ真意が見えず理解できない部分も多い。

『ねぇ、そんな事より、今度の食事だけれど紹介したいお店があるのよ。私の会社で働いていた増田君って人、いたでしょう? 料理の修業に出て、ようやくこっちでレストランをオープンさせたのですって。日程は追って連絡するから、ちゃんと空けておいてね。じゃあね、可愛い私の子』

 彼の父親に関する話題は、たったその一言だけで終わってしまった。

 ――だが、おかげで確証は得られた。

 彼の父親は死んだのである。新聞に乗っていた葬式の案内は、彼本人であった。

 一人の人間がいなくなっても、こうして世界は何事もなかったかのように進み続ける。彼自身に関わる生活にも、なんの変化もない。眼前に広がる光景も、自身に関わる物事にも変化さえない日常が続いていく。

 たった一人、名前だけしか知らなかった男が、この世から永遠に失われてしまった。それだけだ。あの男は、自分のことさえ知らないまま死んでいったのだろう。

「……僕だけが知っているばかりで、彼は僕の事など知りもしない」

 彼の口の中に、ぽつりと落ちた呟きが、雨を凌ぐために来店してきた多くの客の喧騒に埋もれた。