僕は拙い恋の始まりを紐解く

『そうそう。これで相手が女だったら、「いい声をした男が、期待を裏切らないイケメンで恋に落ちる」とかいう展開なる可能性だってあるし、それはそれで実に俺好みだったのに。はぁ、残念でならねぇぜ』
「何を期待しているんですか。何度も言いますが、僕の顔は平均点ですよ。佐藤さんに恋人が出来ない事が不思議でなりません」
『お前の美意識の基準点がわからねぇよ。そんで、ついでに俺をグサッとさすのもやめよう、お前が隣にいると余計にモテいんだよ。』

 ま、そんな事はどうでもいいんだ、と佐藤は話を戻した。

『あいつ、なぁんか俺の好奇心をくすぐるんだよなぁ。うん、ヨリ、お前暇はあるだろ? いや、暇を持て余しているよな』
「佐藤さんの中では、僕が暇なのは決定事項なんですね」
『じゃ、また後で連絡するぜ』

 佐藤は何やら勝手に納得して、一方的に電話を切った。

 実に楽しそうな声だったので、嫌な予感を覚えた。通話が終わった携帯電話を見降ろし、ヨリはしばらく小難しい表情を浮かべていた。

「……まさか、また何かろくでもない事を悪巧んでいるんじゃないだろうな」

 三十代後半にして落ち着かない男。それが会社内で有名な、佐藤の一面だった。面白い事を求めるためならば、時間も苦労も惜しまないという姿勢である。

 最近だと、ツイッターで新妻との旅行の様子を中継していた、連続休暇中の南雲の出先に現れた、という事もしでかしていた。

 佐藤は午後に急きょ有給を取ると、わざわざ驚く南雲の写真を撮るためにスーツ姿のまま電車に乗り込んだ。彼の妻にはちゃっかり「サプライズです」と課長からの手土産を持たせて喜ばせ、南雲のびっくりした様子に腹を抱えて笑いまくった後、課長と他の社員にその時の写真を見せて回っていた。
 とはいえその半面、佐藤は同僚想いで世話焼きの一面もあった。長期休暇に入る前、少し気にした様子で「暇なら飲みに行こう」と軽く言葉を交わしていた事を思い出した。

 佐藤は気分が乗った際に、行く店を決める男だった。飲みに付き合わされると、時によっては何軒か連れ回される事もあるが、ヨリは長期休暇の真っただ中である。

「……まぁ、それくらいなら、いいか」

 彼は携帯電話をポケットにしまうと、傘を開き、やまない雨の中を歩き出した。

          ※※※

 カフェ店からアパートへと戻った。しばらく経った頃、ソファの上で雨の音を聞きながら、うたた寝したヨリは妙な夢を見た。

 それは、顔も知らない男の葬式の夢だった。

 葬式の主役である男が、細い体に白装束をまとって分厚い手紙を広げて立っている。その顔は見えなくて、彼は自分のために集まってくれた親族や友人達に、自ら別れの言葉を告げていた。

 葬式の参加者達は、細い嗚咽を上げていた。私語はせず、ただただ悲しみに泣きながら、広い畳み間で姿勢よく座って、その男が語る最期の言葉に耳を傾けていた。

 男はしわがれた、けれど愛情の深さを感じる穏やかな口調で、一人一人の名前を読み上げては丁寧に礼を述べていく。妻へ、二人の子共へ、それから親戚兄弟へ、友人達へ。世話になった恩師や先輩へ……。

 彼は思い出深いエピソードを交えながら、思い残す事などしないかのように一つずつ丁寧に話し、集まった者達へ温かい言葉を送っていった。

 夢の中で、ヨリは、参列者達の後ろに立ち尽くしていた。白と黒で統一された会場の中で、ただ一人普段着だった彼は、自分の居場所を見付けられないでいた。
 男がどんな表情をしているのか、気になってもいた。しかし目を凝らしたが顔は見えず、声だけでも覚えておこうと耳を傾けるものの、何故か耳からこぼれ落ちていくかのように記憶に刻まれてくれない。

 本人から語られる最期の別れは、長々と続いた。ようやく終わりを迎えたが、とうとう、そこにヨリの名は出てこなかった。

 もとより、自分の存在はないも同然なのだ。父親となったその男だって、こうして生まれて育っている事さえ知らないのだから、当然なのだろう。

 ――でも、と、ヨリは男と自分の関係を思った。

 昔、父親の存在が気になっていた頃、母にお願いして会いに行っていたとしたのなら、この結果は変わったのだろうか?

 この男が、ただ血を分けてくれただけの赤の他人だとは分かっている。あの当時、ヨリも自分の家庭を、他の家庭と比べる事をやめて同年代の誰よりも早く大人になった。

 それでは今、感じているこの感じはなんだろう?

 ヨリは、男に名前を呼ばれなかった事に、落胆に似た胸の静まりを覚えていた。

 夢の中の男が、手紙を閉じた。会場の前列で顔を伏せていた若い女が、自身の白い手で顔を覆い隠しながら、とうとう大きな声でさめざめと泣いた。

「私も愛しているわ、お父さん」

 聞き覚えのある声だった。ああ、彼女は茉莉だと、ヨリはここにきて気付いた。それでは彼女の隣に腰かけ、その肩を抱きながら腕を震わせているのは「弟」の方か。

 ――けれど、仕方ないじゃないか。

 ヨリはここにきて、ようやく今の自分を、少しだけ分かった気がした。それが知らない赤の他人だとしても、死んだその男が、血を分けてくれた父親である事にかわりはない。

 たとえ、父親本人も、世界中の誰が知らなくとも、ヨリは彼の名前を胸に刻みつけて忘れられないでいるのだ。

 血のつながりとは、結局、そういうものなのだろうと思った。
 妙な夢を見た翌日も、窓の外は変わらず雨景色が続いていた。激しさは少し和らいで、雨粒が一定の速度でもって窓を叩いて濡らしている。

 こうも雨が続くと、部屋干しにも限度を覚えた。ヨリは乾燥機を利用する事を決め、濡れた服の入った袋を持つと、一階に設置されているコインランドリーへと向かった。

 エレベーターで一階へと降りた時、二年前からよく見かけるようになった金髪の若い男とあった。金のチェーン・ネックレスが白い肌に映える美男子だ。

「おはようございます」

 その男は、いつも愛想良く挨拶する。いつも早朝一番に帰ってくる彼は、派手なスーツに女物の強い香水の匂いと、ウイスキーのような甘ったるい酒の香りをまとわせていた。

 ヨリも、条件反射のように「おはようございます」と言葉を返した。いつもならそこで終わるので通り過ぎようとしたら、そのまま男が足を止めてきた。

「洗濯物ですか? 雨が続くと、大変ですよね」

 持っている袋へと指を向けられ、そう言われた。

「そうですね。スーツはクリーニングに出せても、こればかりは」
「俺、大半はクリーニングに世話になるような服ばかりで、店の方で対応してくれるので有難いんですけど、少ない部屋着にしてもこう雨が続くと大変ですよ。部屋に干すと妙な匂いがするから」
「柔軟剤と消臭スプレーを使っても、あの匂いはなかなか取れませんからね」

 ヨリが同意してうんうんと頷くと、男が思い出したように小首を傾げた。

「そういえば、今日はスーツじゃないんですね。お休みですか?」
「有給休暇中なんです」

 いつも擦れ違い際は、お互いスーツのことが多かった。よく見ているんだなと、ヨリはそんな事を考えてしまう。
 すると若いその男が、どこかおかしそうに笑った。整った顔に浮かんだ微笑は、格好つけて颯爽と歩く姿からは想像出来ないほど、どこか若々しさを感じさせるものだった。

「会社勤めかぁ、いいですね。朝が早いのは厳しいけど、週末は休みだし有給もある。でも、まっ、俺はこの仕事があるからなぁ」

 男は、残念そうでもなくそう呟いた。根っからの接客向けの性格をしているのか、スムーズに次の言葉を切り出してヨリに言う。

「足を止めさせて、すみません。今日はつい、話しが続いてしまって」
「いえ。僕の方こそ、なんだかすみません」

 ヨリが、慌てて会釈を返すと、彼が自然体な感じで笑った。

「いやいや、話せてよかったです。俺、あなたと挨拶するのは嫌いじゃないですから」

 彼はそう告げると、慣れたように手を振ってエレベーターに乗っていった。

 顔を見かけたら、今後も引き続き挨拶してくれるという事だろうか。迷惑ではないかな、とか、たまにチラリと考えてしまったりしていたもいた。

「まぁ……それならそれで、いいのか」

 ヨリは、彼に対して少しだけ肩が軽くなるのを感じつつ、目的の場所へと足を進めた。

 一階にあるコインランドリー室には、他の人の姿はなかった。彼が洗濯物の仕上がりを待っている間に、スーツや学生服の人がまばらに扉前を通り過ぎて外へ出ていった。

 外の雨は、変わらずやむ気配がなかった。時刻は午前七時を過ぎていたが、夕暮れ時のようにどんよりと薄暗かった。

 乾いた洗濯物を持って、部屋へと戻った。

 家事を済ませた後、外に出る気も起こらず、読んでいなかった推理小説を持ってリビングのソファに腰を下ろした。

 書斎机に置いてある、例の報告書の存在がまた脳裏を過ぎった。新たな興味などは出ておらず、一度目を通した内容を、再び確認するような好奇心はわかない。
「…………僕は、いったい何をやっているんだろうか」

 何度目か分からない呟きが、ふっと込み上げた。

 見知らぬ人間に調べられているのは、決して気持ちのいいものではないだろう。そこを理解していながら、ヨリは探偵会社を利用してしまっていた。

 ――よし。あれは、もう捨ててしまおう。

 昨日、見かけた茉莉の姿を思い起こした途端、ヨリはそう思い立った。本を閉じて自室へ向かうと、机の上の報告書を手に取った。

 一応は個人情報だ。シュレッダーはなかったので、ハサミで細かく切っていく事にした。父親である男の名前ものった報告書は、はらり、はらりと紙くずとなってゴミ箱に落ちていった。

 今の自分に、多くの時間がある事を考えると、いよいよ何かをやる気になれなかった。読書にも気が向かず、テレビを付けて適当なチャンネルで番組を流し見た。

 やがて、会社で耳にした名前のドラマが始まった。男女の恋愛が絡んでとくに人気であるらしい、とは聞いていたが、とくに胸に響いてくるものはなかった。

 ――自分の母はどうだっただろうかと、なんとなく考えさせられた。

 ヨリが知る限り、彼女はテレビの中の女性のような「青春」や「恋愛感」のイメージはなかった。物心付いた頃には女社長をやっていて、家で会社の愚痴や弱音をこぼす事は一切なかったし、昔から合理的な理由以外にあまり他者へ関心を示さなかった。

 けれど母には、その欠点を補うかのような母性愛が存在しているのも確かだった。

 彼女は「世界で一番」と堂々と口にし、ヨリを溺愛している。自分が腹を痛めて産み、自分の血を受け継いだ特別な子なのだと、彼女は何度だってそう口にした。

 それは愛なのかと、ヨリは幼い頃に尋ねた事がある。

 母は、いつもの妖艶な笑みを浮かべた。それ以外の喜怒哀楽の片鱗を、彼はあまり見た事がない。すると彼女は、お決まりの台詞を交えてこう言った。
『これは愛よ。私は、お前以外の人間なんて要らないもの』

 そんな母を見て、ヨリは彼女が、本当に自分の子だけが欲しかったのではないか、とも思ったりした。彼には理解出来ない信念で、確かにそれをやってのけたのだ、と。

 気に入ったのは、雰囲気と容貌。それから、顔にあったホクロ――だとか。

 母は、ヨリの「父」について多くを語らなかった。探偵に依頼した時は不安もあったものの、調べてみると、相手となったその男が、案外平凡だった事も彼を驚かせた。

 探偵会社が調べた父親の性格は、温厚な文学青年だった。結婚も、見合いから恋愛に発展してのものだったらしい。退職するまで大学教師卒を勤め、多くの生徒に慕われた。

 母と出会った当時の事は、若気の至りもあって出来た事だったりするのだろうか。愛や情もなく、そうして彼はなんでもなかったかのように結婚していった……?

「僕には、無理だなぁ……」

 想像してポツリと口にした。そもそもヨリは、女性にどれくらいの力で接すればいいのか、どうすれば怖がらせないで済むのか、いまだ考えているところだ。
 だからだろうか。子だけが欲しかったという母と、それを提案されて受け入れた男に対して、どんなやりとりがあって合意されたのだとか、想像しても謎だらけだ。

 ――直に会った際に、尋ねてみようか?

 ヨリは、壁に掛かっているカレンダーへと目をやった。先日の電話で、母は紹介したい店があると言っていたから、しばらくもしないうちに食事の詳しい日時の連絡があるだろう。

 しかし、その案についてはすぐ諦めた。

 これまでも尋ねた事があるのに、この現状だ。彼女は、いつだって自分かヨリの事しか関心がない。

 良いも悪いも、ヨリは深く考えず悩まない生き方をしてきた。彼自身、曖昧なままに終えてきてしまったものも多い。それが、これまでの彼の生き方だったはずだ。

「僕は、何がしたかったんだろうな」

 目を閉じれば、何故かゴミ箱の中を満たした紙屑が思い浮かんだ。
 佐藤から連絡があったのは、調査報告書を処分した当日だった。

 着信があったのは午後六時前。定時が五時過ぎなので、少し残業があったようだ。かかってきた電話に出てみると、がやがやと賑わう社内の様子と、それを大急ぎで通過しているらしい佐藤のどこか楽しげな息使いが聞こえた。

『今日、飲みに行くぞ』

 ヨリが電話に出るなり、佐藤はそう切り出してきた。

『ようやく今日捕まえられそうなんだ』
「はぁ、『掴まえる』……いったい何をですか?」

 呆れつつ耳をすませていると、彼が社外へ出たのが分かった。佐藤は手を上げてタクシーを止めたようで、運転手に行き先を急ぎ告げるのが聞こえた。

「佐藤さん、急に言われても、僕はすぐに家を出られませんよ。洗濯物だってこれからたたむのに。準備する時間くらいは欲しいです」
『お前、女子みたいな事を言うなよ。まぁ集合は七時くらいに予定るからさ、問題ないだろ?いつもの店で、しっかり飯を食おうじゃないか』
「それじゃ僕が、まるで家では料理をしないみたいに聞こえるじゃないですか」
『イケメンで料理まで出来る男なんて、俺は認めんぞ。お前の手作り弁当を見た女子の評価の高さを、お前は知らないんだ』

 佐藤は、なんだか悔しそうに愚痴ってきた。運転手に『どう思います?』とわざわざ尋ね、タクシンーのおっちゃんが『分かりますわぁ』と調子よく相槌を打つのが聞こえた。

 相変わらず、よく分からない事を言う人だ。

 ヨリは、そのままタクシーの運転手と会話を始めた佐藤の声を聞きながら、ちらりと眉を寄せた。弁当に関しては、買うより持参した方が安いから作っているだけであって、それの何が悪いのか分からない。