男がどんな表情をしているのか、気になってもいた。しかし目を凝らしたが顔は見えず、声だけでも覚えておこうと耳を傾けるものの、何故か耳からこぼれ落ちていくかのように記憶に刻まれてくれない。

 本人から語られる最期の別れは、長々と続いた。ようやく終わりを迎えたが、とうとう、そこにヨリの名は出てこなかった。

 もとより、自分の存在はないも同然なのだ。父親となったその男だって、こうして生まれて育っている事さえ知らないのだから、当然なのだろう。

 ――でも、と、ヨリは男と自分の関係を思った。

 昔、父親の存在が気になっていた頃、母にお願いして会いに行っていたとしたのなら、この結果は変わったのだろうか?

 この男が、ただ血を分けてくれただけの赤の他人だとは分かっている。あの当時、ヨリも自分の家庭を、他の家庭と比べる事をやめて同年代の誰よりも早く大人になった。

 それでは今、感じているこの感じはなんだろう?

 ヨリは、男に名前を呼ばれなかった事に、落胆に似た胸の静まりを覚えていた。

 夢の中の男が、手紙を閉じた。会場の前列で顔を伏せていた若い女が、自身の白い手で顔を覆い隠しながら、とうとう大きな声でさめざめと泣いた。

「私も愛しているわ、お父さん」

 聞き覚えのある声だった。ああ、彼女は茉莉だと、ヨリはここにきて気付いた。それでは彼女の隣に腰かけ、その肩を抱きながら腕を震わせているのは「弟」の方か。

 ――けれど、仕方ないじゃないか。

 ヨリはここにきて、ようやく今の自分を、少しだけ分かった気がした。それが知らない赤の他人だとしても、死んだその男が、血を分けてくれた父親である事にかわりはない。

 たとえ、父親本人も、世界中の誰が知らなくとも、ヨリは彼の名前を胸に刻みつけて忘れられないでいるのだ。

 血のつながりとは、結局、そういうものなのだろうと思った。