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 そうして長いこと泣きじゃくっていたきららちゃんは、やがて電池が切れたように深い眠りについた。

 よほど気が張り詰めていたのかもしれない。小宮さんやお医者さんにも本当のことを話そうと決心した矢先のことだったので、意識を手放した彼女の代わりに私が小宮さんやお医者さんに一部始終を報告すると、状況は慌ただしく動き始め、しばらく外で待っていて、と告げられて再び私は病室の外で一人の時間を過ごすことになった。

 手持ち無沙汰にナースステーション脇のベンチに腰をかけ、意味もなく自販機を眺めながらぼんやりしていると、穏やかな空間を打ち破るようなけたたましい声が聞こえてきた。

「だからぁ、単に転んだだけって本人が言ってんだろ?? なんで俺らのせいになんだよ、あ?? 火傷痕なんて俺は知らねえって言ってんの! あいつバカだから風呂の後にしょっちゅう裸でうろうろしてるし、俺もくわえタバコしたまま疲れて寝てたりするから、転んだ時にうっかり(・・・・)あたっちまっただけじゃねえの?」

「すみません佐藤さん、大きな声出さないでください! 申し訳ないですけど今警察の方がこちらへ向かってますから。説明ならそちらでなさってください」

「はあ?? なんで警察がくんだよ! 誰がなんのために呼んだんだよ? 喧嘩売ってんのか?? おい香澄(かすみ)! この話のわかんねえババアどもになんとか言ってやれよ! あのバカ連れてとっとと帰ろうぜ」

 とても良い大人とは思えない口汚い言葉で看護師長さんを罵るその巨体男――佐藤というらしい――は、隣にいる金髪の若い女性を睨みつける。するとその女性は、

「ごめんねヨシ君? はあ、ホントにさあ、ちょっと転んだだけだっていうのに大家のおばちゃんが勝手に連絡してくれたお陰でとんだ災難だよねえ。この病院の人たちみんな感じ悪いし、イキナリ警察呼ぶとかマジやっばー。看護師さんー、マジであの、警察とか迷惑なんで早く綺羅良返してくれます? 心配しないでも、もう二度とこんな病院こないんで」

 ヘラヘラ笑いながら、さも迷惑そうにそう宣った。

 どこか聞き覚えのある口調。どこか似ている目元。彼女の口から確かに飛び出した『綺羅良』という名前。

 すぐに彼女がきららちゃんの母親であること、そして隣にいる男が件の暴力男だとわかり、全身の血が熱り立つような感覚に陥る。

 落ち着け、落ち着け私。

 目の前で繰り広げられる理不尽なやりとりに感情を奪われないよう必死に心を宥めたが、

「そっ、そういうわけにはいきません、きららちゃんは重症なんですよ?? もう、あと数分もすれば警察の方がいらっしゃいますから……って、佐藤さん! ここは禁煙です! 煙草、消してください!」

「うるせえなあ。おめえらがチンタラしてっからヤニが切れちまったんだよ! あのガキここに連れてくるまでぜってぇ火ィ消してやらねえからな。それが嫌ならさっさと連れてこいっつってんの!」

「そうだよ、早く綺羅良返してよ?! っていうかさあ、誤解だって言ってんのにそんなにうちらをギャクタイの犯罪者みたくしたいわけ? 冗談じゃないっての。仮にうちらが原因でできた傷だとしても、全部躾の一環だしねー。自分の子どもをどうしようが私らの勝手じゃん?」

 男が支離滅裂な主張をして煙草に火をつけ、きららちゃんの母親の口から無責任な一言が放たれた瞬間、私の中で何かが弾け飛んだ。

 ――自分ノ子供ノ進路ヲドウシヨウガ私ノ勝手ダロ?

 触れてはいけない場所を強く刺激されたような、思い出したくない過去を無理矢理引き摺り出されたような。

 なんとも言い難い感情が電流のように全身を駆け巡り、頭にカッと血がのぼった瞬間、気がついたら体が勝手に動いていた。

 近くに置かれていた配膳用ワゴンからピッチャーを掠め取り、看護師長さんに絡んでいる男女二人目がけて直進する。

「こ、困ります、いいから火、消してください! いい加減にしないと……って、え?」

「……あん?」

「え、なに?」

 ごねている男と看護師長さんの間に徐に割り込んだ私は、一同が虚を突かれてポカンとした瞬間に、思いっきりピッチャーの水をごねている男女の顔面めがけてぶちまけた。

「⁉︎」

「うおッ」

「きゃあっ」

 ビシャアッと派手に飛び散る水。男女は見事にずぶ濡れになり、騒然とするその場。

 看護師長さんは呆然と目を見開き、近くにいた看護師さんたちも口をあんぐりと開けて放心している。構わずに私は、空になったピッチャーをその場に放り投げると、消えかけの煙草を持ったまま唖然としている男目がけて思いっきり殴りかかってやった。もちろん、グーで。

「なっ、な、な……」

 さすがに予想不可能の不意打ちには大きく揺らいだ巨体。残念ながらノックアウトとまではいかなかったし、勢いづいて繰り出した二発目は軽く交わされてしまったけれど、それでも――。

『もし次にどこかでばったり出会うようなことがあったら、絶対二発……いや最低でも確実に一発はぶん殴ってやるって決めてるんだー』

 きららちゃんのあの言葉の通り、確かに最低一発はぶん殴ってやった。

「なにしやがんだてめえ!」

うっかり(・・・・)です。悪気はありませんでした」

「なっ……ふ、ふざけやがって!」

 顔を真っ赤にして憤りを露わにする佐藤。

 髪の毛を掴まれ、引っ張られ、私の右頬に向かって仕返しの張り手が飛んできて激痛に顔が歪むけれど、奥歯を食いしばって悲鳴を飲み込んだ。

「さっ、佐藤さん! 暴力はやめてください! あなたも少し落ち着きなさいっ!」

 看護師さんたちが慌てて私と佐藤を引き裂き仲裁に入る。

 看護師さんの一人に取り押さえられても私の溜飲は下がらず、諦めずに二発目を入れてやろうと必死に腕を振るったが相手には全く届かなかった。

 そんな私を見て、傍にいた金髪女性がものすごい剣幕で金切り声をあげる。

「ちょっとちょっとちょっと! なんなのこの子?? 頭おかしいんじゃないの?? 冷たいしマジ最悪なんだけ……」

「きららちゃんはアンタのペットじゃない!」

「……っ⁉︎」

 でも私は、それを遮った。

 自分の中に宿った激情の灯火に心を委ねるよう、彼女よりも大きな声で、憤懣やるかたない思いを全てぶつけるように。

「きららちゃんはずっと、アンタと二人で暮らせることを楽しみにしてたのに! ずっとずっと信じて待ち続けて、怪我した今でさえアンタのことを守ろうとしてたのに……!」

「は……はぁ? なに言ってんのこの子。ていうかあんた一体誰な……」

「うるさい! アンタらの躾なんか受けなくてもきららちゃんはアンタらなんかよりずっと大人で思いやりがあって立派な人間だから!」

「……っ」

 まるで失われた過去の自分が、全身でそう叫んだかのようだった。

 口をあんぐり開けたまま絶句するきららちゃんのお母さん。

 言いすぎたかもしれないとは微塵も思わなかった。言いたいことがありすぎる今の私には、これが精一杯の自制だったから。

「ちょ、唯川さんっ何してるの!」

 騒ぎを聞きつけ、血相を変えて飛んできた小宮さんに宥め賺され、ようやく私は自分に歯止めをかける。その直後には通報で駆けつけた警察の人も加わり、二人は散々揉めるに揉めた後に警察の人と一緒に病院を出ていった。

 彼らがいなくなるとあたり一帯にはまるで嵐が去った後のような静けさが戻り、看護師さんや小宮さんからは〝どんな事情があろうと、手だけは出しちゃ駄目よ! 〟と、改めてきつく叱られたけれど、それ以上のお咎めはなく、今回に限っては『子どものした事だから』の一言で最終的には片付けられた。

 私自身殴り返されていた事もあり、喧嘩両成敗といったところだろう。自分の行為を正当化するつもりはないが、きっと、あの場にいたみんながきららちゃんの味方だったから、寛大なお許しをもらえたに違いなかった。