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「きららちゃん、唄です。お見舞いにきたよ」

 病室の扉をノックし、声をかける。

「……」

 中から返事はない。外で待つという小宮さんに頷きを送り、部屋の扉を開けた瞬間――私の不確実な自信は脆くも崩れ去った。

 やや痩けた顔面についた腫れ上がるほどの痣、薄紫色の唇の端に痛々しく滲む血液、頭、腕、手の甲には皮膚を覆うほどの包帯――。

「きららちゃん……」

 そこには、いつものように瑞々しい笑顔を浮かべる彼女の姿はどこにもなかった。

 見るも無惨な痛ましい姿に、言葉を失う私。

 外を眺めていた彼女は力のこもらない眼で私を見つけると、苦笑するように腫れた唇をゆっくりと動かした。

「うた、ちゃん」 

 どうしよう、何か言わなきゃ。

「きてくれたんだ、ありがとう」

 何かって何だろう。

 ――大丈夫? なわけないよね。

「あは。えっと、ちょっと、転んじゃって」

 これが転んだ――?

 どう見たって無理がある。

「びっくりしたでしょ。なんか、あんなにイキって出ていったのに、アホすぎてやっばーってカンジだよね私」

「……よ」

「小宮さんとか、お医者さんとか、みんなに心配されちゃったけど、私は大丈夫だから。だからさ、ウタちゃんも……」

「無理して笑わなくていいよ」

 いつもの笑顔じゃない、繕われた人形のような笑顔に思わず本音が溢れた。

 きららちゃんの動きがぴたりと止まり、偽物の笑顔が固まる。

「大丈夫なわけないよ。すごく痛そうだもん」

「……」

「辛い時は辛いって言っていいんだよ。私だって、内心どん底で、真っ暗で、心が苦しくて悲鳴あげてた時に、きららちゃんが励ましてくれたから救われたし、元気になれたんだもん」

 駄目だな、私。

 小宮さんに期待されてここまでやってきたのに。

 彼女のためにできることなんて何一つなかったって痛感するしかなくて。

 自分の無力さにどうしようもなく心が抉られそうになる。

「だから……私にまで嘘なんかつかないで」

「……」

「私は、きららちゃんの心が休まるまで、ただ、そばにいられればそれでいいから」

 怒りか。悔しさか。憎しみか。

 じわじわとこみ上げてくる震えを堪えるようギュッと手を握りしめてそう告げると、きららちゃんはやがてうつむき、苦笑するように重く長い息を吐き出した。

「参ったなあ……。それ、今の私に一番ぐっときちゃうヤツ……」

「きららちゃん……」

「……」

「……」

「正直に話したらさ……ママも、わたしも、これからどうなるんだろうって……不安で。だから黙ってようって、そう思って……大人のひとなら何とかやり過ごせると思ってたんだけど……でも」

「……うん」

「唄ちゃんには、嘘ついて嫌われたくないっていうか」

「……」

「そばにいると、いろいろ喋りたくなるっていうか……」

 彼女の目線が何もない虚空に刺さり、何度も何度も躊躇いながら言葉を選ぶように唇を動かす。

「ねぇ、うたちゃん」

「うん」

「きいてもらっても、いい?」

「うん。いいよ」

「その……わたし、ね……」

「うん……」

「ママに、嘘つかれてたみたい」

 そうして吐き出された言葉は、辛い現実を私たちに突きつける。

「綺羅良を優先するって……あの暴力男とも別れたって……だからこれからは二人で幸せになろうって、そう言ってくれたのに……全部嘘だった」

 一体、彼女が何をしたというのだろう。

「あいつと別れてなかったし、結局きららよりもあの男の方が優先だったし、いつの間にか仕事も元の仕事に戻ってた」

 あんなに無邪気に笑って、あんなに幸せそうに母親の元へ戻っていったというのに。

「わたしは都合よくそこにいればよくて、あの男に殴られてても蹴られててもママは笑ってるだけで助けてはくれなかった」

「……」

「情けないよなあ、わたしさ、もしまたあの男に会ったら最低でも一発は殴るって決めてたのに、掴みかかることすらできずにこんなにボコボコにされて、身体中にタバコの火傷痕までつけられちゃったんだよ。まだ嫁入り前だっていうのに、ひどいよねえ」

 ぼたぼたとこぼれ落ちる涙が、彼女の頬に張り付いたガーゼに吸い込まれていく。

 たまらなくなってきららちゃんをそっと抱き締めると、彼女は私の肩にもたれながら咽ぶように泣き出した。

「辛かったね」

 私の呟きに彼女は小さく頷いて、「辛かった、し、痛、かった」と、正直に吐露する。

 か細い訴えに、たまらなく心が痛む。

 そうだよね、よく頑張ったね、と何度も頷きを繰り返して、優しく背を撫でると彼女は一層嗚咽を強め、

「なんでママはわたしを産んだんだろう……」

 そう漏らして、しばらくの間、感情のままに泣きじゃくっていた。

 私は、暴力男はもちろん、彼女の母親の裏切り行為に対して言葉にできないほどの憤りを覚えていたが、その感情を口や顔に出さないよう必死に押し殺した。

 だって、彼女はこんな時でさえ「私、ママに嫌われちゃったかな」と、しきりに口にしていたから。

 彼女にとって、きっと母親の存在はそれほどに大きいものだったのだろう。

 ひどく皮肉で理不尽な話だけど、でも、私にも少しだけその気持ちがわかる気がした。

 私も、いまだ思い出せない母親の優しい笑顔を、心のどこかで焦がれていたから。

 それは愛情というべきか、それとも呪縛というべきものなのか。

 今はまだ思い出せずにいるけれど、自分にとって欠くことのできない存在であることに、変わりはなかった。