「ちなみにさ、今はまだなにも思い出せない感じなの? 嫌だったら無理には聞かないけど、私にも何か協力できないかなって」

 嫌なわけはない。どんな現実が待っているにせよ、自分のことぐらいきちんと把握しておきたいので、協力してもらえるのはむしろありがたいぐらいだった。

「ありがとう。全然嫌じゃないんだけど、それがまだなにも思い出せないんだよね。せめて制服着て病院に搬送されてれば、どこの中学だかすぐにわかってたと思うんだけど……」

「そうかあ。じゃあさ、その搬送されたっていうのはこの近くの病院?」

「えっとね、『そうま総合病院』ってところだよ」

「……! それ、うちの学校に通ってる一個上の先輩のお父さんが経営してる病院だ」

「そうなの?」

「うん! ってことは、事故があった現場とか住んでる場所もその付近だった可能性ない?」

「言われてみればそうかも」

「病院近くの中学校って、私が通ってる学校含めて二校しかないから、唄ちゃんと私が同じ学校の生徒だって可能性もあるよ!」

 その発言にはっとする。だとすれば、彼女の制服に見覚えがあった気がしたのにも納得がいく。しかし……。

「いやでも……私は見かけたことないなあ。うちの学校広いから、学年違うと顔を合わせる機会が少なくて、部活や委員会で一緒にならない限り見かけないのは当然なんだけどさ」

「そっかあ……」

 一瞬希望が見えかけたものの、残念ながらそう簡単には謎が紐解けなかった。

 腕組みをしたきららちゃんは、今一度、思い当たる節がないか探るように思案を巡らせている。せっかくなので、私は気になった点を聞いてみることにした。

「ねえ、きららちゃん」

「うん?」

「その学校の先輩のお父さんって、『相馬翔平』先生のことかな? 私の主治医だった先生なんだけど……」

「え? うーん……いや、名前まではわからないけど、でも確か、その院長先生は普段ほとんど診察に出てこないって聞いたことがあるから違うかも?」

「あ、そっか。院長先生か。だとしたらやっぱ違うや……。相馬先生は普通に〝先生〟って呼ばれてたし。単に家族の人か何かなのかなあ……」

 相馬先生が院長または親族だったところでだからどうなるという話でもないのだが、なぜか妙にそのことが引っかかっていた。

 そもそも〝相馬〟ってそんなに聞かない苗字だし、相馬先生は初対面なのにやたら私に親切だった気がしている。私が未成年のワケアリ患者だからかもしれないけれど、それにしてもどこか特別待遇のような……。

 そんなことを考えていたら、きららちゃんがなんとはなしにぽつんと言った。

「ちなみにお父さんの名前はわからないけど、息子の……先輩の方の名前は蓮王(れお)ね、ソウマレオ」

 ――ソウマレオ。

 彼女の口からその名前がこぼれ落ちた瞬間、ざわりと無性に全身の血が騒いだ。

「……っ」

 なんだろう、妙に胸が騒ぐ。

「その先輩さぁ、めっちゃイケメンで頭もいいらしいんだけどこの辺りじゃ有名な問題児なんだよね。お父さんが有名な大病院の院長で権威のある人だからみんな逆らえないっていうか」

 ――ソウマレオ、レオ、蓮王……。

「いつも取り巻き従えてて、学校の先生でさえ手におえなくて、気に入らないことがあるとシメられるって噂なんだけど、逆らえば怪我した時や家族が病気になった時にきちんと診てもらえなくなっちゃうから、みんな先輩の言いなりになっちゃうみたいな」

「……」

 ――取り巻き、問題児、シメる、言いなり……。

「なんか小学校の頃からそんな感じだったらしいんだけど、この辺は学校の数が少なくて私立に行かない限り幼稚園から中学卒業までほとんど顔ぶれが変わらないみたいだから同じ学年の人は特に大変だよね?」

 ――相馬 蓮王。

 ふいに脳裏に稲妻が走るよう、学生服を着た黒髪の男子生徒の顔と、音の出ないピアノの映像が一瞬だけ浮かんだ。

 次いで、全身にぶわっと鳥肌が立つような感覚。

 なんだろう、今の。

 ピアノはともかくとして意地悪な顔で笑う男の子の顔を、もっと鮮明に、より深く思い出そうとすればするほど、ひどく胸が苦しくなる。

「そうそう、相馬先輩といえば私の友達も先輩に片想いしててさあ……って、唄ちゃん?」

「……」

「唄ちゃん、大丈夫?」

「……え? あ、ごめん。大丈夫……」

「どうしたの? もしかして何か思い出したりした?」

 私の異変を感じ取ったのだろう、きららちゃんが心配そうに顔を覗き込んでくる。

 素直に肯定を示したいところだが、それにしては見えたものが断片的な映像すぎて今いち判然としない。

「なんかそんな気がしたんだけど、本当に一瞬だったからそれだがなんだったのかもよくわからなくて……」

「え、まじ?? どんな?」

「学生服着た男の子と、音の出ないピアノなんだけど……うーん、なんだろう、思い出そうとすればするほどモヤがかかってきて余計にわからなくなるっていうか……」

 朝目が覚めて、今しがた見た夢を思い出そうとすればするほど思い出せなくなる時の感覚によく似ている。私が正直にそう述べると、きららちゃんは「そうかー」と言って、神妙な顔で腕組みをした。

「男の子と音の出ないピアノかぁ。それ、一応どこかにメモしておいたらいいんじゃないかな。今はわからなくても、そのうち何か閃くかもしれないし」

「そっか……それもそうだね、そうする」

「うん! 少しでも何か閃いたんだったらそれだけでも大進歩だよね!」

 うんうん、と頷いて、取り急ぎ部屋にあったメモ帳に気になったことを記録する。

 学生服を着た黒髪の男子生徒。

 音の出ないピアノ。

 それから……相馬蓮王。

 脳裏に浮かんだ男の子が相馬蓮王だったのかはわからないけれど、その名前を漢字で書くと妙に懐かしい気持ちになる気もしていた。

「ありがとう、きららちゃん」

 ようやく心拍数が落ち着いてきたところでパタンとメモを閉じ、丁寧に礼を述べる。

 するときららちゃんは照れたように笑って見せた。

「いやあ、私は好き勝手喋ってただけだし!」

「そんなことないよ。あーもうほんと、きららちゃんいなくなっちゃうの寂しい……。でもさ、本当に退所が決まってよかったね。あのさ、もしよければそのうち手紙とか書いてもいい? 携帯持ってないから、手紙になっちゃうんだけど……」

「え? まじで?? もちろん! やっばー、めちゃめちゃ嬉しい! 手紙って何かワクワクするよね。私も絶対返事書く! 唄ちゃんもさ、何か楽しいこととか、逆に辛いこととかあったら遠慮なく手紙に吐き出してね。きっとスッキリするから!」

「うん! そうさせてもらうね。きららちゃんはこれからいっぱい、お母さんと楽しい思い出作ってね」

「……ありがとう。私、今度こそママと二人で幸せになるからね!」

 眩しいぐらいに幸せそうな顔で笑うきららちゃん。

 夢と希望に胸を膨らませた私たちは、やがて消灯時間を迎えて深い眠りについたのだが……。

 結局、彼女とのこの約束が果たされることはなかった。

 身をもってそれを知ることになるのは、彼女が退所して一週間弱が経った後のことだった。