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「……はあ、……はあっ」

 鞄も、荷物も、全て学校に置いたまま。息ができなくなるほど全速力で雪解けの道を駆け抜け、公園と病院のすぐ近くにある相馬の自宅前まで辿り着く。

 半ば取り乱すように呼び鈴を押すと、ややしてから家政婦の仁田さんの声が小さな箱の中から聞こえた。

「すっ、すみません、唯川……です。あの、相……蓮王くんはいますか?」

『あら、唄ちゃん。ぼっちゃまなら、お父様に呼び出されて病院に向かわれましたよ。せっかく来てくださったのにごめんなさいね』

「……! そ、そうですか。わかりました……失礼します!」

(病院……)

 口早にお礼と挨拶を交わし、すぐさま踵を返す私。

 病院に行ったところで相馬に会えるとも限らないが、でも、じっとしていられなかった。

 私道から大通りに出て、横断歩道を渡って総合病院の敷地内に入る。

「ぜぇ……ぜぇ……」

 病院玄関まで辿り着き、入り口の自動ドアを開けようとしたところで、ふいに――。

「……っ」

 ぐん、と揺れた視界。

 誰かに強い力で腕を引っ張られたため、つんのめりながら振り返ると、目の前に立ちはだかった現実に、一瞬にして血の気がひいた。

「あ……」

「あーやっぱり、唄だー。こんなところで会うなんて奇遇じゃん」

 そこには、いつものように露出度の高いロングドレスではなく、小綺麗なブランドのセットアップスーツを着た母が、薄い笑みを浮かべて立っていた。

「お、お母さん……」

 震えるようにその名を呼べば、母は貼り付けたようににっこりと微笑んだんだけれど……なぜかその笑顔が、病的なまでに機械的というか、冷やかなものに見えて、心底ゾッとする。

「ちょっと来いよ」

「い、痛っ!」

 短い悲鳴をあげる間も、青ざめて後退る間すらもなく、無理矢理腕を引っ張られて歩き出す。

 掴まれた腕がちぎれるんじゃないかと思うぐらい痛くて、母の怒りが波レベルじゃないことを暗に感じとった。

「痛、い……は、放し……」

「いいからさっさと歩け!」

「……ぅ……」

 そのまま私たちは病院のすぐ隣にあるビルに入り、人気の少ないエレベーターに乗る。

 五階階までノンストップで上がると、そこからは非常階段と書かれた外階段を使ってさらに高いところまで駆け上がっていく。

 一体何をする気なのか、恐怖と不安で胃が痛くなるものの、辿り着いた先は雑居ビルの屋上で逃げ場もない。

 母は階段を上がりきると広い屋上の奥まで突き進み、一角の柵に向かって私の体を叩きつけた。

「……っ」

「なあ、唄。どういうことだよ?」

 静かに怒りを漲らせた母の声が、いっそう私を震え上がらせる。

「な、にが……」

「今までずっと音信不通だったお前の父親が、昨日、急にあたしに連絡してきたんだよ。『唄ちゃんの件、認知はできないけど今までの分の養育費と慰謝料払うから、その金で彼女を高校や大学に行かせてやってくれ』ってさ」

「……」

「はっ。笑えるよねえー。認知はできないのに金は出す? なにそれ?? それで責任果たしたとでも思ってんのかよあの男は??? っていうかさあ。その程度の金でアタシが受けた仕打ちが全部チャラになるとでも思ってんのかね??? ありえねえっつうの。……まぁ、当然の権利だからありがたく金は受け取ってやったし、その条件として進学を同意する電話も学校にかけてやったけどさあ、よく考えたらこれ、お前の仕業だよね?」

「ち、がっ、わた、し……」

「あんた一体相馬に何言ったんだよ? っていうかどうしてお前、相馬星一が自分の父親だって知ってたんだよ? どうやって繋がったのか詳しく教えてよ」

「わ、わたしは……」

「とぼけたツラしてんじゃねえよッ! いいか、唄。あたしはなあ、お前を産んだせいで人生が台無しになったんだよ! せめてアイツの前でだけは『いい女』のままで居たかったのに、あんたの進学辞退の件がアイツに伝わっちまったせいで、うちの経済状況知られるわ、〝貧乏人〟だとか〝ダメな母親〟だとか思われるわ、今だってわざわざ病院まで呼び出されて……大恥かいちまったじゃねえかよッッ!」

 血眼になってそう喚く母。

 ううん。こんなケダモノみたいな顔の人、もはや母親だなんて思いたくない。

 そうは思うのに、怖くて足が竦んでなにもできなくて。

「ご、ごめんなさっ、そんなつもりじゃ……っ」

「そんなつもりじゃなくても結果的にそうなってたら同じだろ!」

「……っ」

 ただひたすら謝罪を口にして許しを乞おうとしたけれど、ガンっと、体のすぐ脇のフェンスを力任せに蹴り付けられては、あまりの恐怖で思うように声も出せなくて、もう、口から臓器を吐き出しそうなぐらい胃が痛い。

「もうさあ、お前のせいで終わりだわ。恥ずかしくてこの町で生きていけねえし、こっから飛び降りて死ぬことにするわ」

「……な、ん……」

「だってそうだろ? 自分を捨てた男に心底憐れまれて、金だけ掴まされて一生日陰で暮らしていかなきゃいけないだなんて地獄だろうが」

「……」

「っつうかさあ、それもこれも全部お前のせいなんだから、もちろんお前も一緒に飛び降りて死んでくれるよね?」

「……っ」

「それともなに? 自分は一人だけ生き延びてのうのうと高校通って青春万歳でもするつもり? ありえないわお前、どんだけ親不孝なんだよ。っていうか、なんなのその生意気な目……。お前さあ、その目が父親そっくりですっげえ腹たつんだよ! 産んでもらった恩を仇で返しやがって……おら、あたしを苦しめた罰として、とっとと飛び降りろよ!」

 ガシャガシャガシャ。体を打ちつけられて、激しく揺れる柵。

 母の髪の毛はボサボサで、もはや言っていることも支離滅裂だ。

(狂ってる……)

(いや、違う)

(私が狂わせた)

(私が生まれたせいで、お母さんが狂っちゃったんだ……)

 母はカッとなって感情的になっているだけだとわかってはいたけれど、仮にも実の母である彼女の口から幾度となく浴びせられる凄惨な言葉はまだ未熟な私の心を容赦なく抉り、折れた心は、いつの間にか私の正常な判断力さえ奪い去っていた。

「……、っく」

 ぼろぼろと溢れ出して止まらない涙をそのままに、恐怖で震える拳を強く握りしめて柵の外を見下ろす。

「……ひっぐ……」

 いつだってそう。

(高い……)

 私はずっと、母の顔色を窺って生きてきた。

(こわい……)

 今だってそうだ。

(こわいよう……)

 やっぱり母には逆らえないし、これ以上母が苦しむ顔も見たくない。

(こわい……けど、でも……)

「ひ、っぐ……」

(お母さんの言う通りにここから飛び降りて消えてしまえば、もうこれ以上傷つかなくて済むのかもしれない)

 心が音を立てて崩れ去り、躊躇いが決意に変わる。

 ――もうなにも考えたくない。

 静かに靴を脱ぎ、柵に手をかけた――その時、

「唯川!」

「……っ!」

 空気を切り裂くように飛んできた相馬の声。

 その声が聞こえたのがあと一歩遅かったら、私はこの世から消えていたかもしれない。

 外階段を上がりきって屋上に辿り着いた相馬が、血相を変えてこちらに向かってくるのが目に映った。

「そ、うま……」

 安堵と共に溢れる涙を感じて、ああ、私はやっぱり死にたくなかったんだなって……生きたかったんだなって、ようやくここで我に返る。

「相馬……っ」

 彼に向かって手を伸ばし、生きることを選択しようとする私。

 しかし――。

「なにしてんだよオバさん! 下で騒ぎになってたから何かと思ってきてみれば……おい、唯川を離……」

「誰だよお前! 邪魔するんじゃねえよ!」

「や、やめてっ!」

 母が持っていた鞄で相馬を殴ろうと暴れ始めたため、慌てて母に飛びついてそれを制す。

 私の手を振り切ろうとする母と、それを許さない私とで揉み合いになり、気がつけば私たちは、階段付近にまで躍り出ていた。

「あぶねえ!」

「……!」

 あっと思った時には百八十度視界が揺れていて、母に突き飛ばされた私は真っ逆さまに階段を転げ落ちる。

「唯川! しっかりしろ唯川!」

 ようやく視点が定まった時には、私は、階段の踊り場で青い空を仰ぎながら倒れていた。

「……い……わ!」

「……」

 ああ、痛い。

「……れか、……しゃを!」

「…………」

 痛いし……寒いし……暗いし……ひどく眠い。

「……い……!」

 薄れゆく意識の中で、懸命に私の名を呼ぶ相馬の声がこだまする。

「(そ……うま……)」

 手を伸ばそうとするが、もはや力は入らない。

 階段の一番上で呆然と佇む母の姿を見た気がしたけれど、そんな光景もすぐに遠のいていき――。

 再び目を覚ました時には病院のベッドの上で、何もかもが私の中から消え失せていたのだった。