◇
「全生活史……健忘症?」
「うん、おそらくね。社会的な一般知識や言語機能には問題がないし、日常生活だって普通に送れる。しかし、自己に関する記憶だけがすっかり失われてしまっているんだ。この記憶障害は短期間で回復する場合もあれば長引くケースもあるから、しばらくは治療を続けながら様子を見ていくしかないかな」
記憶喪失だなんて、本やテレビの中だけの話だと思っていた。
相馬先生から告げられた言葉に頷くことすらできずにいる私は、力の籠らない眼を窓の外に向け、病院の中庭に咲き始めた菜の花や沈丁花、梅の花を茫然と眺める。
ああ、もうすぐ春なんだ。本来なら今頃、別れや出会いに胸を躍らせる季節だったんだろうなあなんて他人事のように思いながらも、春に纏わる思い出が何ひとつないことにたまらぬ寂しさも覚えた。
「検査の結果以外に今わかっていることは、搬送時に連絡のあった氏名と年齢くらいか。ただそれも、通報者が不明で今警察が詳細を確認中だからね。もう身元の特定に関しては大人しく警察に任せることにして、君は今後も治療に専念するんだよ」
幸か不幸か、意識を取り戻してから早一週間が経ったが、私の身元は不確定のまま、本日、無事に退院する運びとなった。
というのも、私の身元調査は現在もなお警察を介して進められているのだが、どうやら随所に〝大人の事情〟が絡んでいるようで、なかなか私の元まで情報がおりてこない。
詳細を聞こうにも『捜査中』と濁されてしまうため私にはそれ以上の追求ができず、また、親切にしてくれている相馬先生の手を煩わせたくない一心で流れに身を任せているうちにあれよあれよと内々に処理が進み、気がつけば退院日となってしまった。
退院……とはいえ、当然生まれ育った家に帰るのではなく、一時的に児童擁護施設に送還されるだけなのだけれど。
お金のことも心配しなくていいよ、とだけ言われているのでそのままになってしまっているが、これは未成年の特権か何かなのだろうか。私にはよくわからない。
「よし、じゃあ唄ちゃん」
ウタ、というのは、先ほど先生が言っていた通報時に伝えられた私の名前のようだ。
唯川 唄、十五歳、中三――これが、今のところ唯一把握している未確定の私情報。
通報者が誰かもいまだ不明らしいので信憑性は乏しいが、言われてみれば確かに私は唯川唄だった気がしないでもないし、十五歳だった気がしないでもない。
今なおはっきりとした実感はわかないものの、今後の生活を考えるとやはり名前や年齢は最低限必要になるわけで、よほど激しい嫌悪感や違和感がわかない限りは素直に受け入れるつもりでいる。
ユイカワ ウタ、と頭の中で復唱しながら返事を返す。
「……はい」
「あと三十分程度で施設の職員さんが君を引き取りに来るから、それまでに退院の準備を済ませておいてね。衣類は救急搬送された時に着ていたものが洗濯されて引き出しの中に入っているはずだからそれに着替えるといい。他にわからないことがあったら、遠慮なく近くにいる看護師に聞くか、ナースコールしてくれて構わないからね」
こくりと小さく頷いて、ここまで親切に対応してくれた相馬先生に丁寧にお礼を述べる。
忙しいだろうのに、私みたいな得体の知れない子ども相手に先生は嫌な顔ひとつせず無事に退院まで導いてくれた。この人を人格者と言わずなんと言おう。そんなことを考えていたらあっという間に時間が過ぎて、予定時刻の十分前になっていた。
慌てて引き出しの中の私服を取り出す。
それは、ややくたびれたロングパーカーのワンピースだった。
一緒に入っていたボロボロのGジャンはこの季節に着るには少し薄すぎる気もしたけれど、十五歳の中学生らしい気がしないでもないし、何もないよりは遥かにマシだ。
特に想起するような記憶もなくそれらに腕を通していると病室のドアがノックされ、四十代ぐらいのスーツ女性が室内に入ってきた。
「唯川 唄さん、かな?」
「はい」
「『虹の家』という施設から来た小宮と言います。あなたの身元がわかるまで、可能な限り生活の支援をしていくつもりですので、どうぞよろしくね」
簡単な自己紹介をして、ふわりと笑う小宮さん。
色白でひょろりと背が高く、長く伸びた黒髪が胸元のあたりで自由に踊っている。
持っている鞄やその他の私物からも地味な印象を受けたが、物腰が低くとても柔らかい空気を纏った女性なので会話はしやすそうだった。
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げてそれだけ伝えると、小宮さんは「じゃ、いきましょうか」と言って荷物の確認を行い、早々に病室を出る。やはり退院の手続きはすでに終わっているようで、一階にある会計窓口は素通りだった。
そのまま病院の玄関をくぐると、目の前のロータリーには白い軽自動車が止まっていて、車体に小さく『虹の家』というロゴが入っていた。
どうやらこれが、私を施設に運ぶ自動車らしい。
「さ、どうぞ座って」
小宮さんに促され、緊張しながら助手席に座る。
ドアが閉まって無音が訪れると、さまざまな不安が頭の中を過った。
施設、か。
施設内ではうまくやっていけるだろうか。
そこで保護されている期間中に、私の記憶はきちんと戻るだろうか。
万が一、記憶が戻らなかったとしても私の両親はきちんと見つかるだろうか。
見つかったとしても、捜索願いも出さずにいるような両親は、きちんと私を迎えに来てくれるのだろうか――?
「……」
記憶を失って初めてわかったけれど、自分のことが何もわからないって、こんなに恐ろしく不安な気持ちになるんだな、なんて。
無言で俯く私を言葉すくなに見守った小宮さんは、運転席に腰をかけると伸びた黒髪を後ろで一本に括りながらぽつりと言った。
「そうそう。シートベルト、しっかり締めておいた方がいいわよ」
「……」
「飛ばすから」
「え」
キョトンとした私の反応を見て口の端を引き上げた彼女は、まるで淑女の仮面を剥がすようワイルドな仕草でレバーやサイドブレーキを操作すると、
「わっ」
「くよくよしてる暇なんてないわ、さあいきましょう!」
不安や緊張、遠慮なんかを全て吹き飛ばすように、車を猛スピードで発進させる。
そうして勢いよくロータリーを飛び出した車は、鮮やかな花々で色づき始めた世界を春風のように駆け抜けて、私を第二の家となる施設へ連れ去ったのだった。
「全生活史……健忘症?」
「うん、おそらくね。社会的な一般知識や言語機能には問題がないし、日常生活だって普通に送れる。しかし、自己に関する記憶だけがすっかり失われてしまっているんだ。この記憶障害は短期間で回復する場合もあれば長引くケースもあるから、しばらくは治療を続けながら様子を見ていくしかないかな」
記憶喪失だなんて、本やテレビの中だけの話だと思っていた。
相馬先生から告げられた言葉に頷くことすらできずにいる私は、力の籠らない眼を窓の外に向け、病院の中庭に咲き始めた菜の花や沈丁花、梅の花を茫然と眺める。
ああ、もうすぐ春なんだ。本来なら今頃、別れや出会いに胸を躍らせる季節だったんだろうなあなんて他人事のように思いながらも、春に纏わる思い出が何ひとつないことにたまらぬ寂しさも覚えた。
「検査の結果以外に今わかっていることは、搬送時に連絡のあった氏名と年齢くらいか。ただそれも、通報者が不明で今警察が詳細を確認中だからね。もう身元の特定に関しては大人しく警察に任せることにして、君は今後も治療に専念するんだよ」
幸か不幸か、意識を取り戻してから早一週間が経ったが、私の身元は不確定のまま、本日、無事に退院する運びとなった。
というのも、私の身元調査は現在もなお警察を介して進められているのだが、どうやら随所に〝大人の事情〟が絡んでいるようで、なかなか私の元まで情報がおりてこない。
詳細を聞こうにも『捜査中』と濁されてしまうため私にはそれ以上の追求ができず、また、親切にしてくれている相馬先生の手を煩わせたくない一心で流れに身を任せているうちにあれよあれよと内々に処理が進み、気がつけば退院日となってしまった。
退院……とはいえ、当然生まれ育った家に帰るのではなく、一時的に児童擁護施設に送還されるだけなのだけれど。
お金のことも心配しなくていいよ、とだけ言われているのでそのままになってしまっているが、これは未成年の特権か何かなのだろうか。私にはよくわからない。
「よし、じゃあ唄ちゃん」
ウタ、というのは、先ほど先生が言っていた通報時に伝えられた私の名前のようだ。
唯川 唄、十五歳、中三――これが、今のところ唯一把握している未確定の私情報。
通報者が誰かもいまだ不明らしいので信憑性は乏しいが、言われてみれば確かに私は唯川唄だった気がしないでもないし、十五歳だった気がしないでもない。
今なおはっきりとした実感はわかないものの、今後の生活を考えるとやはり名前や年齢は最低限必要になるわけで、よほど激しい嫌悪感や違和感がわかない限りは素直に受け入れるつもりでいる。
ユイカワ ウタ、と頭の中で復唱しながら返事を返す。
「……はい」
「あと三十分程度で施設の職員さんが君を引き取りに来るから、それまでに退院の準備を済ませておいてね。衣類は救急搬送された時に着ていたものが洗濯されて引き出しの中に入っているはずだからそれに着替えるといい。他にわからないことがあったら、遠慮なく近くにいる看護師に聞くか、ナースコールしてくれて構わないからね」
こくりと小さく頷いて、ここまで親切に対応してくれた相馬先生に丁寧にお礼を述べる。
忙しいだろうのに、私みたいな得体の知れない子ども相手に先生は嫌な顔ひとつせず無事に退院まで導いてくれた。この人を人格者と言わずなんと言おう。そんなことを考えていたらあっという間に時間が過ぎて、予定時刻の十分前になっていた。
慌てて引き出しの中の私服を取り出す。
それは、ややくたびれたロングパーカーのワンピースだった。
一緒に入っていたボロボロのGジャンはこの季節に着るには少し薄すぎる気もしたけれど、十五歳の中学生らしい気がしないでもないし、何もないよりは遥かにマシだ。
特に想起するような記憶もなくそれらに腕を通していると病室のドアがノックされ、四十代ぐらいのスーツ女性が室内に入ってきた。
「唯川 唄さん、かな?」
「はい」
「『虹の家』という施設から来た小宮と言います。あなたの身元がわかるまで、可能な限り生活の支援をしていくつもりですので、どうぞよろしくね」
簡単な自己紹介をして、ふわりと笑う小宮さん。
色白でひょろりと背が高く、長く伸びた黒髪が胸元のあたりで自由に踊っている。
持っている鞄やその他の私物からも地味な印象を受けたが、物腰が低くとても柔らかい空気を纏った女性なので会話はしやすそうだった。
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げてそれだけ伝えると、小宮さんは「じゃ、いきましょうか」と言って荷物の確認を行い、早々に病室を出る。やはり退院の手続きはすでに終わっているようで、一階にある会計窓口は素通りだった。
そのまま病院の玄関をくぐると、目の前のロータリーには白い軽自動車が止まっていて、車体に小さく『虹の家』というロゴが入っていた。
どうやらこれが、私を施設に運ぶ自動車らしい。
「さ、どうぞ座って」
小宮さんに促され、緊張しながら助手席に座る。
ドアが閉まって無音が訪れると、さまざまな不安が頭の中を過った。
施設、か。
施設内ではうまくやっていけるだろうか。
そこで保護されている期間中に、私の記憶はきちんと戻るだろうか。
万が一、記憶が戻らなかったとしても私の両親はきちんと見つかるだろうか。
見つかったとしても、捜索願いも出さずにいるような両親は、きちんと私を迎えに来てくれるのだろうか――?
「……」
記憶を失って初めてわかったけれど、自分のことが何もわからないって、こんなに恐ろしく不安な気持ちになるんだな、なんて。
無言で俯く私を言葉すくなに見守った小宮さんは、運転席に腰をかけると伸びた黒髪を後ろで一本に括りながらぽつりと言った。
「そうそう。シートベルト、しっかり締めておいた方がいいわよ」
「……」
「飛ばすから」
「え」
キョトンとした私の反応を見て口の端を引き上げた彼女は、まるで淑女の仮面を剥がすようワイルドな仕草でレバーやサイドブレーキを操作すると、
「わっ」
「くよくよしてる暇なんてないわ、さあいきましょう!」
不安や緊張、遠慮なんかを全て吹き飛ばすように、車を猛スピードで発進させる。
そうして勢いよくロータリーを飛び出した車は、鮮やかな花々で色づき始めた世界を春風のように駆け抜けて、私を第二の家となる施設へ連れ去ったのだった。