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 その日の私は、音々だけはなんとか小学校へ送り出せたものの、気力不足で律を保育園に連れて行くこと、そして自分自身が学校へ行くことはできず、結局、学校近くの公園でしばらくの時を過ごしていた。

 ベビーカーに乗った律は抱き上げてもあやしても何をしても泣き止まず、とてもじゃないけど保育園に預けられるような状態じゃない。

 音々の時は、家にある壊れかけのピアノであやすことが大半だったけど、律は音楽に興味がないようだったし、二十四時間ところ構わず頻繁に泣く子だったので、とにかく精神的にも疲弊していて、少しでも気が緩んだら自分の中の何かが音を立てて壊れそうだった。

 特にこの時は唯一の希望だった高校進学への道がパッタリと閉ざされ、泣き叫びたいのはこちらの方なのに、それすら許してくれず延々と泣き続ける律に当てどころのない憤りと息苦しさを覚えてしまった。

 いっそのこと、もう、このまま消えてしまいたい。

 漠然とした思いがよぎり、虚な瞳で何もない空間をぼんやり眺めていると、ふと、公園の前を、私と同じ制服で可愛らしい髪型をした女子生徒が数名、通り過ぎていった。

 ――合唱部の後輩たちだ。 

 今、後輩たちは学年末テストの期間中だから短縮授業なのだろう。部活でよく練習用に歌う歌『翼をください』を口遊み、笑顔を交わしながら楽しそうに歩き去っていく。

「……」

 それを遠目で見送った瞬間、急に強烈な焦燥と疎外感に襲われ、自分の中で何かが弾けた。

 楽しみにしていた進路は閉ざされ、大好きな歌すら気楽に歌えず、律も泣き止まない。

 本来なら私だって彼女たちと同じように自由に歌を口遊み、おしゃべりをしたり、おしゃれをしたり、美容院に行って髪の毛を綺麗にしてもらったり、春からの高校生活や目の前に広がる青春に胸を躍らせる毎日を送るはずだったのに――。

 コップの中に溜めた水が溢れるよう、負の感情がとめどなく流れ出て目の前が真っ暗になる。

「泣かないでよ、もう」

 延々と泣く律は一生このままで、周りのみんなが青春に友情に勉強に運動に時には恋にだって謳歌をしていくなか、私だけ律をあやし続けるこの途方もない時間が一生続いていくような気がして、心がぽっきりと折れた。

 寒さで悴む両手を、律の小さな首にあてがう。

 一瞬でいい、ぎゅっと力を入れれば、律はいなくなって、時間にもお金にも余裕ができて、せめて高校ぐらいには通えるだろうか。

「おい、何やってんだよ」

 闇に落ちる寸前――律の泣き喚く声を切り裂くよう、見知った声がしてハッとする。

 顔をあげると、私の目の前にはいつの間にか見上げるほど高く背の伸びた、学生服姿の相馬蓮王が立っていた。

「……あ……」

「貸せよ! おいコラ泣き止めこの野郎。って、くっさ。なんだコイツ、ウンコしてんじゃん。オムツとかないわけ? てか鼻水とウンコ同時に出すんじゃねえよ、あーもう、俺が嫌なのはわかったから、足バタバタすんなって、ウンコもれんだろ」

「そ……うま……?」

 私の手の中から律を奪い取ると、覚束ない手つきで必死に律を宥め始める相馬。

「おい、んなところでボサっとしてねえでとりあえずこれで涙拭け」

 相馬がハンカチの代わりにきったない体操服をこちらに投げてきたので、そこでようやく気づく。

 私はいつの間にか鼻水と涙で顔中がぐしゃぐしゃになるくらい、泣いていた。

「っつうかさ、なんで学生のお前が一人でガキの世話してんだよ? 大人だって大変なのに、ガキ一人で赤ん坊の面倒なんかみれるわけねーだろ」

「……」

 ずっと心の中で思っていたけれど、怖くて口にだせなかったことを相馬が代わりに言ってくれて、ふっと心が軽くなる。

(そういう……ものなんだ……)

(そう、だよね……)

(……)

(ごめん……律)

(そうだとしても、律は何にも悪くないのに……)

(私、なんてことをしようと……)

(ごめん……ごめんね、律)

 様々な感情が溢れ出してしまい、心の中はぐちゃぐちゃだった。

「……ひぐ、」

「……」

 しばらく汗臭い相馬の体操服に顔を埋めて嗚咽を漏らしていると、近くにいたママ友集団がこちらを見てひそひそ何かを言い始めたので、相馬はおもむろに暴れる律を肩に抱き上げた。

「ったく……おら、いくぞ唯川」

「っ!? い、行くってどこへ?」

「ここじゃ目立つ。すぐそこだからついて来い」

 そして彼は、私の手をとって強引に空のベビーカーのハンドルを持たせると、泣きわめく律を肩に担いだままスタスタと歩き出したのだった。