◇
(さすがに手を出したのはまずかったな……)
小児病棟を出て食堂前にあるロビーのベンチに腰をかけると、妙に冷静さを取り戻した自分がいて、今さらながらそんな反省が胸をよぎる。
あんなに怒ったのはいつぶりなんだろう。
いまだに自分の叫び声が耳の残っていて、ひどく胸がざわついている。
アイツらに対しては微塵も申し訳ないとは思ってないし後悔もしていないけれど、周囲の人たちに迷惑をかけてしまったことには変わりがない。施設に帰ったらきちんと小宮さんに謝ろう――そう決心しながら、いまだ諸用が終わらない小宮さんの帰りを待っていると、多目的ホールの方から清らかな声が聞こえてきた。
あー、とか、ラーとか、合唱前のウォーミングアップだろうか。聖歌隊のような白いローブを纏った小さな子どもたちが優しい声を多目的ホールに響かせている。
近くの掛け時計を見ると十四時の五分前を指しており、まもなくミニコンサートが始まる時間だと気づいた。
多目的ホール内に移動し、空いてるベンチに腰をかけて小鳥の囀りのような発声をぼんやり眺める。ホールにはすでに多くの観客が集まっており、入院着姿のこどもたちや、その他、別病棟の患者らしき成人から老人まで幅広い年代の人たちが用意された簡易椅子やベンチに腰をかけ開演を心待ちにしている。
目を瞑りどこか懐かしい空気に心を預けていると、ふと、後ろの席から囁くような声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 小児病棟の三階でトラブルあったらしいわよ」
「聞いたよ?。虐待がらみの件の子でしょ? しかも、何週間か前に退院した記憶喪失の子まで飛び入りして一悶着したんだってね。……名前、ユイカワさんだっけ、入院してた時は大人しい子だったから、びっくりしちゃった」
自分の名前が聞こえてきて、どきっとした。
真横にある掛け時計を見るふりしてそっと斜め後ろに視線を流すと、事務職の女性用制服が微かに視界に映る。
膝の上にランチバッグを置いているので、おそらく休憩中の事務員さんだろう。
彼女たちは真前に座る私の存在に気づく事なく話を続ける。
「そうそうユイカワさん。可哀想な子だったよね……。あれから記憶戻ったのかな?」
「いや、同期に聞いた話だとまだ戻ってないらしいよ。お母さんにされたことがよっぽどショックだったんじゃないかな……。院長の息子さんがそばにいなかったらどうなってたことか……」
――カワイソウナ子? オカアサンニサレタコト……?
聞こえたフレーズに体の中心がどくんと脈打ち、得体の知れない恐怖が足元から這い上がってくる。
――え、どういうこと? 私、可哀想な子なの? お母さんに何かされたの? それに〝院長の息子〟って……一体どういうこと? 事故の通報者が彼ってこと?
さまざまな疑問に、胸の動悸がどんどん激しくなっていく。
「本当だよね。名前、蓮王くんでしょ。そういえばさっき院長室の前で見かけたわ。留学、今日からで夕方の便で行っちゃうみたいだし、お別れの挨拶にでも来てたのかなあ」
「そうなんだ。あんなにお父さんと仲悪かったのに、ちゃんとしてて偉いねえ。あの子も色々問題あるみたいだけど、結果的にはこれでよかったんじゃないかな。ようやくお家騒動が収まると思うとホッとするよね」
私の不安とは裏腹に続いていく噂話。
――ああ、やっぱり。ずっと引っかかっていたけれど、やはり私は『蓮王』という名の彼と何か繋がりがあったようだ。
必死にその記憶を辿ろうと思考を巡らせるが、強い蟠りが心の中に蘇るだけで何も思い出せない。
いっそのこと後ろを振り返って、彼女たちに詳細を聞いてみようかとも思ったけど、その考えは即座に消え失せた。
今の私にはそんな勇気はない。知りたいと思うと同時に恐怖で体が竦むのも事実だったから。
二の足を踏んでいるうちに小さな合唱団によるミニコンサートが始まり、ホール内に清らかな、心洗われる歌声が響いた。
美しいピアノの音色に重なり合う美声……この感覚、懐かしくもあるし胸が熱くなることから、やはり私は歌が好きだったのかもしれない。
「――あ、見てあそこ! 噂をすれば蓮王くんだよ」
ふいに後ろの女性が言った。
痛いぐらいに心臓が跳ね上がって、自然と目が彼の姿を探し始める。
「え、どこどこ?」
「ほら、入り口のところ……あっ、こっち見た」
「えっ、うそ?? 噂してるの聞こえちゃったかな」
「いやまさか! この距離だしそれはないって」
「そっか、そうだよね……って、あ、行っちゃった」
背後の女性たちに気づかれないように、慌てて視線だけで入り口のあたりを追う。
数メートル先の出入り口付近には、合唱を聴きに集まってきた入院患者さんや、患者さんの車椅子を押す看護師さんの姿があって、その端っこに、たった今踵を返して多目的ホールを出ていく黒髪の少年――私服姿の〝蓮王くん〟らしき人物――の影があった。
反射的に席から立ち上がり、彼の後ろ姿を追う。
ホールの外へ出ても、少年少女たちの可憐な歌声は広いロビーに美しく響き渡っていた。
ロビー内でコンサートに耳を傾けている観客をかき分け、無我夢中で黒髪の少年を追いかける。
彼の姿が視界の中で揺れ動くたび、なぜか無性に胸が騒いで泣きたくなった。
待って、行かないで。
強くそう願うものの、なぜかそれが声になって出てこない。距離が開かないよう必死に前を向いて走り、やがて――。
「ま……待って、レオくん!」
ロビーの端まできて、やっと得体の知れない呪縛から解き放たれたように声を放った。
「……」
合唱団の歌声、行き交う人々の雑音、外を走る車の音――それらの音に遮られることなく私の声は彼に届き、蓮王くんが歩みを止めた。
「あ、えっと、あの……」
「……」
立ち止まった彼は、振り返ることなくしばし無言でこちらに耳を傾ける。
どうしよう。勢いで呼び止めたはいいものの、そもそも私の勘違いかもしれないし、赤の他人である可能性も捨てきれていない。今さらだけど一体何を話せばいいのかわからなくなってしまって無計画に吃っていると、
「……何?」
ひどく不機嫌そうな声が一言だけ返ってきた。
「えっと、その……私、唯川唄っていうんだけど……」
ひとまず名乗ってみることにしたが、これといった反応はない。
そればかりか目も合わせてくれないし、こちらを向こうともしてくれないので、なんだか怪しげな人にでも思われてるんじゃないかと不安になって、慌てて取り繕うように説明を加えてみた。
「事故で記憶がなくなっちゃって、今もまだ何も思い出せずにいるんだけど……でも、あなたのことは、なぜか知ってる気がしてて」
「……」
「それで、その……、私のこと、何か知らないかなって、思って……」
たどたどしい問いかけに、彼はしばらく沈黙を作る。
やっぱり勘違いだったのかな。怪しい人に思われているのかもしれない。
気まずい雰囲気に気圧されて、「やっぱりなんでもない」と尻尾をまいて逃げようとした 時だった。
「……さあ? 何かの間違いじゃねえの」
ものすごく無愛想に告げられた、一言。
感じ悪っ、と思ったけれど、呼び止めて変な質問したのは私の方だし、ここは大人な対応でやり過ごそうと精一杯の笑顔を貼り付ける。
「そ、そっか。なら私の気のせいかも。ごめん、引きとめて」
そうして早々に会話を終わらせようとしたのだが。
「っつーかさ、そんなに今の生活が不満なの?」
「……え?」
ふいに飛んできた刺々しい質問返しに、一瞬目が点になる。
なぜそんなことを聞くんだろう。何か気に障ったのかな。
「あ、いや、別にそういうわけじゃ……」
「だったら、思い出せないもん、わざわざ他人に嗅ぎ回ってまで無理に思い出す必要ねぇじゃん。別に過去がどうであれ自分は自分なんだし、過去なんかなくたって生きていけんだろ。まぁ、単に悲劇のヒロインぶりたいだけってんなら話は別だけど」
「なっ」
思ってもみなかった方向から、突如として飛んできた毒舌に絶句する。
ああそうか。そういえばこの人、問題児なんだっけ。
クールに放たれたその言葉はあまりにも失礼で高圧的で、あっという間に私の顔から偽物の笑顔が剥がれ落ちた。
「そんなの……あなたには関係ないじゃない。記憶がないってどれだけ不便でどれだけ不安なことか、あなたにわかるの? そりゃ確かにこっちだって不躾な質問したかもしれないけど……でも、別に悪気があったわけじゃないし、何か迷惑かけたわけでもないし、なにも知らないくせにわかったようなこと言わないでよ」
まずい、言いすぎたかもと思った時にはすでに言い終わった後だった。
適当に聞き流しておけばよかったものの、売り言葉に買い言葉というか。ほぼ反射的といっていいほど自然にスルスルと反発の言葉が口をついて出ていた。
気分を害した彼からのさらなる反撃が飛んでくるだろうことを覚悟したのだが、予想に反して彼は少し笑ったようだった。
「な、なに笑ってんの」
「いや、全然悲劇のヒロインっぽくねえし、やっぱりお前は猫かぶってるよりそっちの方がしっくりくるなと思って」
「……え?」
微かに聞こえた、彼の呟き声。
猫かぶってるよりそっち……?
一瞬、彼がなにを言ったのかよくわからず目を瞬いたのだが、つまりそれってやっぱり過去の私を知っているってことなのではという疑問に行き当たり、答えを求めるように彼を見る。
その刹那、わずかにこちらを振り返った彼と目が合った。
初めて正面から見た彼の顔は、目鼻立ちの整った綺麗な顔をしていた。
長い前髪の下に覗く双方の黒い瞳は、見るからに攻撃的で近寄り難い空気を放っているけれど、どことなく儚げで孤独な印象も同時に受けた。
湧き上がる強い既視感。やはり私は、彼の顔に見覚えがある気がする。
「ねえ、それどういう意……」
「なんでもねーよ。じゃあな、ユイカワウタ」
私の問いかけを遮るよう、彼は私に別れを告げて再び歩き出す。
まるで、もう二度と私には会うことはないと突き放されたかのようだった。
「ちょ……」
なんだろう、この気持ち。胸がざわざわして頭の中がぐらんぐらんする。
「ちょ、待ってよ。まだ話は終わって――」
慌てて追いかけて引き止めようとしたけれど、彼はそれを拒むよう静かに首を横に振った。
そのまましばらく無言の逡巡。やがて彼は、微かな声で呟く。
「……よ……」
「え……?」
聞こえた言葉に驚いて彼を見上げると、彼は切なげに目を細めてから背を向けた。
そして、今度こそ呼び止めるような間もなく、あっという間にロビーから出ていってしまった。
(なに……今の……)
その場で茫然と立ち尽くしながら、自分の両腕を抱える。
〝楽しめよ、青春〟
――彼は今、確かにそう言った。
え、待って、どういうこと、なんで〝青春〟……?
全く意味がわからないというのに、なぜか無性に激しく突き上げてくる熱い感情。
なんだろうこの気持ち。辛くて、切なくて、全身が悲鳴をあげているみたいにしくしく痛む。
今なら何か思い出せそうな気がする――得体の知れない影を掴みかけたその時、ふいにロビー内に馴染みのある歌声が響いた。
翼をください、だ。
自由に焦がれて翼を願う歌詞が頭の中で瞬き、過去の記憶が弾け飛ぶ。
「……っ」
――途端に、怒涛のごとく蘇る記憶の断片。
音の出ないピアノ。
小学生の頃のわたし。
小学生の頃のソウマレオ。
見知らぬ男の人。
小さい赤ちゃんの泣き声。
寂しげな幼女の顔。
合唱、別れ。
奪われた友人、学校生活。
私を追い詰めた母親の顔――。
強烈な眩暈と動悸に襲われながらも、ついにはっきりと捉えた数々の映像。
(ああ、そうか……)
壁に手をつき、今にも崩れ落ちそうな足元を全身で支える。
震える呼吸を噛み締めて、蘇ってきたばかりの記憶を今一度自分の中で反芻すれば、それぞれの断片が一つの線になるまでそう時間はかからなかった。
(私……)
なぜ、誰も私に事故のことを教えてくれなかったのか。
なぜ、母が私を迎えにきてくれなかったのか。
なぜ、〝大人の事情〟が渦巻いていたのか。
その理由が、今ならわかる。
(私、お母さんに殺されかけたんだ――)
ようやく辿り着いたその答えに、私は、閉じ込めていた過去を自分の中へそっと解き放ち始めた。
(さすがに手を出したのはまずかったな……)
小児病棟を出て食堂前にあるロビーのベンチに腰をかけると、妙に冷静さを取り戻した自分がいて、今さらながらそんな反省が胸をよぎる。
あんなに怒ったのはいつぶりなんだろう。
いまだに自分の叫び声が耳の残っていて、ひどく胸がざわついている。
アイツらに対しては微塵も申し訳ないとは思ってないし後悔もしていないけれど、周囲の人たちに迷惑をかけてしまったことには変わりがない。施設に帰ったらきちんと小宮さんに謝ろう――そう決心しながら、いまだ諸用が終わらない小宮さんの帰りを待っていると、多目的ホールの方から清らかな声が聞こえてきた。
あー、とか、ラーとか、合唱前のウォーミングアップだろうか。聖歌隊のような白いローブを纏った小さな子どもたちが優しい声を多目的ホールに響かせている。
近くの掛け時計を見ると十四時の五分前を指しており、まもなくミニコンサートが始まる時間だと気づいた。
多目的ホール内に移動し、空いてるベンチに腰をかけて小鳥の囀りのような発声をぼんやり眺める。ホールにはすでに多くの観客が集まっており、入院着姿のこどもたちや、その他、別病棟の患者らしき成人から老人まで幅広い年代の人たちが用意された簡易椅子やベンチに腰をかけ開演を心待ちにしている。
目を瞑りどこか懐かしい空気に心を預けていると、ふと、後ろの席から囁くような声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 小児病棟の三階でトラブルあったらしいわよ」
「聞いたよ?。虐待がらみの件の子でしょ? しかも、何週間か前に退院した記憶喪失の子まで飛び入りして一悶着したんだってね。……名前、ユイカワさんだっけ、入院してた時は大人しい子だったから、びっくりしちゃった」
自分の名前が聞こえてきて、どきっとした。
真横にある掛け時計を見るふりしてそっと斜め後ろに視線を流すと、事務職の女性用制服が微かに視界に映る。
膝の上にランチバッグを置いているので、おそらく休憩中の事務員さんだろう。
彼女たちは真前に座る私の存在に気づく事なく話を続ける。
「そうそうユイカワさん。可哀想な子だったよね……。あれから記憶戻ったのかな?」
「いや、同期に聞いた話だとまだ戻ってないらしいよ。お母さんにされたことがよっぽどショックだったんじゃないかな……。院長の息子さんがそばにいなかったらどうなってたことか……」
――カワイソウナ子? オカアサンニサレタコト……?
聞こえたフレーズに体の中心がどくんと脈打ち、得体の知れない恐怖が足元から這い上がってくる。
――え、どういうこと? 私、可哀想な子なの? お母さんに何かされたの? それに〝院長の息子〟って……一体どういうこと? 事故の通報者が彼ってこと?
さまざまな疑問に、胸の動悸がどんどん激しくなっていく。
「本当だよね。名前、蓮王くんでしょ。そういえばさっき院長室の前で見かけたわ。留学、今日からで夕方の便で行っちゃうみたいだし、お別れの挨拶にでも来てたのかなあ」
「そうなんだ。あんなにお父さんと仲悪かったのに、ちゃんとしてて偉いねえ。あの子も色々問題あるみたいだけど、結果的にはこれでよかったんじゃないかな。ようやくお家騒動が収まると思うとホッとするよね」
私の不安とは裏腹に続いていく噂話。
――ああ、やっぱり。ずっと引っかかっていたけれど、やはり私は『蓮王』という名の彼と何か繋がりがあったようだ。
必死にその記憶を辿ろうと思考を巡らせるが、強い蟠りが心の中に蘇るだけで何も思い出せない。
いっそのこと後ろを振り返って、彼女たちに詳細を聞いてみようかとも思ったけど、その考えは即座に消え失せた。
今の私にはそんな勇気はない。知りたいと思うと同時に恐怖で体が竦むのも事実だったから。
二の足を踏んでいるうちに小さな合唱団によるミニコンサートが始まり、ホール内に清らかな、心洗われる歌声が響いた。
美しいピアノの音色に重なり合う美声……この感覚、懐かしくもあるし胸が熱くなることから、やはり私は歌が好きだったのかもしれない。
「――あ、見てあそこ! 噂をすれば蓮王くんだよ」
ふいに後ろの女性が言った。
痛いぐらいに心臓が跳ね上がって、自然と目が彼の姿を探し始める。
「え、どこどこ?」
「ほら、入り口のところ……あっ、こっち見た」
「えっ、うそ?? 噂してるの聞こえちゃったかな」
「いやまさか! この距離だしそれはないって」
「そっか、そうだよね……って、あ、行っちゃった」
背後の女性たちに気づかれないように、慌てて視線だけで入り口のあたりを追う。
数メートル先の出入り口付近には、合唱を聴きに集まってきた入院患者さんや、患者さんの車椅子を押す看護師さんの姿があって、その端っこに、たった今踵を返して多目的ホールを出ていく黒髪の少年――私服姿の〝蓮王くん〟らしき人物――の影があった。
反射的に席から立ち上がり、彼の後ろ姿を追う。
ホールの外へ出ても、少年少女たちの可憐な歌声は広いロビーに美しく響き渡っていた。
ロビー内でコンサートに耳を傾けている観客をかき分け、無我夢中で黒髪の少年を追いかける。
彼の姿が視界の中で揺れ動くたび、なぜか無性に胸が騒いで泣きたくなった。
待って、行かないで。
強くそう願うものの、なぜかそれが声になって出てこない。距離が開かないよう必死に前を向いて走り、やがて――。
「ま……待って、レオくん!」
ロビーの端まできて、やっと得体の知れない呪縛から解き放たれたように声を放った。
「……」
合唱団の歌声、行き交う人々の雑音、外を走る車の音――それらの音に遮られることなく私の声は彼に届き、蓮王くんが歩みを止めた。
「あ、えっと、あの……」
「……」
立ち止まった彼は、振り返ることなくしばし無言でこちらに耳を傾ける。
どうしよう。勢いで呼び止めたはいいものの、そもそも私の勘違いかもしれないし、赤の他人である可能性も捨てきれていない。今さらだけど一体何を話せばいいのかわからなくなってしまって無計画に吃っていると、
「……何?」
ひどく不機嫌そうな声が一言だけ返ってきた。
「えっと、その……私、唯川唄っていうんだけど……」
ひとまず名乗ってみることにしたが、これといった反応はない。
そればかりか目も合わせてくれないし、こちらを向こうともしてくれないので、なんだか怪しげな人にでも思われてるんじゃないかと不安になって、慌てて取り繕うように説明を加えてみた。
「事故で記憶がなくなっちゃって、今もまだ何も思い出せずにいるんだけど……でも、あなたのことは、なぜか知ってる気がしてて」
「……」
「それで、その……、私のこと、何か知らないかなって、思って……」
たどたどしい問いかけに、彼はしばらく沈黙を作る。
やっぱり勘違いだったのかな。怪しい人に思われているのかもしれない。
気まずい雰囲気に気圧されて、「やっぱりなんでもない」と尻尾をまいて逃げようとした 時だった。
「……さあ? 何かの間違いじゃねえの」
ものすごく無愛想に告げられた、一言。
感じ悪っ、と思ったけれど、呼び止めて変な質問したのは私の方だし、ここは大人な対応でやり過ごそうと精一杯の笑顔を貼り付ける。
「そ、そっか。なら私の気のせいかも。ごめん、引きとめて」
そうして早々に会話を終わらせようとしたのだが。
「っつーかさ、そんなに今の生活が不満なの?」
「……え?」
ふいに飛んできた刺々しい質問返しに、一瞬目が点になる。
なぜそんなことを聞くんだろう。何か気に障ったのかな。
「あ、いや、別にそういうわけじゃ……」
「だったら、思い出せないもん、わざわざ他人に嗅ぎ回ってまで無理に思い出す必要ねぇじゃん。別に過去がどうであれ自分は自分なんだし、過去なんかなくたって生きていけんだろ。まぁ、単に悲劇のヒロインぶりたいだけってんなら話は別だけど」
「なっ」
思ってもみなかった方向から、突如として飛んできた毒舌に絶句する。
ああそうか。そういえばこの人、問題児なんだっけ。
クールに放たれたその言葉はあまりにも失礼で高圧的で、あっという間に私の顔から偽物の笑顔が剥がれ落ちた。
「そんなの……あなたには関係ないじゃない。記憶がないってどれだけ不便でどれだけ不安なことか、あなたにわかるの? そりゃ確かにこっちだって不躾な質問したかもしれないけど……でも、別に悪気があったわけじゃないし、何か迷惑かけたわけでもないし、なにも知らないくせにわかったようなこと言わないでよ」
まずい、言いすぎたかもと思った時にはすでに言い終わった後だった。
適当に聞き流しておけばよかったものの、売り言葉に買い言葉というか。ほぼ反射的といっていいほど自然にスルスルと反発の言葉が口をついて出ていた。
気分を害した彼からのさらなる反撃が飛んでくるだろうことを覚悟したのだが、予想に反して彼は少し笑ったようだった。
「な、なに笑ってんの」
「いや、全然悲劇のヒロインっぽくねえし、やっぱりお前は猫かぶってるよりそっちの方がしっくりくるなと思って」
「……え?」
微かに聞こえた、彼の呟き声。
猫かぶってるよりそっち……?
一瞬、彼がなにを言ったのかよくわからず目を瞬いたのだが、つまりそれってやっぱり過去の私を知っているってことなのではという疑問に行き当たり、答えを求めるように彼を見る。
その刹那、わずかにこちらを振り返った彼と目が合った。
初めて正面から見た彼の顔は、目鼻立ちの整った綺麗な顔をしていた。
長い前髪の下に覗く双方の黒い瞳は、見るからに攻撃的で近寄り難い空気を放っているけれど、どことなく儚げで孤独な印象も同時に受けた。
湧き上がる強い既視感。やはり私は、彼の顔に見覚えがある気がする。
「ねえ、それどういう意……」
「なんでもねーよ。じゃあな、ユイカワウタ」
私の問いかけを遮るよう、彼は私に別れを告げて再び歩き出す。
まるで、もう二度と私には会うことはないと突き放されたかのようだった。
「ちょ……」
なんだろう、この気持ち。胸がざわざわして頭の中がぐらんぐらんする。
「ちょ、待ってよ。まだ話は終わって――」
慌てて追いかけて引き止めようとしたけれど、彼はそれを拒むよう静かに首を横に振った。
そのまましばらく無言の逡巡。やがて彼は、微かな声で呟く。
「……よ……」
「え……?」
聞こえた言葉に驚いて彼を見上げると、彼は切なげに目を細めてから背を向けた。
そして、今度こそ呼び止めるような間もなく、あっという間にロビーから出ていってしまった。
(なに……今の……)
その場で茫然と立ち尽くしながら、自分の両腕を抱える。
〝楽しめよ、青春〟
――彼は今、確かにそう言った。
え、待って、どういうこと、なんで〝青春〟……?
全く意味がわからないというのに、なぜか無性に激しく突き上げてくる熱い感情。
なんだろうこの気持ち。辛くて、切なくて、全身が悲鳴をあげているみたいにしくしく痛む。
今なら何か思い出せそうな気がする――得体の知れない影を掴みかけたその時、ふいにロビー内に馴染みのある歌声が響いた。
翼をください、だ。
自由に焦がれて翼を願う歌詞が頭の中で瞬き、過去の記憶が弾け飛ぶ。
「……っ」
――途端に、怒涛のごとく蘇る記憶の断片。
音の出ないピアノ。
小学生の頃のわたし。
小学生の頃のソウマレオ。
見知らぬ男の人。
小さい赤ちゃんの泣き声。
寂しげな幼女の顔。
合唱、別れ。
奪われた友人、学校生活。
私を追い詰めた母親の顔――。
強烈な眩暈と動悸に襲われながらも、ついにはっきりと捉えた数々の映像。
(ああ、そうか……)
壁に手をつき、今にも崩れ落ちそうな足元を全身で支える。
震える呼吸を噛み締めて、蘇ってきたばかりの記憶を今一度自分の中で反芻すれば、それぞれの断片が一つの線になるまでそう時間はかからなかった。
(私……)
なぜ、誰も私に事故のことを教えてくれなかったのか。
なぜ、母が私を迎えにきてくれなかったのか。
なぜ、〝大人の事情〟が渦巻いていたのか。
その理由が、今ならわかる。
(私、お母さんに殺されかけたんだ――)
ようやく辿り着いたその答えに、私は、閉じ込めていた過去を自分の中へそっと解き放ち始めた。