今日の夜は忘れたくなるほど空虚な色だった。薄汚れた灯りのなか、星の輝きが掻き消え、何処ぞと知れないところへと葬られる。色彩という概念が失われるほど、悲哀に満ちた吐息が飛び交い、街全体が意思を失ってしまったかのような、皆がコンピューターのように自動的に活動しているだけなような、そんな空間へと変わっていった。
 夜は寒さが増した。夕方が流れ星のように輝きが短く、あっという間に真っ暗だ。深淵の奥深くにある哲学的モノローグが夜空に投影され、街が一層混沌となっていた。
 志貴は1人街の中を歩いている。周りが物凄いスピードで移り変わっていくように見えて、志貴ただ1人が取り残されているように見える。しかし、志貴にはいろんな思いや記憶で頭がいっぱいだった。
 志貴は後悔していた。沙代のような普通の女の子を、裏の世界とも関わるかもしれない探偵業に引き入れたことを。最近は便利屋としての仕事ばかりだったので、気が抜けていた。でもいつかは、今日のような日が来るかもしれない。そんな予感がしていたはずなのに。
 目を背けていたのかもしれない。今まで他人の優しさに甘え、辛い現実から逃げてきただけなのかもしれない。いろんな感情が入り乱れ、息苦しくなりながらも、沙代との思い出が蘇ってくる。
 沙代が初めて事務所を訪れたのは、去年の4月。志貴が事務所を立ち上げてから、少し経ってからのことだった。事務員募集の貼り紙を見たという自分と同い年のこの女性に、最初は前向きになれなかった。元々事務には、こんな景気の悪いご時世にリストラされた男性を雇うつもりで、女性を雇うつもりはなかった。危険な依頼が来るかもしれない。その可能性を視野に入れていた志貴は、雇わないと伝えようとした。しかし沙代のどこか真剣な眼差しを感じ取ると、バイトとして雇うこととした。
 沙代は器用なほうではない。依頼の電話があったことの伝え忘れ、お茶をこぼしそうになることがよくある。料理も志貴と比べると、あまり上手くない。どこか天然だ。でも沙代には自覚がない。
 しかし、沙代は真面目だ。無遅刻無欠席を貫き、毎朝志貴よりも早く出勤してくる。書類の整理や事務所の掃除など、毎日絶え間なくやってくれている。それと依頼人との壁を沙代が取り払ってくれることがよくあり、そのこともあってか仕事が増えていった。そんな沙代に志貴は心を許した。バイトから正式に事務員として雇い、改めて事務所を補佐してくれる仲間ができた。
 沙代は質素な女の子だ。今時の若い女性と違い髪を染めず、髪型もおかっぱに近いショートヘアーだ。そんな冴えない1人の女の子に、志貴は心惹かれた。この街で暮らす若い女は、みんな化粧を塗りたくっていてけばけばしい。こんな場所だからこそ、沙代のような存在が貴重だ。
 沙代は母子家庭で育った。幼い頃父親を亡くし、母親から大切に育てられた。勉強も頑張り奨学金も得て、女子大に進学し卒業する。志貴は以前、沙代の母親と会ったことがある。正式に事務員として採用した時に挨拶したのだ。沙代と同じく質素で優しそうな女性であった。沙代の母親の話によると、沙代が会社に勤めていた頃、パワハラやセクハラに悩まされていたらしいとのこと。会社を辞めてすぐ、探偵事務所で働くと聞いて最初心配だったが、最近沙代との電話で何だか楽しそうな様子をしているのが伝わって、何だか安心したと言われた。沙代をよろしくお願いしますと言われ、志貴は笑顔になった。
 あの頃のことから現在に至るまでいろいろ思い出すと、志貴は申し訳無さで心苦しかった。本当に申し訳ない。自分が不甲斐ない。心の中で自分に怒鳴りながら、ただ街を歩いて行く。
「必ず助けに来てね」
 沙代の声が頭のなかでこだまする。沙代の言葉が一声一声、耳の奥深くに響いてくる。
「志貴君遅い!減点1」
「志貴君、寝癖立ってるよ。ハハハッ!」
「志貴君、バレンタインデーのお返しまだなの?」
「志貴君、待ってるから」
「志貴君、志貴君……」
 志貴はショーウィンドウに映る、黒のコート姿の男が目に入る。しかし、それが沙代と一緒にいる場面へと変わる。眠そうだったり、恥ずかしそうだったり、怒ってたり、そして笑ってたり、いろんな沙代の表情が映っている光景を見て、志貴は思い出したかのようにこう思った。早く事務所に戻らなければ。くよくよしても何も始まらない。志貴は街を駆け抜け、事務所まで向かっていった。
 事務所に着いたのは8時過ぎ。洒落っ気のない小さな事務所は、本当に人の気配がなかった。特別部屋を荒らされた形跡がなく、いつも通りのまま。沙代が居ないことを除けば。
 沙代のいない空虚な室内を歩き回ると、法律関連の書物が置かれた本棚の上に、2人が写っている写真が目に入った。いつだっただろうか。記念に1枚写真を撮ったことを、志貴は今の今まですっかり忘れていた。この時、2人とも笑顔だった。笑顔に写っていた。
 志貴は写真立てを手に取りながら、再び部屋を見渡す。書類を片付ける沙代。電話を取り、内容を志貴に伝える沙代。今日のようにクッキーを頬張りながら、志貴に愚痴をこぼす沙代。からかわれ怒る沙代。依頼を果たしたお礼にと、お菓子やお惣菜を貰い喜ぶ沙代。志貴をからかう沙代。笑顔になる沙代。志貴を見つめる沙代。沙代、沙代……いろんな沙代の映像が、この部屋全体を駆け巡っていた。
 志貴は拳を握りしめた。ぐっと力を込めて。必ず助け出さなくては。でも、警察に駆け込んでは駄目だ。バレた時点で沙代は殺されてしまう。まずは女を探すしかない。あの愛玲とかいう中国娘を。
 志貴は頭の中で、愛玲がどんな女だったか思い出そうとしていた。青のチャイナドレスを着た中国人女性。容姿端麗で今のところ謎の多き人物。なぜ奴らは彼女を探しているのか?その目的は?彼女は一体何者なのか?いろんな謎が志貴の脳内をランする。
 取りあえず女を探し出さないことには、何も分からない。相手の目的はまずそのことだ。しかしあの様子だと、沙代を生きて返す保証はどこにもない。恐らく自分を含め、関係者全員を殺すつもりだろう。志貴は沙代をどこに監禁しているか、思考を巡らした。
 この都市の検問はとても厳重だ。かぐやを出ていることは、まずないだろう。この街のどこかに絶対にいるはずだ。志貴は情報屋を使って、相手の潜伏先を探し出そうと考えた。マフィアの息がかかっていない、信用できる情報屋を使って。
 しかし、志貴は情報屋との接点がほとんどなかった。自分が情報屋みたいなものだからだ。できるなら、自分が動くような真似はしたくない。相手方に気づかれないようにするには、自分と接点のなさそうな人物を使うのが一番だからだ。恐らく、あの中国マフィア共はこの街の連中じゃない。そう考えて、情報屋とのコンタクトの方法を探っていた。
 考えれば考えるほど、汗が出てきて震えが止まらない。志貴は恐怖に震えていた。自分が死ぬことは構わない。しかし、沙代が死ぬことは、沙代が死ぬようになることは……最悪なシナリオが映像として頭の中に浮かび上がり、震えが更に酷くなる。
 蛇口から水道水をコップに入れ飲み干す。花籠を出てから何も口にしていない。口に何か入れたところで、味覚も働かないだろう。志貴は飲み干すと、椅子に座って身体を休めた。
 疲れが全く取れない。部屋の中の空間がグルグル捻じれ、めまいにも似た吐き気を伴わない奇妙な感覚を味わう。自分を責める声、嘲笑う声、断末魔など、いろんな叫び声が、ヘビーメタルのように、自身の仮想空間上のスクリーンで、アヴァンギャルドな映像と共に鳴り響く。志貴は目を開けているのだが、この映画はまだ終わりそうにない。やめてくれと寝言のように呟きながら、銀幕の向こう側を見続けてしまう。
 しかしこの映画もぷつりと途切れてしまう。何やら階段を上がってくる足音が聞こえてくる。それも複数。志貴は立ち上がり、どんな構えにでもなれるよう対応できるように備える。
 ドアが開くと如何にもヤクザ風の男たちが5人、ドサドサと中に入ってきた。鼻にピアスをしている者、片腕が義手の者、2mを超える大男まで、人相の悪い社会のゴミクズどもが、志貴の周りを囲んだ。
「一体何のようだ?」
 志貴は機嫌が悪かった。いつもの綺麗な顔が羅刹な雰囲気へと変わり、相手を睨みつけた。
「あんたが諌山さんか?思ったより優男だな」
 金髪に剃り込みを入れている鼻ピアスの男が志貴を見つめ、イヤらしいぐらいニヤッと笑う。外人独特の訛りのある日本語に、どこか中華的なものを感じ取る。
「今日、中国娘を探せとの依頼が来たはずだ」
 志貴は黙った。相手の次の言葉を待ちながら、他の連中の動きに気をつける。
「俺たちも探してる。だが、あんたに探されるのは困るんだ。だから、ここで死んでくれ」
 志貴はてっきり陳と同じ組織の手の者かと思った。しかし違うとなると、またややこしくなる。志貴はそう思いながら、男たちをぐるっと見る。
 男たちは普通话で殺せと叫び、志貴に襲いかかる。
 鼻ピアスの男が懐から短刀を取り出し、志貴目掛けて突き刺そうとする。しかし攻撃を両手で捌き、相手の手首を捻じりながら短刀をはたき落とす。そして右手の指で目を突いた。
 鼻ピアスの男が叫び声を上げ、床に倒れる。志貴は直ぐ様右側にいる義手の男の後頭部を、後ろ回し蹴りで揺さぶった。続く左側にいる坊主頭の男が襲い掛かってきたので、横蹴りで後ろにいるもう1人もろとも突き飛ばした。男たちは書類のある本棚にぶつかり、一緒に崩れ落ち下敷きとなる。
 しかし、もう1人残っていた。志貴は2mもあるスキンヘッドの男に右手首を掴まれ、腕をへし折られそうになる。しかし、大男が激痛で顔を歪ませる。志貴は合気道の技を使い、大男の右腕をどんどん追い詰める。相手が膝をつくのを確認すると、顔に蹴りをいれ相手を気絶させる。
 これで片付いたとそう思っていたが、鼻ピアスの男が立ち上がり、懐からトカレフを取り出し、後ろから銃を向けた。
「随分腕が立つな。でも本物の銃を突きつけられたら、さすがにあんたでもかなわんだろ」
 鼻ピアスの男は近づき、志貴の胸元に銃を突きつける。まるで勝ち誇ったかのように、下品極まりない笑みを浮かべていた。
 しかし短刀をはたき落としたのと同様のテクニックで、志貴は瞬時に銃を奪い取った。トカレフを左手で持ち、相手に銃口を向ける。
「おまえ、こんなことをしていいと思ってるのか?俺を殺しても、すぐ追手が来るぞ。組織がその気になれば、あんたなんか……」
 志貴は渾身の後ろ回し蹴りで気絶させた。部屋は本棚やならず者たちが倒れ、散らかっている。
 志貴は崩れた男たちを見下ろしながら、別の場所に移動しようと考えていた。アパートに戻るのは避けるべきだ。恐らく知られている。それと期限までに、どうしても愛玲を見つけ出さなくてはならない。後沙代の監禁場所も。しかし、他の組織も愛玲を探している。さて、どうする?志貴はいろいろ考えながら、トカレフがちゃんと使えるか確認した。弾が装填されており、故障した箇所はどこにもなかった。コートの裏ポケットに仕舞い込むと、できるだけ足音を立てずにゆっくりドアを開け事務所を出た。
 街が一層混沌としていた。この時間帯の歓楽街は歩きタバコをする人が多く、煙で霧がかかったように先が見えにくい。今の志貴の心境とも重なり、より闇が深くなっていた。
 ネオンが光り、煙草を蒸かした街娼たちが帰宅途中のサラリーマンに声をかける。日々の疲れや欲情を晴らしたいがためか、その内の何人かは両腕に女を取り、人込みの中へと消えていった。
 志貴も声をかけられたが、振り向きもしない。その内の1人、ドライアーをかけ過ぎたようなパサパサな茶髪の革ジャンを着た女に、コートの袖を掴まれた。
「ちょっとちょっと、お兄さん!ウチと遊んでかない?」
 志貴は振り返ると、中国マフィアと事務所でやり合った頃と同じ殺気立った表情を見せた。女は思わず手を離し、他の街娼たちの下へと戻って行った。
 志貴は娼婦に掴まれ、機嫌が悪かった。焦りがどんどん増し、かなり冷え込んでいるのに、どうしてか汗が止まらない。凍えそうなほど、心は恐怖に打ちのめされそうなのに。
 帰宅途中のサラリーマン同士が馬鹿笑いをしているのを見ると、無性に腹が立った。いや、それは言い訳だった。本当は自分に腹が立っているだけなのだ。志貴は両方の拳に力を込め、歯を食いしばった。しかし、志貴はふと何かを思い出した。トカレフ一丁ではこの先不安だ。志貴は人込みを掻き分け、徒歩で四番街近くまで向かった。
 四番街近くに着いたのが9時近く。この辺りは傾斜のある高級住宅街で、志貴の自宅や事務所付近では決して見ることが出来ないほど、贅沢な外観の家々が並ぶ。アンティーク調から、古代中国王朝、メソポタミア調、近未来的な外装まで様々。お互いの個性が主張しあって、この一帯の外観に均一性がない。
 贅沢にしては度が過ぎている。ここには食っていくのがやっとの貧しい人たちがたくさんいるのに。貴様らは!志貴は今までの感情が相まって、普段苛立ちもしないことに苛立った。しかし、今そんなことは関係ない。志貴は息をゆっくり吐き気持ちを落ち着けると、綺麗に整備された並木道の坂を登り、目的の建物へと目指す。
 山の麓近くまで来ると、白銀の大きなドーム型の建物が目に入る。志貴は入口である黒の扉のそばまで来ると、ポケットから電子キーを取り出し中へと入る。
 この建物の中は高級マンションになっていて、ここのオーナーが元依頼人だ。ここのオーナーは某大手企業の社長で、社内で不正取引が行われいる形跡があるので調べてくれとの依頼が来た。もちろん依頼は全うし、関係者である社員数人を不正取引が行われる直前に解雇した。警察に突き出さずスキャンダラスな内容を世間に口外しないことを条件に、このマンションの一室をタタで貸してもらうこととなった。このことは沙代も知らない。
 志貴は最上階の一番奥の部屋を開けると、中へ入った。室内は生活感が全く無く、家具はクローゼットとデスクぐらいなものだ。白いカーテンの隙間から月光が入り込み、部屋全体が銀色に輝いている。光が射し込んだおかげで、デスクの上に置かれている資料が目に見える。今朝沙代と話した、他の書類や資料の隠し場所のうちの1つだ。報告書の作成もここで何度かやった。
 志貴はクローゼットの引き出しを開け、シャツなどの衣類の下に隠しているサバイバルナイフ2本、オートマチックとリボルバー、後弾丸も取り出した。月明かりを見つめ、もうここには用がないといった様子で部屋を後にした。
 志貴は高級住宅街を出た後、四番街へ向かった。四番街はオフィス、飲食店、風俗など、いろんな要素が混じりあった街だ。統一性が全く無い点といったら、高級住宅街と同じだ。個々の趣味に合わせた色が強く主張しあい、歪な風景となっていた。
 高級レストランが並ぶシャンゼリゼのような通りに、東洋風な屋台がずらりと並んでいる。生の豚の首を飛ばすところなんかを間近で見ることができ、普通の街では決して有り得ない光景だ。まぁ煙草歩きをする人が少ないだけ、他の街よりかマシかもしれない。
 この街へ来たのには理由があった。会ったことは一度もないが、この街に住むごく僅かな人しか知らない凄腕の情報屋がいるらしいとのことだ。志貴は以前チンピラに絡まれていたホームレスの老人を助けた時、お礼として情報屋の噂を教えてもらったことがある。人に道を尋ねるなどの足がつくリスクを避け、地道に目的地を探していった。
 夜の10時過ぎ、四番街の外れにある寂れた共同住宅や飲食店が集まっている一帯を歩き回り、ようやく目的地の古い大きな洋館に辿り着く。名は月光。夜の華として相応しい娼館だ。
 ドアを開け中に入ると狭い廊下が見えて、スラブ風のカーペットが敷かれていた。廊下の壁にはここの娼婦全員の自画像が掛けられている。油絵の具が重なり合い、まるで立体感のある彫刻のようだ。今他の男と寝ている者の絵は裏返しになっていて、そのことが分かるようになっている。
 志貴の目の前には、黒髪を後ろに纏め上げたシニョンスタイルの青いドレスを着た美女が見えた。もちろん、この娼婦の自画像も掛けられている。美女は優しく微笑み、志貴にお辞儀をした。
「ようこそ、月光へ。お客様は初めてでいらっしゃいますか?お好きな()を、廊下に掛けられている絵からお選びください」
「ここの女主人、弥生って人を呼んでくれないか?」
「かしこまりました」
 青ドレスの女は廊下の奥の部屋へと行き、ドアをノックする。中に入ってから暫くすると、黒の毛皮のガウンを着た老女が現れた。髪型は青ドレスの女と同じで、身長は沙代より少し高いぐらい。昔はかなりの美人だっただろう。
「わたしに用ってのはあんたかい?」
 志貴は目の前にいる老女をまじまじと見た。すべての髪が白い彼女を見ると、老いではなく妖美なものに思え、ここにいる娼婦の誰よりも美しい存在のように思える。
「あんたが弥生さんか?」
「そうだけど」
 この弥生という老女。根っからの姉御肌だ。志貴にもそのことが充分伝わり、この館の主だと一目で分かる。
「あんたが凄腕の情報屋だと聞いてここに来たんだが……」
「知らないね。どっからそんな噂を聞いてきたのか知らないけど、わたしはここの主。ここは娼館なんだ。女買わないんだったら、とっとと帰んな」
「待ってくれ!いきなりで本当に済まない。でも、俺には時間が……」
「うるさいね!あんまりしつこいようなら、もうこうするしかないね。おいっ、残ってる他の女どもをここに連れておいで」
 白髪の御婦人は青いドレスの女にそう言うと、懐から銀色のアンティークな装飾を施した銃身の短い拳銃を取り出し、銃口をこちらに向けた。
「分かってると思うが、これも商売のためなんだ」
 志貴は怖気づかず、真っ直ぐ相手の目を見る。
「良い度胸じゃないか」
 弥生は引き金に力を入れる。他の女が4人が弥生の後ろからやってきて、志貴に銃口を向ける。
「これで5対1。さぁ、どうする?色男さん」
 弥生は不敵な笑みを浮かべ、志貴に鋭い殺気を叩きつけた。志貴はこの状況をどう打開しようか考えていた。ここは退いて、他の情報屋を探すか?しかし、そんな時間は正直殆ど無い。さぁ、どうする?いろいろ考えているうちに、今にも女たちが銃弾をぶち込みそうな様子だった。
 しかし娼婦の内の1人、白いドレスを着た黒のお姫カットの女が志貴の顔を見て思い出したかのように、弥生の耳元で何かを伝えた。弥生は志貴に視線を戻すと、ハスキーな声で質問した。
「あんたもしかして、五番街で便利屋稼業をやってる諌山さんかい?」
「そうだ」
 弥生は志貴の目を見て、本当に何か困っているようだと察した。
「切羽詰まった事情があるみたいだね」
 志貴は頷かず、真っ直ぐ弥生を見つめる。
「こっちに来な。話ぐらいは聞いてやる」
 志貴は女たちに続き、狭い廊下を渡り奥の部屋へと入った。
 中に入ると書斎になっていて、暖炉があり火がついている。弥生は帳簿らしいものが載ったデスクのそばにある、高級な木材でできた椅子に腰掛ける。
「ここはわたしの部屋だ。まぁ、そこに座りな」
 志貴は弥生と向かい合う形で、黒の大きなソファに座った。他の女4人は、志貴と弥生との間の壁に掛けられている月光の油絵のそばに並んだ。
 弥生は引き出しからジッポのライターと南陽という赤いラベルの中国製煙草を取り出し、一本吸い始める。
「ホント、不味い煙草だね」
 弥生は煙を吐き、左肘を机に付けながら頬に手を添えた。まるで志貴を見定めるかといった表情だ。志貴は相手の態度がガラッと変わったことに、困惑した。
「何でかって顔だね」
 弥生は微笑むと、灰皿に煙草を押し付けながら先を続けた。
「そこの白いドレスを着た()がいるだろ。以前チンピラに絡まれていた時、あんたが助けてくれたことがあるそうなんだ。礼を言うよ」
 白いドレスの女は頬を赤めながら、お辞儀をした。志貴は思い出そうと努力したが、どうしても思い出せなかった。志貴は弥生に視線を戻すと、弥生は再び煙草に火をつけ、ゆっくり煙を吐き出した。
「ここは娼館であると同時に、情報収集を生業とした場所でもあるんだよ。色欲に溺れた男たちから色仕掛けでいろいろ聞き出したり、街に潜伏させて探りを入れたり、女のほうが怪しまれないからね。ここにいる(むすめ)達は皆、人身売買で売り物にされてきた()ばかりでね。こうやってわたしが買い取って、男に抱かれる代わりに、高い給料と最低限人として生きていける権利を提供しているのさ。どうやって社会の裏側を生きていくのか、身の守り方など、いろいろ叩き込んでやってね」
 弥生は一旦間を置いた。歳のせいで息が続かないのではなく、感傷に浸った一瞬だった。
「ここにいる者皆、家族同然なんだ。だからね、本当に感謝してる」
 弥生は再び微笑むと、白いドレスと青いドレスの女が志貴の両脇に座った。志貴の膝に手を置きながら、この上なく美しい表情で美女たちが笑みを浮かべていた。
「あんたよく見たら、なかなか良い顔してるじゃないか。どうだい?この()たちの中から嫁にしたい者はいるかい?この()たちもまんざらじゃないみたいだからさ」
 志貴は立ち上がって、冗談を言ってる時間はないといった表情を見せた。弥生も冗談のつもりで言ったため、手振りで志貴をなだめる。
「分かってるさ。じゃあ、話を聞かせてもらおうか」
 志貴は今現在に至る経緯について、全て話した。弥生は白いドーナツ型の煙を吐き出し、煙草を灰皿に押し付けてクシャクシャにする。そして、ヤサグレた声を出す。
「で、自分一人では女を助けられないってんで、ここに泣きついたわけかい?」
 志貴はうなだれながら、膝においている拳に力を込める。胸が熱くなり、今にも燃え上がりそうだ。それを必死に抑えるためにも、再び拳に力を入れる。
「全く情けない話だね。こうなるかもしれないってことは、分かってたことだろ。こういう稼業は危険が付きものだ。それは沙代って言ったか、その()も充分分かってるさ。まぁとにかく、その()のことは諦めな」
 志貴は胸に冷たい刃が突き刺さった感覚がした。悲痛な表情を見せ、目が幾分大きくなり、そして冷たくなる。
 弥生は大きく溜め息をついた。そして、どこか呆れた表情を見せた後、志貴に笑みを浮かべる。
「ホント、仕方ないね」
 弥生は呟くと、再び大きく溜め息をついた。
「分かった。力を貸してやるよ」
 志貴はその言葉を聞くと、悲壮な表情から暖かな救われた表情へと変わった。
「とは言っても、力になれるかは分からない。あんたんとこの()が何処へ連れて行かれたのかは知らないけど。愛玲とかいった(むすめ)になら、心当たりがある」
 志貴はごくりとつばを飲み込み、弥生の次の言葉を待つ。
「確か2週間前だったか。この四番街に上海美人ってキャバレーがあるんだけど、そこに新しく入った娘《むすめ》が、あんたの言う愛玲って女と特徴が似ている。まぁ、確証はないんだけど」
 志貴は立ち上がり頭を下げた。
「ありがとう。ありがとう……」
 志貴は胸から込み上げてくる熱い感情を、ぐっと堪えた。
「裏の世界に関わってる者が、簡単に頭を下げるな。顔を上げな」
 志貴は頭を上げ、まっすぐ弥生を見る。
「それで情報料はいくらだ?今そんなに持ち合わせがない。金はどういう方法で渡せばいい?」
「情報料ならいいさ。ウチの()を助けてもらった恩もあるしな」
 志貴は立ち上がり、急いで部屋を出ようとするが、弥生に止められる。
「もう、今日は遅い。一晩ここで泊まっていったらどうだい?約束の期限は3日後なんだろ?」
「ご厚意に甘えたいところだが、出来るだけ早く探し出したい。だから、もう行く。」
 志貴はドアノブを捻った。しかし、再び弥生に止められる。
「待ちな!このところ街の様子が何だかおかしんだ。裏の方が何だか騒がしくてね。中国本土でも何だか揉め事が起きてるらしい。マフィアの幹部、構成員が何人も死体で発見されている情報が、こっちにも届いてる。もしかしたら、愛玲とかいう(むすめ)が関わってるかもしれない。それと大陸の方から1人、凄腕の殺し屋が来てるって情報もある。分かってると思うが、充分気をつけな」
「ありがとう、弥生さん」
 志貴はドアノブを右手で掴み、ドアを開ける。弥生は独り言の調子で、言葉を吹かす。
「実はあんたに似た男を1人知っててね。その男は相手が誰だろうと、容赦しなかったさ。裏社会のボスから大物政治家まで、一度狙った獲物は確実に仕留める。それどころか、標的と関係のある全ての人間を血の海に変えてしまうほど、冷酷な男さ。この男の生涯は常に屍を足場にした、戦いそのものだろうね。でも、やっぱり似てないかな。あんたのようなアマちゃんが、そんなわけないか」
 志貴は振り向かず、屈折した笑みを浮かべた。
「それは興味深い話だな。じゃあ、もう行く」
「また困ったら、ここに来な」
 志貴は振り向かず右手を振ると部屋を出て、男たちの獣のような喘ぎ声が鳴り響く廊下を駆け抜け、月光を後にした。
 街は時折サイレンが鳴り響いていた。もう0時近く、夜が一層深まり、街を歩く人の欲望がむき出しとなる。月光とは真逆の品のない女たちが、屋台のように通りに並び、男どもに声をかける。酔っ払いが道にゲロを吐き、散らばったゴミ屑と共に街の香りを濃くする。そんな香りのある深い霧の中、まだ20歳にも満たないチンピラたちがチームを作り、他のチームと睨み合っている。その様子をお巡りが、注意深く警戒する。そのお巡りの後ろ姿を狭い路地から見ている空き巣が、急いでその場を離れている。いろいろな人物の思惑が混じり合い、現代版ブリューゲルを作り上げていた。
 志貴はそんな先の見えない街の中、1人で歩いている。息は白く、手は幾分悴んでいる。寒さのせいで呼吸が荒く、頬が赤くなっている。疲れが溜まっている。しかし、休んでいる暇がない。今風邪を引いていようと、身体を止めるわけにはいかないのだ。時は残酷なほど早い。今日沙代に言ったセリフが、こんなに早く自分に返ってくるとは思わなかった。志貴は自分のセリフに苛立ちながら、目的地を探す。
 バーやラブホテルが並ぶ通りに出ると、ピンクのネオンが一層濃くなった。通りを挟んだ向かいはオフィス街となっていて、まったく対照的な空間の間をゆっくり歩いている。中華系の店舗が並ぶエリアに近づくと、目的の店が目に入る。
 白に青の文字でライトアップされた上海美人。目的の店で間違いないと確信すると、電池の切れ掛かったスマホで現在の時間を確認する。もう数秒足らずで日付が変わる、このことを確認すると後ろを向き、高層ビルの窓ガラスを全て使った大画面のニュース映像を見る。しかし、大画面には身の凍るような内容のニュースが流れていた。
 今日の午後6時、五番街の花籠で店の店長が、そしてそのすぐ近くの路地裏で陳と名乗る男と特徴のよく似た男の死体が発見されたとのことだった。
 志貴は過呼吸になり、バタンと通行人の身体に倒れ掛かる。通行人は白の毛皮のコートを来た女性だった。コートの隙間から、チャイナドレスを着ていることが確認できる。志貴は相手の顔をよく見た。それは愛玲にとても良く似た女性だった。志貴は女の腕をつかむが、意識を失い地面に顔をつけた。