届いた手紙を前に、私はどうするべきか考え続けていた。
 私はジョセット。
 大陸列強の一国の公爵家長女として生まれ、今はとある農村に隠遁している女。

 父の領内の辺境にあるこの村で、私は名目上の村長として暮らしている。
 ここはかなりの田舎で、冬になると街に出ることもできなくなる。

 けれど、暮らしに困るようなことはない。
 農村としてはかなり豊かな方で、それは父の敷く善政の賜物であろう。

 娯楽を望むべくもないような場所だけれど、私はここの暮らしに満足している。
 王都で暮らしていた頃の華やかなりし貴族生活とは、何もかもが違うけど。

 ああ、あの頃のことはあまり思い出さないようにしよう。
 私がここで隠棲することになったきっかけが、そこにあるのだから。

 私は今年、二十歳になる。
 この年で農村に隠棲するなど、他の貴族が聞けば何と思うことだろう。
 でも、それも含めて、私はここでの生活が気に入っている。

 自然が豊かで、一日ごとに少しずつ表情を変える山々と。
 流れる風も湧き上がる泉の水も、全てが清々しく透き通っている。

 いつ食べても飽きることのない、山の幸、川の幸。
 村に住む人達も純朴で、ここで暮らし始めて一年と少し、私もすっかり馴染んだ。
 王都にいられなくなったこんな私を受け入れてくれた彼らには、感謝しかない。

 王都で暮らしていた頃は、外に出ることなんてほとんどなかった。
 でも、この村に来てからはよく外に遊びに出るようになった。

 村人達に混じって、畑仕事をすることも増えつつある。
 貴族達が汚い土いじりと誹るそれは、驚くほど大量の知恵によって成り立っている。
 それを説明したところで、実感のない貴族達には理解できないだろう。

 ……ああ、いけない。どうしても貴族達を見下してしまう。

 もし最初からこの村に生まれていたなら、そんなこと、考えもしないと思う。
 つくづく、人の気質は育った環境によって左右されるものだと感じた。

 今でこそ、こうして誰にも言われずとも自分に反省を促せる私だが、この村に来る前までは、それはひどいものだった。何より、今の私が最も嫌うのが、過去の私だ。

 貴族社会は競争社会だ。
 己の家名と人脈と謀略と権力を武器にして、相手の面子をいかに挫くか。
 そればかりを考えて生きていかなければならない、魑魅魍魎どもの巣窟である。

 油断すれば奈落に蹴り落とされ、隙を見せればのど元を食い破られる。
 そうして追い落とされた敗者は二度と貴族社会に戻れなくなってしまうのだ。

 一年前の私のように。

 私がここに来た理由は、そのものズバリ、権力闘争に敗れたからだ。
 目指す座があり、それを競う敵がいて、最終的に、私は敵に敗れてしまった。

 そして、様々な要因が絡み合って、私は王都にいられなくなった。
 母からも嫌われた私を、父が憐れんでくれたのがせめてもの救いであった。

 その後、私はここにやってきた。
 追放されてきたと言ってもいいのかもしれない。

 当初こそ、私は全てを憎んだ。
 自分をこんな場所に追いやった何者をも恨み、父にすら怒りを向けた。
 今思えば、それこそが私がここに追いやられた理由だったが。

 結局、自業自得でしかないのだ。
 かつての私は、あまりにも醜い化物だった。私が嫌う貴族そのものだった。

 公爵家の令嬢として、権力を笠に着て、居丈高に振る舞った。
 気に食わないものがあれば、花を手折る感覚で叩き潰した。

 私の存在によって、これまでに何人の人生が狂わされてしまっただろうか。
 過去の私の所業を糾す者がいるなら、私は喜んで罰を受け入れるだろう。

 我こそは世界の中心である、と、一年前の私は本気でそう思っていた。
 世に言う悪役令嬢とは、まさにかつての私のことであった。

 だがそれも、全ては王太子殿下の婚約者という立場があったからだ。
 その地位を手に入れるために、かつての私はあらゆる手を尽くした。

 王太子に相応しい女でいられるよう、常に美容には気を遣った。
 髪型も、纏うドレスも、殿下の好むものを調べ上げて、それに合わせた。

 その甲斐もあって、何人かいる候補の中から私が婚約者に選ばれた。
 この瞬間が私の人生の絶頂であったろう。
 だが、婚約後わずか半年にして、その絶頂は終わることとなる。

 私は、殿下から直々に婚約破棄を通達された。
 そして、彼が新たに選んだ婚約者は、よりによって私の妹だった。

 妹が殿下に横恋慕していることは知っていた。
 元より、殿下はその立場を抜きにしても美男子で、宮廷での女性人気は高い。

 だが、彼の婚約者になるべく己を磨いてきた私に比べ、妹は貧相だった。
 見た目こそ可愛らしく、庇護欲をそそるが、それ以外には何も持たない女だった。

 学問が苦手で、運動もできず、礼儀作法も全く覚えが悪い。
 貴族として礼法の一つも修めていないのは、今でもちょっとどうかと思っている。

 そんな妹が聖女として覚醒したのは、私が婚約して半年後のこと。
 天から光が降り注ぎ、辺りに神の声がこだました。

 それは伝説にも語られる現象であり、その日、妹は聖女となったのだ。
 時は隣国との戦争も間近と目されていた折、これによって様々な変化が起きた。

 最も大きな変化は、王宮が妹を担ぎ上げたことだろう。
 国王陛下は、来たる戦争において国を一つにするために、妹を利用した。

 何とも古典的な方法だが、しかし、神に選ばれた聖女という肩書は効果覿面だった。
 勝利のための団結を訴える妹に多くの国民が心酔し、彼女は女神と呼ばれた。

 こうなると、私はもう完全にお払い箱だ。
 国の次代を担う王太子殿下に最も相応しい女性は誰か、言うまでもないだろう。

 そして、私は王太子殿下から婚約破棄を言い渡された。
 それを告げた彼の隣には、派手に着飾って容姿を一変させた妹がいた。

 彼女は明らかに私に対して勝ち誇っていた。
 その目は私を見下し、その口元には勝利の愉悦の笑みが浮かんでいた。
 可愛らしさだけが取り柄の妹が、すっかり貴族の女になり果てていたのだ。

 私は、抗った。

 妹を殿下の婚約者にしてはならないと、強く訴えた。
 父も私と一緒になって、婚約破棄を撤回するよう、王宮に直談判した。

 すでに結果が出たことに、それでも私と父はNOを叩きつけた。
 妹を、殿下の婚約者にしてはならない。
 ただただその一心で、私は持ちうるすべてのコネとツテを使って、訴え続けた。

 返ってきたのは、冷笑と、嘲笑と、侮蔑と、屈辱だけだった。
 他の貴族達からは、私はいかにも無様でみっともなく映ったのだろう。

 陛下からも妹を殿下の婚約者にする旨に変更はないと告げられた。
 それによって、ついに父が折れた。
 そして私も、それ以上は抗いようもなく、逃げるようにして王都を出た。

 それが、王都での私の婚約にまつわる顛末。
 本当に久しぶりに、思い返したくもない記憶を思い返してしまった。

 そうした理由は、私の目の前に置かれた手紙。
 つい先日、行商人が届けてくれたそれは――、妹からの手紙だった。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「……ふぅ、いつまで考えていても始まらないわね」

 意を決して、私は手紙の封を切った。
 簡素な封筒の中から、重ねられた数枚の紙が三つ折りになって入っていた。
 彼女が私に手紙を寄越すなど、これが初めてのことだ。

 父とは定期的に手紙のやり取りはしている。
 母は、まぁ、私のことが嫌いだろうから、手紙を寄越すこともないだろう。

 妹は何を思って私に手紙を寄越したのか。
 それについて、私は何となく予想を立てながら、手紙に目を落とした。


『おねーちゃんたすけて』


 まず、書いてあったのがそれだった。
 ビックリした。
 だって、完全に予想通りの書き出しだったから。

『ごめんなさい、本当にごめんなさい、おねーちゃん、ごめんなさい』

 そこから、今度はひたすら謝り倒してきた。
 この時点で、ギリギリまで追い詰められている妹のメンタルが垣間見える。

『おねーちゃんすごいよ、本当すごいよ、超人? おねーちゃん超人なの?』

 今度はさらに私を褒め倒しにかかる妹の文章。
 何を指して褒めてるのかわからない称賛って、こうしてみると若干怖いな。

『あのね、私、おねーちゃんのこと、バカにしてたの。ごめんね』

 知ってた知ってた。
 妹、それ隠してるつもりだったんだろうけど、こっちにはバレバレだったよ。
 演技の一つもできない、ひたすら不器用な子だったからなー。

『でもね、今は違うの。もうね、尊敬よ、尊敬。私、おねーちゃんリストカットよ』

 リスペクトの間違いだな、これ。
 私はそう読み解きつつ、さらに手紙を読み進めた。

『あのね、聞いて、おねーちゃん。王太子殿下ね、すっげークソ野郎なの』

 うわぁ。
 どストレートに不敬。

『あいつ、私に言うのよ。君は僕の妻になるのだから、僕のママになれ。って』

 うんうん。なるほど。

『正式に結婚もしてないのに、夜に部屋に来て、あいつ、私に迫ってくるのよ』

 うんうん。なるほど。

『僕におしゃぶりを吸わせるんだ! 優しい子守唄で僕をあやすんだ! って』

 うんうん。なるほど。

『しかも夜泣きするのよ、あいつ。もう二十歳になるのに、ギャン泣きなのよ!』

 うんうん。なるほど。

『おねしょまでするの! 何で私があいつのオムツ替えないといけないのよ!』

 うんうん、なるほど。

『夜泣きのたびにガラガラ振って機嫌とらないといけないし、もう疲れたわ……』

 うんうん。なるほど。

『何が『ママ、おしっこ~』だ、あの野郎、ふざけやがって! それに――』

 そこからは、ただただひたすらに妹の王子の性癖に対する愚痴が続いていた。
 手紙は八枚綴りで、うち七枚半が愚痴だった。
 それを一応ながらも読み終えて、私はため息と共に呟いた。

「……だから止めたのに」

 私が妹と殿下の婚約を阻もうとした理由は、私もママをさせられたからだ。
 殿下は、実は赤ちゃんプレイ大好き野郎なのである。

 しかも、実際にコトには及ばないので、婚前交渉にも当たらない。
 遊戯であるというのが彼の主張で、性行為はしていないので通さざるを得ない。

 私も婚約してからの半年は、毎晩、赤ちゃんプレイのママ役を押し付けられてきた。
 ちなみに、口外すれば一族郎党根絶やしと言われたので、外にも言えなかった。

 だから、妹の婚約に反対する理由も言えなかったワケだ。
 父は殿下の性癖は知っていたらしく、一緒になって反対した理由もそれだ。

 妹は私のことを嫌っていたようだが、私は別にそうでもない。
 むしろ、私は家族を大事にする方だ。
 だから妹を殿下の赤ちゃんプレイの餌食にしたくなかったのだが……。

 しかし力及ばず、見事に予想通りになっちゃったなー。
 伝説の聖女の力をもってしても、殿下の性癖は変えられなかったかー。

 まぁ、殿下もあれで性癖を抜きにすれば有能な方でもある。
 今後の妹の心労とストレスを無視すれば、きっと国も栄えていくことだろう。

「お嬢さーん、いらっしゃいますかー!」

 玄関の方から、私を呼ぶ男性の声が聞こえる。
 ああ、今日も来てくれたんだ。

「あ、トマスさん? 今、行きますねー」

 私は手紙を置いて、立ち上がる。
 声の主は、隣に住むトマスという村の青年で、よく野菜を分けてくれるのだ。

 彼が作る野菜はどれも美味しくて、私の日々の楽しみの一つになっている。
 今日は何を持ってきてくれたのだろう。
 若干ウキウキしつつ、私は部屋を出て玄関へと向かった。

 今日の夕飯、トマスさんもお誘いしちゃおうかな。
 王太子にオギャられてメンタルバッキバキな妹のことは、もう頭から消えていた。