私が築き上げてきたものはこれと言ってなかった。幼い頃から、頭脳を始め、運動神経もコミュニケーション能力も取り囲む環境も、人並み以下だった。


人生を積み木に例えたとして。私は、積み上げてきた木が全てがある日突然崩れ落ちていったのではなく、木を積み上げていくという本来の遊び方すらまともに出来ていなかった。「積み木」という名前を貰っただけの木製の塊。私は「人間」という名称があるだけの命で、人間がこなすべきフツウをまともに出来た試しはなかった。


20歳という節目の年まで生きてきたことが、もはや奇跡だった。呼吸を正しくすることしか脳がない私が、20年も生きてしまった。



「お誕生日おめでとう、綺世(アヤセ)


おめでとう、というのは私に向けて良い言葉なのだろうか。義務教育時代から人間関係をまともに築けず虐めの対象にされて不登校になり、せめて学歴はあった方が良いから、とお金を払えば誰でも入学できる高校を中退し、その後屍のように家に引きこもって呼吸をするだけの私に、「お誕生日おめでとう」という価値はあるのか。


お誕生日おめでとう、とは。
生まれてきてくれてありがとう、とは。


引きこもりの私に、両親は何も言わない。一日の大半は部屋で過ごすものの、入浴と排泄と食事の時は無抵抗で部屋を出る。両親と食卓を囲み、出されたものをきちんと食べる。毎日顔を見せてくれるだけで嬉しいと、両親は眉を下げて言う。

分からなかった。
私は、私の在り方が分からない。




「綺麗な世界で、貴方は綺世」


私の名前の漢字を、両親はそう教えてくれた。綺麗な世界で、綺世。自分なりに綺麗だと思う世界を創りなさい、という由来に当たる日本語を理解できたことは無かった。それどころか、歳を重ねるにつれ、私にいちばん似合わない名前だと思うようになった。




20歳になってしまった。

20年も、生きてしまった。



いつもより豪華な食事と誕生日ケーキを食べ、部屋に戻り、私は正常に機能しているかも定かではない脳を動かした。

このままで良いとは思わない。けれど、どう在るべきかも分からない。社会に出てやっていけるだろうか。不登校、高校中退、ニート。社会に出て行ける要素がひとつもない。社会不適合者とは、私のことを言うのかもしれない。全てにおいて不敵切な存在。世界に認められる気はしない。


これからどうしようか、どうするべきか。

数分考えたけれど、人生はやはり分からなくて、ベッドに転がった。母が晴れた日に天日干ししてくれる枕からは、微かに太陽の匂いがする。それが、少しだけ苦手だった。


​──ブーッ、ブーッ

スマホが鳴った。連絡を取り合うような相手はいないので、聞き慣れない音だった。画面には、〈知世〉と表示されていた。


知世。

記憶に一人だけ、その名前を持つ者がいる。


どうして今更電話がかかってきたのか分からなかった。スマホを初めて持ったのは中学生の時だ。番号を変えていないから、「知世」に連絡先を知られていることは不思議ではなかった。けれど、だからと言って理解出来ることでもなかった。戸惑って応答ボタンを押せずにいると、一定数のコールを終えて、自動的に着信は切れた。

ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、数秒後もう一度着信があった。知世からだった。電話に出るまで掛かってくるような、そんな気がした。直感というものを働かせたのは久しぶりで、到底当てにはならないけれど、なんとなく、当たる気もしていた。予想通り、二度目の着信が切れ、三度目の着信があった。




​──ボロボロでもいいから、可能な限り生きてくれ


遠い昔の記憶なのに、知世の声は、鮮明に焼き付いている。





中学2年生の時の話だ。
三森 知世(ミモリ チセ)という男に、好きだと言われた。


「おれの名前、知ってる?」
「わか……、わからない」
「あー、ぽいぽい。おれね、知世。世界を知るって書くから、よろしく。綺麗な世界さん」
「綺麗な世界……」
「おまえの名前と顔にヒトメボレした。だからとりあえず、おまえのこともっと知りたい所存である」



クラスメイトの名前は知らなかった。その頃にはもう不登校になりかけていたので、覚えられるほど学校に行っていなかったのだ。当然のことながら私は知世のことを知らず、また、名前と顔だけで私を好きだという知世の感性も分からなかった。


「おれの名前覚えろよ」
「ケータイもってる?番号おしえて」
「おまえ誕生日いつ?」
「綺世、おれがお前のことほっといてもほっとかなくても、知らないうちにシンデソー、だよな」


仮にも好きな女に言うセリフではなかった。知らないうちに死んでそう。そんな女を好きだという知世はどういうつもりだったのか。これまでもこれからも、知世から貰った「好き」の真意を聞くことは無いような気がしていた。


知世とは、友達と呼べるほど関わった記憶はなかった。むしろ、知世は中学生にしては大人びて端正な顔立ちだったので、知世に好かれたことにより私への虐めは激化した。

知世は助けてくれなかった。好きだというくせに、見て見ぬふりをしていた。それもそれでよく分からなかったけれど、べつにそれで良いとも思っていた。

当たり前のように私は不登校になったわけだが、その後一度だけ、知世から着信があった。15歳の誕生日のことだった。




《新しい一年、始まっちゃったね。調子はどぉ?おれの名前、忘れてない?》


知世。世界を知るで、君の名前は知世だった。覚えている。簡単に忘れられるような男ではない。



《綺世、これはおれのでけぇ独り言だから適当に流して》



15歳の誕生日、私は知世の独り言を聞いた。


















《綺世の顔と名前、おれは今日も好きだと思った。お前以上にその名前が似合うやついねーと思うんだよな、知らんけど。ヒトメボレって言葉、もう多分おまえ以外に使えねーわ。だってヒトメボレだよ、綺麗な世界って。まじおまえの両親センスアリ太郎かよってな。はあなにこの独り言。ちげーよ、本題は。

綺世にとって難しいこととか辛いことはやらなくていーと思う。おまえ15で不登校経験してるサイキョウ中学生じゃん、人生反抗期、向かうとこ敵無しだぜ。バカでも運動音痴でもコミュ障でも、綺世は綺世なんだ。呼吸するだけでいい。永野綺世は生きてるって、誕生日が来る度に実感してほしい。ボロボロでもいいから、可能な限り生きろよ綺世。けど無理はすんな、死にたくなったら死ね。あと、矛盾だらけのおれのこと忘れないで。とりあえずキリいいから、20歳まで綺世が生きてて、おれも生きてたら、また、告白させて。


お前の名前と顔と、存在が、好きってさ》







永野(ナガノ)綺世。

20歳になった。
20年、ボロボロながらに生きた。




​──ブーッ、ブーッ、

四度目の着信が鳴った。知世。今日、4回スマホの画面に示された名前。震える手で、通話ボタンを押した。




《新しい一年、始まっちゃったね。調子はどぉ?おれの名前、忘れてない?》



知世。世界を知るで、君の名前は知世だ。覚えている。簡単に忘れられるような男ではない。



《綺世、これはおれのでけぇ独り言だから適当に流して》




20歳の誕生日、私は知世の独り言を聞いた。






















《久しぶりで無理だね、やっほー、電話に出た つまり綺世、おまえはあれから5年も生きた。すげーよ、快挙だ。綺世の顔と名前と存在。おれは今日もおまえが好きだ、忘れてねーよ、綺世にヒトメボレしたこと。相変わらずおまえの名前は声に出すと美しいよ、あやせあやせあやせあやせあやせ、アヤセ、ながのあやせ。はあなにこの気持ち悪い独り言。ちげーよ、本題はな、綺世。

綺世にとって難しいこととか辛いことはやらなくていーもと思う。おまえ15で不登校経験した元祖サイキョウ中学生じゃん。人生反抗期、向かうとこに敵はいたか?バカでも運動音痴でもコミュ障でも、綺世は綺世なんだ。呼吸するだけでいい。永野綺世は生きてるって、誕生日が来る度に実感してほしい。この5年、ボロボロかツルツルかピカピカかは知らんけどおまえは生きた。可能な限りおまえが生きてておれは嬉しいよ綺世。けど無理はすんな、死にたくなったら死ね。これはおれの、おまえへの本気の全力の、5年前から変わんねえメッセージな。あと、矛盾だらけのおれのこと、この先も忘れないで。おまえの人生に干渉すること、それがおれの生きる意味になってんだよな、知らんけど。とりあえず次にキリいいのは22か?ゾロ目って縁起良さそうなんで。綺世が生きてて、おれも生きてたら、また、告白するよ。お前の名前と顔と、存在が、好きってね。これはさぁ、誰がなんと言おうと恋だぜ。キモくても、理解できないって言われてもやめられん。だってこれ、ヒトメボレだぜ》





《なぁ、綺世、》









《おれは、やっぱりおまえのことが好きだ》







彷徨に(いろ)ふこそ〈完〉

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