「魔獣侵攻が、開始した?」

 プラムという脅威をようやく制圧できたと思ったのも束の間。
 謎の女性が突然現れて、私たちの前で驚愕の言葉を口にした。
 当然、この場にいる魔術師たちは揃って首を傾げる。

「な、何を訳のわからないことを言っている」

「そもそも貴様は何者だ?」

「あらあら、わたくしとしたことが、自己紹介が遅れてしまいましたね」

 幽霊のような格好をした女性は、白ドレスの両端を控えめにつまみ上げ、僅かに膝を曲げる動作を見せて答えた。

「皆様はじめまして。わたくしは反魔術結社ミストラルの現在の頭領をさせていただいております、アリメント・アリュメットと申します」

「ア、アリメント……!?」

 私とミルを含めた、国家魔術師たち全員が目を見開く。
 アリメント・アリュメット。
 事前情報で名前だけは聞いている。
 現在、反魔術結社ミストラルを統治している主。
 魔法至上主義の魔術国家に不満を抱いている兵士を率いて、繰り返し重大な事件を引き起こした張本人。
 まさか自らこの場に出向いて来るなんて思ってもみなかった。

「アリ、メント、様……! 申し訳、ございません……!」

「まあ、まさかあなたが敗れてしまうだなんて、まるで想像していませんでしたよ」

 地面に横たわるプラムを見て、アリメントは悲しげに目を伏せる。
 しかしすぐに顔を持ち上げると、柔和な笑みを浮かべてかぶりを振った。

「しかし謝る必要はございません。あなた方に国家魔術師たちを食い止めていただいている間に、『終焉の魔笛』が無事に完成しましたので」

「なっ――!?」

 終焉の魔笛が、完成した……?
 確かそれが、魔獣侵攻を引き起こすための魔道具だと聞いたような……

「状況をご理解いただけていないみたいですので、改めてお伝えします。あなた方は惜しくも、間に合わなかったということですよ」

 アリメントは不意に胸元に手を入れると、そこから黒い横笛を取り出した。
 随所に金の装飾が施されている、重厚感と禍々しさを兼ね備えた笛。

「すでにこの終焉の魔笛によって、王都の周辺の凶悪な魔獣たちに命令が送られております。『王都ブロッサムへ向けて侵攻を開始しろ』と」

「わ、我々がそんなデタラメを信じると思うのか……!」

「冗談だと思うのでしたらそれでも構いませんよ。あなた方がこうしている今も、笛の音を聞いた各地の魔獣たちは、王都ブロッサムへ向けてその足を進めておりますから。そこにいる住人と魔術師たちを、蹂躙するために」

 アリメントの柔らかな笑みの裏に、不意に不気味な何かを感じた。
 皆も同じく恐怖を抱いたのか、険しい顔つきで冷や汗を滲ませる。
 もう魔獣侵攻が開始したなんて、いくらなんでも早すぎる。
 聞いていた情報では、まだ時間に猶予があったはずなのに。
 ミストラルの兵士たちとプラムの妨害によって、かなりの時間を稼がれてしまったのは事実だが、それでも魔道具の完成にはまだまだ日数を必要としていたはずだ。
 まさか誤情報? それとも予想以上に開発が順調に進んで、予定よりもだいぶ完成が早まったとか?
 いや、そうではなかったようだ……

 突如、アリメントの手元で、終焉の魔笛が砕け散った。

「――っ!?」

「あら、やはりこうなってしまいましたか。もう少し調整の時間がありましたら、より理想的な仕上がりになっていたのですけど」

 終焉の魔笛が壊れた。
 もうあの魔道具は使用することができない。
 アリメントの様子からしても、たった一度の使用で壊れてしまうのは想定外だったらしく、魔笛は完璧な仕上がりではなかったようだ。
 無事に完成したとは言っていたけど、あくまでそれはただの急ごしらえ。
 私たちが襲撃に来たことで、開発を急ぐしかなく、結果未完成の魔笛で魔獣侵攻を開始せざるを得なかったのだ。
 それは不幸中の幸いだと言えるが、魔獣侵攻が始まってしまったのもまた事実。

「あぁ、すごく楽しみですね。魔法の力に自惚れた憐れな魔術師たちが、暴走した魔獣の群勢に為す術もなく惨殺されていく光景が。間もなく王都ブロッサムに、魔術師たちの血肉の絨毯が広がります」

 その光景を想像したのか、アリメントは血の気の薄かった顔をほのかに上気させた。
 このままじゃ、王都にいるみんなと魔術学園が危ない。
 町には防衛隊の国家魔術師たちが控えているけれど、魔獣侵攻の規模は計り知れないものとなっている。
 どうにかして魔獣侵攻を止めないと。

「【凍てつく大地(ニブル・ヘイム)】!」

「――っ!?」

 その時、何の前触れもなく、地面に氷が走った。
 それは瞬くような勢いでアリメントの足元に迫る。
 だが、奴は目覚ましい反応を見せて飛び退り、氷の魔の手を危なげなく回避した。
 隣を見ると、杖を構えて立っている相棒の姿が。
 魔術師たちがミルの背中を見ながら驚愕を示す。

「い、今のはまさか……!」

「無詠唱魔法だと……!」

 確かにミルは今、魔法の詠唱をしていなかった。
 そのため誰も彼女が魔法を使うとは事前に察知できず、唐突に走った氷に驚かされた。
 小声で詠唱をしていた様子もなかったし、今のは確実に超高等技術である『無詠唱魔法』だ。
 それを見て、私は驚くと同時に納得する。
 あのプラムにたった一人で勝てたのは、戦いの中で無詠唱魔法を習得したからだったんだ。
 なんだか自信に満ち溢れているように見えたし、無詠唱魔法を習得したのなら頷ける。
 それを躱したアリメントは、変わらず柔和な笑みを浮かべているが、目が笑っておらず不気味な眼差しでミルを見据えた。

「あらあら、そちらには随分と血の気の多い方がいらっしゃるみたいですね」

「今すぐに魔獣侵攻を止めてください。さもないと……」

 ミルは杖の先端をアリメントに向けながら目を細める。
 その脅しにまるで動じる様子もなく、奴はおもむろにかぶりを振った。

「残念ですが、ご希望に沿うことはできそうにありません」

「なぜですか?」

「開始された魔獣侵攻は、わたくしでも止めることは不可能なのです。そういう風に開発しましたから」

 一度始めてしまったら、首謀者のアリメントでも止めることはできない。
 魔術師に捕縛されて魔獣侵攻の停止を強制される可能性を考慮したのだろう。
 後先考えずに魔術国家を滅ぼすことだけを考えているなら、確かに利口なやり方だ。

「だとしても、あなたを捕まえなければならないことに、変わりはありません。大人しくしてもらえるのでしたら、手荒な真似はしませんが……」

「うーん、誠に残念なのですが、その望みも叶えて差し上げることは難しいかと思います」

 アリメントはこれ見よがしに、困り顔で顎に指先を這わせた。

「わたくしたちが長年待ち焦がれて、ようやく叶えることができた念願の魔獣侵攻。それをこの目で見届けずして牢獄送りにされてしまうのは、さすがに不本意ですので」

「では、どうすると?」

 ミルの問いかけと同時に、他の国家魔術師たちも目を鋭くする。
 奴がこの状況から逃れる術が果たしてあるというのか?
 こちらも度重なる激戦の末、かなり戦力を削られてしまったけれど、それでもいまだに多勢に無勢。
 魔術師側が優位なことに変わりはない。
 頼みの綱であっただろうプラムも、ミルの健闘によってこの通り捕縛されている。
 それでも慌てずに、余裕すら感じさせるアリメントは、いったい何を考えているのか。
 全員で警戒の目を光らせる中、彼女は再び胸元に手を入れた。
 そこから一枚の“札”を取り出し、静かに笑ってみせる。

「そ、それって……」

 見覚えがある。
 いまだに胸元にその僅かな感触が残っている。
 プラムが私を第四層にある貯水部屋に送り込むために使った、“瞬間転移の魔道具”。
 まさか……

「――っ!」

 嫌な予感がした私は、咄嗟に地面を蹴ってアリメントに接近した。
 一瞬遅れてミルも気が付き、杖の先に水色の魔法陣を展開させる。
 だが……

 突然アリメントの後方から、巨大な黒狼が飛び出して来た。

「ガアッ!」

「サチさん!」

 巨大な爪が頭上から落ちて来て、私は慌てて後ろへ飛ぶ。
 間一髪で黒狼の一撃を躱したけれど、気が付けばアリメントの前には複数の魔獣の群れが立ち塞がっていた。

「グルルゥゥゥ!」

「ア、アリメント様の邪魔は、絶対にさせないぞ……!」

 それらの魔獣の後ろに、こちらを睨みつけてくる白衣姿の奴らが数人。
 おそらく最下層の研究層で魔道具開発に携わっていた研究員たちだろう。
 どうやら何らかの方法を使って魔獣たちを操っているようだが、顔色がおかしい。
 病的なまでに青ざめており、著しい疲労感と意識の朦朧が窺えた。
 魔獣の首に首輪のようなものが掛かっており、それと似た形の腕輪を研究員全員が手首に着けている。
 あれが魔獣の意識を操っている魔道具で、その副作用で体に不調が現れているのだろうか?

「では、私はお先に祭典の場に向かわせていただきますね。できることでしたら、そちらで捕らえられているプラムさんもご一緒にお連れしたいと思っていたのですが、それは難しそうですので」

 と、そんな研究員たちと魔獣の群れに足止めをされている間に、アリメントがこちらに向かって手を振っていた。
 どうやら奴はプラムを連れて行くためにここに様子を見に来たらしいけど、それが叶わないとわかって早々に見限った。

「留守を任せた我が子たちと、楽しく遊んでいただけたら幸いです。それでは」

「ま、待て!」

 そんなこちらの静止も聞かず、アリメントは札を胸元に押し当てた。
 瞬間、幽霊のようなその姿が私たちの視界から消え去る。
 魔道具による瞬間転移。
 口ぶりからして王都に向かったみたいだが、そこまでの長距離転移が果たしてできるのだろうか?
 魔道具の力は未知数なので真相は定かではない。
 ただ、奴がどこに行ったのかは今そこまで重要ではなく、魔獣侵攻が本当に行われたかどうかを確かめるのが何より先決だ。

「い、行け! 邪狼(イビルウルフ)!」

「憎き魔術師たちを食い荒らせ!」

 そのためにはまず、この研究員たちと魔獣の群れを鎮圧する必要がある。

「この魔獣たちを外に出すな!」

「上層にはまだ怪我をして体を休めてる連中が大勢いる! 何が何でもここで駆除するぞ!」

 こいつらを無視して上層へ逃げれば、入口で休息中の怪我人たちを巻き込んでしまうことになる。
 階段の下からはまだまだ魔獣が溢れて来ているので、ここから先へは一匹も通すわけにはいかなかった。
 本当だったら、こんな魔獣たちに構っている暇はないが、私たちは戦わざるを得ない状況なのだ。

「【敵はすぐそこにいる――紅蓮の猛火――一球となりて魔を撃ち抜け】――【燃える球体(フレイム・スフィア)】!」

 国家魔術師の一人が火炎魔法で黒狼の迎撃を試みる。
 国家に認められた魔術師だけあって、かなりの威力の魔法だったが……

「ガアッ!」

「――っ!?」

 黒狼はまるで怯む様子もなく、真正面から飛びかかって来た。
 火炎魔法を涼しげに掻き消しながら、魔術師に凶悪な爪を振り下ろす。

「【氷華の薔薇(ローズド・ノエル)】!」

 そこにミルが、無詠唱魔法によって氷の蔓を速射した。
 黒狼は死角からのその攻撃を避け切れず、瞬く間に蔓に絡まれて全身を凍結させる。

「す、すまない、助かった!」

「普通の魔獣よりも凶暴性が増していて、身体能力もかなり高くなっています! 気を付けてください!」

 ミルのその言葉の通り、黒狼は暴れながら氷の蔓をパキパキと砕き始めた。
 確かに普通の魔獣よりも遥かに強い。
 この状況もどこか既視感がある。
 おそらく魔獣を強化する魔道具を奴らが使ったのだろう。
 一朝一夕で片が付く相手ではないようだ。

 ……普通の魔術師なら。

「【生か死か――死神の大鎌――ひと思いに敵の首を刈り取れ】――【悪魔の知らせ(デス・ノーティス)】!」

 今まさに氷の蔓の拘束から抜け出そうとしていた黒狼に、私は黄泉送りの魔手を向けた。
 瞬間、禍々しい黒い光が黒狼を包み込み、絶えず轟いていた奴の鳴き声を静止させる。

「グ……ガッ……!」

 直後、黒狼はその巨体を地面に横たわらせて、完全に静まった。

「イ、邪狼(イビルウルフ)を……!」

「たった、一撃で……!」

 研究員たちが驚愕の眼差しでこちらを見てくる。
 傍らの国家魔術師たちからも似たような視線を感じながら、私は右手を開いて構えた。

「相手が魔獣なら、手加減はしない」

 ここからは、私の出番だ。
 急いで王都に戻るために、手早くここの魔獣たちを倒してみせる。
 次の標的に視線を向けて、私は唇を走らせた。