私の周りはいつも、笑顔に溢れていた。
 身に覚えのない罪を着せられて、咎人の森に幽閉されてしまったマルベリーさん。
 普段から不幸に付き纏われているミル。
 そういう不運な人たちとよく一緒にいることが多いけれど、私の目の前で実際に大きな不幸に見舞われているところは見たことがない。
 もしかしたらこれは、私の幸運値999のおかげなのかもしれないと思っていた。
 幸運値が高いから、関わりのある周りの人たちにも幸運を振り撒けているのではないかと。

「うっ……ぐっ……!」

「……」

 だから、親しい人の傷付いている姿を見るのは、これが初めてのことだった。
 マロンさんは、腕や脚に大量の切り傷を作って、腹部から多量の血を流している。

「だ、誰か! この子に治癒魔法を頼む!」

「私たちではもう魔素が足らないんだ! このままでは……!」

 マロンさんの治療をしている数人の先生たちが、周りを見渡しながら叫び声を上げている。
 治癒魔法の使用に伴う魔素の消費量は、他の魔法よりも断然多い。
 加えてマロンさんが与えられた傷も相当深いらしく、すでに消耗中の先生たちでは完治までは届かないようだ。
 しかし他の生徒たちも、競技に参加していたため魔素に余裕がないはず。
 そのため見学に来ていた部外の魔術師たちが、急いでこちらに駆け寄って来ようとしていた。
 そんな彼らよりも早く、私は動き出す。

「【涙に濡れた顔――見守る天使――この者に慈悲を与えよ】」

 そう唱えながら倒れるマロンさんに歩み寄ると、先生たちは怪訝そうな顔をする。
 聞いたこともない詠唱式句だったからだろう。駆け寄ろうとしていた魔術師たちも不思議そうな面持ちをしていた。
 そんな彼らの視線を振り切って、私はマロンさんに手を伸ばす。

「【天使の気まぐれ(カプリス・チュール)】」

 瞬間、私の右手に純白の光が宿り、同じようにマロンさんの体を白い光で染め上げた。
 その光が彼女の傷を瞬く間に塞いでいく。
 腕や脚の切り傷、腹部の重傷、内部で起きていた骨折の数々。
 それを一瞬にして、私は“完治”させた。

「えっ――!? 今の傷を、一瞬で――」

「今の魔法は、いったい……」

 十万回に一回の確率で成功する完全治癒魔法――【天使の気まぐれ(カプリス・チュール)】。
 病気以外だったらなんでも治せる魔法。
 だけど、失われた体力までは回復しない。
 そのためマロンさんは控えめに寝息を立てながら眠り続けている。
 とりあえずは命を保たせることができて、私は内心で深く安堵する。
 次いで驚いて固まる先生たちに、念のために尋ねておくことにした。

「……誰が、これをやったんですか」

 自分でも驚くほど、声が低く掠れていた。

「えっ……? だ、誰って、あそこで暴れている生徒だが……」

「競技中に突然叫び出して、この子に襲いかかったところを、君は見ていなかったのか?」

 先生たちが指を差している先には、今まさに暴走中の“兄のマイス”が立っている。
 どうやら勘違いではないとわかった私は、溢れ出しそうになった感情を息と共に飲み下す。
 そしてマロンさんの前から立ち上がり、先生たちに彼女を託して歩き出した。

「マロンさんのこと、よろしくお願いします」

 向かう先は、他の先生たちが戦っている最中の戦場。
 兄のマイス・グラシエールが暴れているグラウンドの中央だ。

「マロン……メランジェ……! コロ……ス……!」

 物騒なことを言いながら、体を不気味に揺らしているマイスは、マロンさんの方に鋭い視線を向けていた。
 直後――

「ウ……ガアアァァァァァ!!!」

 雄叫びと共に、右手から巨大な火の玉を放ってきた。
 あまりの大きさに会場から悲鳴が湧き、先生たちも目を見張る。
 もう魔素に余裕がない先生たちでは、食い止めることは不可能。
 そう判断した私は、先生たちの前に飛び出して、即座に右手を構えた。
 刹那――

 火球は私の手に触れた瞬間、音もなく“消滅”した。

「なっ――!?」

「あれほどの、魔法が……」

「一瞬で、消えた……?」

 先生たちの唖然とした感情が背中越しに伝わってくる。
 魔法無効化能力である【ひと時の平和(イージス・フリーデ)】は、いまだに効果が持続している。
 そのためマイスの放った火球も、私の手に触れる直前に完全に無効化された。
 私は目の前のマイスを警戒しながら、後ろの先生たちに声を掛ける。

「学園長さんから言われて応援に来たサチです。ここは私に任せて、先生たちはみんなの安全を」

「君が、例の……」

「アナナス学園長が言っていた生徒の一人か……」

 そう説明している間にも、マイスが再び魔法を放ってくる。
 今度は宙にジグザグとした軌跡を描く、強烈な雷撃だった。
 周囲が息を呑む中、それも右手で払い除けて無効化する。
 その時、突然私の傍らに何者かが“転移”してきた。

「サチさん!」

「ミル……」

 何もない空間から突如として現れたのはミルだった。
 彼女も学園長さんの魔法で転移して来たらしい。
 マロンさんと一緒に競技に参加していたはずだけど、騒ぎが起きて一度他の生徒たちと一緒に後ろに退げられてしまったのだろう。
 その後、学園長さんの転移魔法でグラウンドに戻って来たと。
 瞬時にそこまで理解すると、私はすかさずミルに叫ぶ。

「ミル、障壁魔法を!」

「は、はい!」

 以前に二人で暴走者を止めた時と同じように、私とミルは動き出す。
 彼女の【凍てつく大地(ニブル・ヘイム)】によってグラウンド中央に氷の結界が張られて、その中で私とマイスが一対一の構図になる。
 これなら簡単に逃げられてしまうということもなく、周りへの被害もある程度は軽減できる。
 その分、他の人たちの協力は得られないが、むしろそれは私にとっては“好都合”だった。
 だってこれは、どうしても、私一人だけで片をつけたいから。

「邪魔を、するナッ……! サチッ!!!」

「……」

 血走ったマイスの視線がこちらに向く。
 やはり向こうも私のことには気が付いていたみたいだ。
 それと僅かばかりだが、今のマイスに自我が残っていることも、今の発言で悟ることができた。
 もしかしたら何らかの事件に巻き込まれて、意図せず暴走しているだけかもしれないと思ったけど。
 こうして対面してみるとよくわかる。
 マイスは自分の意思で、マロンさんのことを傷付けたのだ。
 心の底から迸る兄の悪意を、私は肌で感じ取って、静かに拳を握りしめる。
 同時に私の脳裏に、マロンさんの温かくて優しい声がよぎって、強く唇を噛みしめた。

『よろしければご一緒に依頼を受けてみませんか? ついでにお昼ご飯も同席させていただけたら、とても嬉しいなと……』

 実家から追い出される原因を作った兄。過去にそういう因縁があるのも事実だけど……

「ここからは、私たちの兄弟喧嘩だ」

 何よりも、私の友達を傷付けたことだけは、絶対に許せない!
 開戦の狼煙を上げるかのごとく、私は詠唱を開始した。