王立ハーベスト魔術学園から、夏の暑苦しさが少しずつ抜け始めた頃。
 ここ――『咎人(とがびと)の森』にも、時折涼やかな風が吹くようになっていた。
 そんな中、森の唯一の住人マルベリー・マルムラードは、自宅でお茶を飲みながら、カップを持つ手を震わせている。

「サ、サチちゃんが、帰って来ません……」

 魔術学園の夏休みはとうに終わったというのに、愛弟子であるサチがその間一度も顔を見せに来なかった。
 マルベリーは夏の間、サチが帰って来ないか毎日心を湧かせながら待っていたというのに。

『魔術学園には夏休みっていうのがあるんだね。じゃあそれくらいの頃になったら、一回ここ帰って来よっかな』

 入学前、サチがそう呟いていたと記憶している。
 しかし彼女は一向に帰って来る気配がない。
 自分が学園にいたのは十年近くも前で、その頃から夏休みの時期がずれ込んでいるなら納得はできるけれど。
 たった十年程度でそんな大きな変化があるとは思えない。
 となれば……

「な、なんでサチちゃんは帰って来ないのでしょうか……? も、もしかして、サチちゃんに何かあったんじゃ……」

 マルベリーはそわそわしながら、家の中を意味もなくぐるぐると徘徊する。
 やがて窓の前で立ち止まった彼女は、ハッと脳裏に悪い予感をよぎらせた。

「ま、まさか……!」

 マルベリーは自分自身に聞かせるように、窓ガラスに映った自分の顔を見つめて呟く。

「サ、サチちゃん、もしかして…………学園生活が楽しすぎて、私のことなんか忘れてしまったんじゃ!」

 マルベリーの脳内で、大勢の友達に囲まれているサチが笑いながら言う。

『ごっめーんマルベリーさん! 友達と遊ぶのに夢中になっちゃって、マルベリーさんのことすっかり忘れてたよ!』

 そんなに薄情な子ではないとはわかっている。
 自分を咎人の森から解放するために、世界最強の国家魔術師を目指して魔術学園に行くような子なのだから。
 しかし心配性なマルベリーは、事態を悪い方向にしか考えることができなかった。

(せ、せめて、サチちゃんの身に何か悪いことが起きていないことだけを、今は祈りましょう)

 そんな風に人知れず、窓に向かって手を合わせていると、その祈りが届いたかのように……
 コツコツコツッ!
 唐突に窓が叩かれた。

「ホーホー」

「あっ、ホゥホゥさん」

 窓の外を見ると、窓の出っ張りの部分に一羽のフクロウがいるのが見えた。
 マルベリーはすかさず窓を開けて、フクロウを中に招き入れる。
 マルベリーが勝手に『ホゥホゥ』と呼んでいるそのフクロウは、政府が定期的に咎人の森に寄越している伝書鳩だ。
 主にマルベリー宛ての手紙を運び入れてくれている。
 ここに幽閉される際に、政府との契約で手紙の受け取りだけは許可をしてもらえた。
 代わりに森の中での近況や、魔導師としての体調の変化、魔素から聞き出した新しい魔法詠唱の式句などを報告するようにと言われたが、マルベリーはそのほとんどをサボっている。
 単に面倒だからというのもあるが、自分が政府にいいように扱われるのが気に食わないと思ってしまったのだ。
 なぜ手紙の一つを寄越してもらうだけで、自分がそこまでしないといけないのだろうか。
 何より政府が魔導師の力を利用しようとしている思惑が見えて、マルベリーは毎回変わり映えのない報告だけをしている。
 当然、サチのことも政府には一切報告をしていない。

「今回もこれくらいでいいですかね……」

 マルベリーは毎度のことのように走り書きのメモのような報告書を作成して、ホゥホゥの足に括られている小さな筒に詰めようとした。
 すると……

「んっ?」

 筒の中には、すでに別の紙が入っていた。

「ホーホー」

「手紙が入っていたんですね。確認し忘れていました」

 いつもなら最初に筒の中を確認するのだが、サチのことが不安すぎて頭から抜けていた。
 改めてそれを取り出して中身を確認してみる。
 するとそれはマルベリーに宛てられた手紙のようで、差出人の名前は……

「あっ、サチちゃんからの手紙……!」

 まるでマルベリーの不安を的確に悟ったかのようなタイミングだった。
 マルベリーは驚きつつも、サチからの手紙に歓喜して表情を綻ばせる。
 サチからは度々こうして手紙を送ってきてもらっているが、その度にマルベリーは笑顔を咲かせて、中身を読んでは瞳の奥を熱くさせている。
 サチと過ごした幸せな日々が脳裏をよぎってしまい、内容に関わらず涙を誘われてしまうのだ。
 今回も同じく泣かされてしまうだろうなと思いながら、マルベリーはサチの手紙を確認する。

 すると、まったく別の意味で、涙を誘われてしまった。

『夏休みは学園での生活に注力したいから、帰るのはまた今度にするよ』

「……」

 多少省いた部分もあるが、要約するとこんな感じの手紙である。
 改めてその内容を見たマルベリーは、うるっと瞳を潤ませて地べたにへたり込んだ。

「ホーホー?」

 ホゥホゥがフクロウらしく首を傾げながら見下ろしてくる中、マルベリーは膝を抱える。
 帰って来たらこんなご飯を作ってあげようとか、久々に一緒に森を散歩しようとか、色々と計画を立てていたのに。
 今一度サチが帰って来ないのだとわかり、マルベリーは悲しみを堪えることができなかった。

「う……うぅ……!」

 師匠の自分がこんな惨めではサチも胸を張れないだろう。
 しかし、寂しいものは寂しいのである。
 そんな風に嘆き悲しんでいる最中、マルベリーはふとあることを思い出した。

「あっ、そういえば、そろそろ星華祭の時期ですね……」

 となると、サチが帰って来られないのも無理はないと考えを改める。
 学業の他に、そっちにも集中しなければいけないとなると、ここに帰って来ている暇はなさそうだから。
 今から競技の練習とか諸々の準備に追われて、大変にしているに違いない。

「私が我儘を言うわけには、いきませんよね」

 涙を拭ったマルベリーは、頑張っているサチの姿を思い浮かべて気持ちを入れ替えた。
 今は大人しく待つことにしよう。
 改めてそう思いながら、サチの手紙を大切そうに棚に仕舞おうとすると、ふと窓際のホゥホゥと目が合った。

「ホーホー?」

「……」

 その時、マルベリーの脳裏に、白い天使と黒い悪魔が現れた。
 白い天使は『そんなことはいけません』とマルベリーを説得し、黒い悪魔は『やっちゃえやっちゃえ』と心を煽ってくる。
 果たしてこれは許されることなのか否か、マルベリーは数秒悩んだ挙句に、少しだけ悪魔に魂を売ることにした。

「ホゥホゥさん、あなたの体を、少しの間だけ“貸して”もらうことはできませんか?」

「ホー?」

 マルベリーは手を合わせて懇願する。
 ホゥホゥはそれを見て首を傾げていたが、マルベリーの真剣な表情を見てやがて返事をした。

「ホーホー」

 首を縦に振り、肯定的な反応を示す。
 その賢さと優しさにマルベリーは感動しながら、「ありがとうございます!」とお礼の言葉を返した。
 前々から賢い子だとは思っていたが、まさかここまで意思疎通ができるとは思わなかった。
 ともあれ了承を得られたということで、マルベリーは自分に右手をかざす。

「【夕餉(ゆうげ)は済ませた――入眠の刻限――身体(からだ)はまだ起きている】――【夢見の心地(トランス・チェンジ)】」

 一瞬、マルベリーの体に青い光が灯る。
 しかしそれだけに終わり、マルベリー自身に特に変化はなかった。
 だがそれでも彼女はこくりと納得したように頷くと、続いて今度は椅子を持って来て、それに腰掛けながらホゥホゥに右手をかざす。

「【追われた住処――彷徨う魂魄――仮宿はすぐ目の前にある】――【魂の宿泊(ソウル・ナイト)】」

 すると今度はちゃんとした変化が起きた。
 マルベリーは唐突に意識の糸が切れたように、椅子に座りながらぐったりと項垂れる。
 一方でホゥホゥの体には白い光が灯り、雰囲気がガラリと変わった。
 マルベリーの視界には今、椅子の上で項垂れている自分の姿が映っている。

(上手くいったようですね)

 マルベリーは今、フクロウのホゥホゥの体の中から、自分の姿を見つめている。
 自らの意識を切り離して、対象者の肉体に一時的に乗り移ることができる魔法――【魂の宿泊(ソウル・ナイト)】。
 これを使ってホゥホゥの肉体の中に意識を放り込んだ。
 これならばホゥホゥの体を借りて、サチに会いに行くことができる。
 あくまで自分自身の肉体は咎人の森に置いたままだし、これなら森から脱走したことにはならないだろう。

(少し屁理屈っぽいですけどね……)

 その時、椅子に項垂れていたマルベリー本人の肉体が、意識を切り離したのにもかかわらずひとりでに顔を上げた。
 そして虚ろな瞳で机に置いてあるカップに目を留めて、それを飲み始める。
 ホゥホゥの肉体に憑依している間は、マルベリー本人の体が無防備な状態になる。
 だからマルベリーは、ある魔法に無意識下の自分の肉体を任せることにした。
 意識を失くした際、体内の魔素が自動的に肉体を動かす魔法――【夢見の心地(トランス・チェンジ)】。

(これなら元の体も放っておいて問題はないですね)

 魔素が健康的な状態を保つために、自動で生活を送ってくれる。
 肉体に意識が戻るか、一定時間が過ぎれば効果は切れてしまうけれど、持続時間は魔力値によって変動するのでマルベリーの魔力値なら二、三ヶ月なら活動を任せることができる。

(では、ホゥホゥさん、王都までよろしくお願いいたします)

「ホーホー」

 基本的に肉体の主導権はホゥホゥ自身にあり、ホゥホゥが拒めばすぐにマルベリーの意識は元の肉体に戻されるようになっている。
 ゆえにとても不安定な状態ではあるものの、ホゥホゥはマルベリーを拒むことなく、彼女の意識を乗せたままバサッと飛び立った。
 そして政府がある王都ブロッサムを目指して翼をはためかせる。
 咎人の森には特殊な結界が張られており、マルベリーが脱走した際には警告が流れるはずなのだが、意識のみなら特に反応を示すことはなかった。

(待っていてください、サチちゃん!)

 愛弟子の学園生活の様子と、星華祭での活躍を見届けるために、マルベリーは意識だけ咎人の森を飛び出したのだった。