「……ど、どうして、こんなこと…………」
緑髪の女生徒がとった行動に、ミルは当然ながら首を傾げた。
なぜ方位磁針をわざと壊したのだろうか。
手を滑らせて落としたわけでもなく、意図的に地面に叩きつけて砕いた。
そんなことをしたって、この女生徒には何の得もないはずではないか。
それに彼女は、確かに『退学決定』と口にした。
目的はいったい何なのだろう……?
「一年A組、ミルティーユ・グラッセ。一学年の特待生に選ばれた唯一の生徒よね」
「えっ……」
女生徒が勝気な表情でこちらの名前を呼んできて、ミルの脳内はさらにごちゃ混ぜにされる。
なぜ自分のことを知っているのだろうと疑問に思っていると、彼女は呆れたように肩をすくめた。
「今の一年生であんたを知らない奴なんていないわよ。一年全員があんたに注目してる。良い意味でも悪い意味でもね」
「良い意味でも、悪い意味でも……?」
「ただでさえあんたは家章も持たない平民で、貴重な特待生の座をエリートたちから奪っていったんだから、妬まれたって不思議はないでしょ」
それは前々から感じていたことだった。
特待生の称号を得た翌日から、周囲の視線がより痛いものに変わった。
おまけに身に覚えのない噂まで流される始末で、正直今の学園での居心地は最悪だと言わざるを得ない。
その原因は言わずもがな、家章を持っていない平民だからである。
「それだけじゃないわ。あんたは他人の依頼まで奪って成績を稼いでたでしょ」
「うばっ……て……?」
「ただの平民が、貴族様が解決できなかった依頼を達成してくるのは、さぞ気持ちがよかったでしょうね。そうやって内心では依頼を達成できなかった私らのことを見下してたんでしょ」
あの噂のことを言っていると、聞いているうちに理解した。
どうやらこの女生徒は、こちらのことを完全に熟知しているらしい。
滞留していた依頼の消化をしていたことも、家章を持っていない平民であるということも。
それを知っていて彼女はこの場に現れて、こちらの方位磁針を砕いたということだろうか?
彼女の敵意ある視線が、それが事実であると物語っている気がする。
つまり、この女生徒は……
(最初から、私を狙ってた……?)
思えばおかしな状況だ。
すでに実技試験開始から三十分近くが経過しているのに、他の生徒が開始地点付近にいるのは明らかに不自然。
試験開始前からこちらを狙っていなければ、今のこの光景を生み出すことは絶対にできないはずだろう。
では、彼女がこちらに接触してきた理由は何か。それは口ぶりから推察するに、おそらく依頼を取られた恨みを晴らすため。
もっと言えば、この実技試験の妨害を企んでいたのではないだろうか。
女生徒の足元に散らばっている、命綱にも等しい方位磁針の欠片がその証拠だ。
「ど、どうして……」
一つの結論に辿り着き、ミルはまた一つ新たな疑問を抱いた。
「どうして、私のいる場所がわかったんですか? こんなに広い森の中で、辺りは真っ暗なのに……」
こちらの実技試験を妨害しようとしていたのは理解した。
しかしだとするとまたおかしな点が浮かび上がってくる。
始めからこちらを狙っていたとしても、この日知らずの森の中で的確に個人の居場所を特定するのは不可能に近いはずだ。
周囲の状況を事細かに知ることができる空間把握系の魔法を用いたとしても、対象範囲はかなり限られてしまうので、それで森の横幅いっぱいを覆うことはどんな術師にだってできない。
結論、意図的にこちらの居場所を特定して試験の妨害を企むことはできないはずなのだ。
と思っていると、緑髪の少女は懐から一枚の紙を取り出した。
「バカなあんたのために、特別に教えてあげるわよ」
それは実技試験開始直前に、参加者全員に行き渡った開始地点を決めるための抽選のくじ。
そこに書かれていた数字は、『265』。
ミルが引いた『260』と、たった五つ違いだった。
「最初からあんたの開始位置の近くにいたってわけ。それなら後をつけるのなんて簡単でしょ」
「……」
確かにそれなら、実技試験開始直後からこちらを尾行することは難しくない。
けれどそれだと、また一つ別の疑問が湧いてくる。
そのくじの番号は、果たして狙って引いたものなのだろうか?
始めからこちらの試験を妨害するつもりだったのだとしたら、開始地点はなるべく近場の方がいいはず。
だが、開始地点は抽選のくじ引きで決めた。
くじを意図的に操作でもしなければそんなことはできない、と思っていると、真相は意外にも単純明快なものだった。
「たまたまよ」
「えっ?」
「たまたまあんたの近くのくじを引いたってだけ。種も仕掛けも何もありはしないわよ」
こちらの試験の妨害を企んでいる人間が、たまたま都合のいいくじを引くなんて。
そんな偶然が許されていいのだろうか。
瞬間、『不幸体質』という言葉が脳裏をよぎる。
とことん自分が不運な人間だということを、ミルは痛感した。
「だから言ったでしょ。『ついてなかったわね』って。ま、それでも結局あんたは試験を妨害されてる可能性が高かったんだけどね」
「ど、どういう、ことですか?」
「およそ三十人。これが何を意味する人数かわかる?」
理解ができずに固まっていると、緑髪の少女はいまだに勝気な様子で語った。
「あんたに依頼を横取りされて、恨みを抱えてる生徒の人数よ。あんたの試験を妨害しようとしてた人間は、私だけじゃないってこと。その中であんたの開始位置と一番近くになったのが私だったから、こうして私が嫌がらせに来たってわけよ」
「横取りなんて、そんなつもりは……」
サチから聞いた話を思い出す。
自分の悪い噂が校内で広まっているという話だ。
誰かが悪意を持って意図的に流しているとサチは言っていたけど、まさかその三十人のうちの誰かが自分の噂を……
いや、もしくは目の前のこの女生徒が、その噂の発信源なのかもしれない。
「平民の分際で調子に乗りすぎたわね、ミルティーユ・グラッセ。それじゃあ私はもう行くから」
優越感を得るためだけに種明かしを終えた女生徒は、そのまま踵を返してしまう。
最後にこちらに顔だけを向けてきて、不敵な笑みを浮かべた。
「退学おめでとっ」
その後彼女は、森の暗闇の中に溶け込んで、完全に姿が見えなくなってしまった。
すぐに追いかけるべき、だと頭のどこかでわかってはいても、ミルはすぐに動くことができなかった。
真正面から他人の悪意をぶつけられる経験なんてなく、思わず放心してしまったのだ。
やがてミルはハッと我に返ると、女生徒が立っていた場所に駆け寄る。
そこには粉々になった方位磁針が落ちていて、ミルはその欠片を摘みながら背筋を震わせた。
磁針自体もひしゃげており、これをどうにかして方角を知るのはもはや不可能。
これがなければ、目標地点の場所を知ることができない。
(こ、このままだと、退学に……!)
あの女生徒の思惑通り、目的地に辿り着くことができずに学園を追い出されることになってしまう。
やっぱり自分は、一人では何もできない役立たずの魔術師なんだ。
サチに助けてもらわなければ、まともに試験の一つも乗り越えることができない、まさに金魚のフン。
特待生に選ばれたのも、そもそもこの学園に入学することができたのも、全部全部サチがいてくれたからではないか。
こんな無能……退学になって当然だ。
『生徒の中にはよく思ってない人たちも大勢いるけど、この学年で一番なのはやっぱミルだよ』
刹那、聞き慣れたサチの声が頭の中に響いて、ミルはハッと息を飲んだ。
こんな、ダメダメな自分のことを、それでも認めてくれる人がいる。
そんなサチと一緒に進級したい。卒業まで辿り着いて国家魔術師になりたい。
何よりまだ、離れ離れになんてなりたくない。
せっかく見つけた、ただ一人の大切な友達だから。
(諦めたく、ありません……!)
暗い森の中を照らすように、彼女の瞳に闘志の火が灯った。