「あなたは、誰?」
サチはひどく困惑しながら、突然現れた謎の女性に問いかけた。
対して女性は、戸惑うサチとは正反対な様子で、淡々と冷静に名乗った。
「私はマルベリーと言います。この森で暮らしている魔術師ですよ」
マルベリーと名乗った女性は、意外と若いように見えた。
ジトッとした目をしながらも、黒いフードを取り払った顔は幼なげな印象があり、肌も白くてきめ細かい。
無愛想ながらも綺麗な黒髪お姉さん、という印象だ。
歳にすると二十代……いや、もっと低いかも。
マルベリーの顔をぼんやりと見つめながらそんなことを考えていると、不意に彼女が居心地悪そうにもじもじし始めた。
「……あの、そんなにじっと見ないでもらえませんか? あまり人目に慣れていなくて」
そう言いながら顔を隠すように、また黒いフードを被ってしまう。
なんだか少し冷たい印象を受けて、サチは思わず顔を曇らせた。
子供が苦手なのだろうか。だとしたらとても気まずい。
と思ったら、フードの下から覗いている白い頬が、仄かに赤らんでいた。
ただの恥ずかしがり屋だったようだ。
こんな辺境の森で暮らしているため、人目に慣れていないのは当然だと言えよう。
ずっと無表情なので冷たい人かと思ったけど、ただの人見知りだとわかってサチは密かに安堵した。
そして極力マルベリーの顔をじっと見ないように、視線を僅かに逸らすようにする。
すると会話もピタリと止まってしまい、しばし二人の間には気まずい空気が流れた。
その沈黙を嫌ってか、あるいは子供だからと気遣ってくれてか、マルベリーが絞り出すようにして話を振ってくれた。
「……もしよろしければ、お嬢さんの名前を聞いてもいいですか?」
そういえばまだこちらは名乗っていなかったのだと思い出す。
「サチ。サチ・グラシエー……」
と、サチは言い掛けたが、途端に言葉を切って言い直した。
「じゃなくて、ただのサチだよ」
グラシエール。
この家名を名乗るのはもう許されていないだろう。
なぜなら自分はあの家を追い出された身だから。
「サチちゃん……ですか。とってもいいお名前ですね」
本当にそう思っているのだろうかと疑いたくなるほど、マルベリーは無愛想なままだった。
声音からして本心なのだろうが、やはり顔色が読みづらい。
こちらも反応しづらいなぁ、とサチが思っていると、続けてマルベリーが辺りを見回しながら聞いてきた。
「サチちゃんは、どうしてこんな場所に一人でいたんですか? ご家族と離れ離れにでもなってしまったんですか?」
当然の疑問だと言えよう。
年端も行かない少女がたった一人で、このような場所にいるのは明らかに不自然だ。
この森で暮らしているマルベリーにはさらにおかしく映ったことだろう。
「父上に捨てられたの。それでここにいた」
「捨て……られた?」
「父上が大切になさっている壺を、私が割ってしまったみたいで、それで家を追い出されたの」
淡々と語ってみると、マルベリーの首がどんどんと傾いていった。
父親に捨てられた、という言葉自体を疑っているわけではないようで、もっと気掛かりなことがあるみたいだった。
「割ってしまった“みたい”って、なんだかおかしな言い方ですね? 自覚なしに割ってしまったということですか?」
「ううん、兄上が割ったみたいだけど、なんか私が割ったことにされてた」
「それは、何というか……ひどいお話ですね」
無表情を貫いていたマルベリーだったが、その話にはさすがに心を痛めたのか顔を曇らせた。
「んっ? というか、壺を割ったことにされただけで、家を追い出されてしまったんですか? それは何と言いますか、かなり理不尽な気が……」
「そういう家だったから」
「……な、なるほど」
そうと言われてしまえば、マルベリーは“なるほど”としか返すことができないだろう。
家族には家族の在り方というものがあるので、一概に否定することはできないから。
「……お母さんは何も言わなかったんですか?」
「母上は体が弱くて、ずっと前から部屋に籠りっきりだから。でも、父上の言うことは絶対だから、何もしてくれなかったと思う」
「……そうですか」
これで複雑な家庭事情があることをわかってもらえたみたいで、マルベリーはそれ以上家族について言及してくることはなかった。
しばしの沈黙が二人の間に流れる。
するとその静けさを嫌がるように、マルベリーが再び声を掛けてきた。
「家を追い出されてしまったのに、随分と落ち着いているというか、すごく冷静なんですね」
確かにサチの落ち着き具合は、とても家を追い出された年端も行かない少女のものとは考えられない。
普通ならばあまりの衝撃に顔を蒼白させて、魔獣に襲われた恐怖も合わさって泣き喚いていなければおかしいのだ。
しかしサチは至って冷静な様子で返した。
「いつかこうなるかもしれないと思ってたから」
「思ってた?」
「家ではずっと冷たくされてきたから、いつかはこうなるんじゃないかなって思ってたの。生まれた時から魔法の才能が無くて、期待もされてなかったし、あの家で私はただの邪魔者だったから」
年端も行かない少女の口から、邪魔者なんて言葉が出てきた。
マルベリーはそのことに驚き、ジト目を大きく見張っていた。
しかしサチにとっては聞き慣れた言葉ゆえ、滑らかに口から出てきてしまう。
父親から散々浴びせられた罵声。だから今さら自分で言って悲しくもならない。
……はずだったのだが、家を追い出されたことが意外にも心に来ていたのか、サチは知らず知らず顔を曇らせてしまった。
するとマルベリーはサチのその表情を見て、辿々しく提案する。
「も、もし、よかったらなんですけど…………うちに来ませんか?」
「えっ?」
「行くところがないのでしたら、しばらくうちに泊まっていただいても大丈夫……ですよ」
一言一言を頑張って絞り出すようにしてマルベリーは言い切った。
人見知りな性格で人付き合いに慣れていないからだろうか、とても緊張した様子で提案してくれたように見える。
この森で子供を一人にしておくのはかなり危険。だからひとまずは自宅まで来ないか。
という意図の提案だというのは理解できたが、サチにはわからないことが一つだけあった。
「どうして?」
「はいっ?」
「どうして、助けてくれるの?」
先ほども今も、どうして見ず知らずの自分のことを助けようとしているのだろうか?
このまま見捨ててしまってもいいはずなのに。
名家から捨てられた子なんて厄介な種でしかないはずなのに。
人見知りな性格なら尚更、他人とはなるべく距離を取りたいと思うはずではないのだろうか?
何よりもサチは生まれてから冷遇しかされてこなかったため、他人からの親切に違和感しか覚えなかった。
不思議そうに首を傾げているサチに、マルベリーは少し考えてから答えを返す。
「そう……ですね。サチちゃんが昔の私に、少しだけ似ていると思ったから……でしょうか?」
「……」
「だからなんだか、放っておけないなと思って……。はっきりしない答えで申し訳ないんですけど……」
変な人、とサチは思った。
自分の体を見下ろして、どこら辺が似ているのだろうと疑問に思った。
しかしとりあえずサチは、行く当ても特になかったので、マルベリーと名乗った女性魔術師について行くことにした。
どうせこのままポツンと立っていたところで屋敷の人が迎えに来てくれるわけもないし、何だったらむしろ先ほどのような恐ろしい魔獣が腹を空かしてやって来る可能性の方が高いので、サチは少しでも生存確率の高い道を選択することにした。
マルベリーの後をトボトボとついて行くと、やがて日の光に照らされた一軒家が見えてきた。
「どうぞ。あまり立派な家ではないんですけど」
謙遜しながらそう言ったが、屋敷に住んでいたサチから見てもそれなりに大きな家だと思った。
森の木々に囲われるようにしてひっそりと建つ、木造りの一軒家。
二階建てで広い間取り。木漏れ日も適度に差して日当たりも悪くなく、時折心地よいそよ風と小鳥のさえずりが窓から入り込んでくる。
テーブルや椅子といった家具はシンプルなデザインのもので揃えられていて、一方で食器にはこだわりがあるのか豪華な装飾が施されたものが棚に並んでいる。
掃除や整理整頓は隅々まで行き届き、空気が澄んだように綺麗だとサチは感じた。
あの物置小屋のような、風通しの悪い小さな部屋とは大違いである。
加えて、マルベリーが慣れた手つきで出してくれたお茶も、香り高くて上品な味わいだった。
そしてその日の晩ご飯も手間を掛けて作ってくれた。
客人を持て成す機会が今までなくて不慣れなのか、異様なまでに気合が入っているように感じた。
「サチちゃんは細いので、たくさん食べた方がいいと思いまして」
分厚いお肉に具沢山のシチュー。新鮮な野菜のサラダに水々しい色とりどりの果実。
さらにはデザートとしてふんわりとしたカップケーキまで用意してくれた。
今まで岩のように固いパンと、ほとんど水のような極薄スープしかほとんど口にしてこなかったので、あまりの美味しさに目頭が熱くなった。
何より終始マルベリーが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、ボロボロになっていた心が奥底から癒やされた。
無愛想な表情とは裏腹に、面倒見が良くて料理上手な、とても優しいお姉さんだとサチは思った。
居心地が悪いはずがなかった。
「行くところがないのでしたら、もうしばらくここに居てもいいですからね」
最後にはそんなことまで言われてしまい、サチは完全にマルベリーに心を許していた。
結果彼女は、気が向いたら実家に戻る方法か、どこか別の場所に行こうかなと、とても呑気な考えを抱いた。
そう思いながらマルベリー家でのどかな生活を送り、サチは彼女の元で静かに育っていく。
そして気が付けば……
いつの間にか、五年もの月日が経過していた。