マルベリーが初めて魔素の声を聞いたのは、四歳の頃だった。
 厳密に言えば、それまでも自分の体内に宿されている魔素の声ははっきりと聞こえていた。
 しかし言葉の意味をちゃんと理解できるようになったのは四歳になってからである。
 初めに聞いた声は何だったろうかと疑問に思うけれど、確か他愛のないことだった気がする。
 魔素は、大抵は意味のないことばかりを延々と垂れ流し続けているから。

 今日は天気がいいねと呟く魔素がいたり……
 気に入っている歌を口ずさみ続ける魔素がいたり……
 意味もなくゲラゲラ笑い続ける魔素がいたり……
 時には体内の魔素同士で喧嘩を始めることもあった。
 それほどまでに魔素は一つ一つが個性的で、それらの声が四六時中聞こえる魔導師の苦労は筆舌に尽くし難い。
 それでも稀に、とても重要なことを教えてくれて、それで命を救われたこともある。

 マルベリーがまだ孤児院にいた頃、一度だけ枯れ井戸に落ちたことがある。
 周りの子たちと歳が離れていて馴染めず、一人で孤児院の庭の端で遊んでいる時のことだった。
 背が伸びて枯れ井戸の中を覗き込めるくらいになり、珍しいもの見たさに石積みの縁に身を乗り出したところ……
 手が滑って、そのまま井戸の中に転落してしまった。
 幸い、井戸はそこまで深くなく、地面には枯れ草や枯れ葉が敷き詰められていて怪我はしなかった。
 しかし幼いマルベリーが自力で脱出できるはずもなく、他の子たちや乳母たちにも気付いてもらえず閉じ込められることになった。

『たす、けて……』

 暗く、寒く、静かな場所に、たった一人で取り残される。
 幼い少女にとってこれ以上の恐怖と不安はなかった。
 声も外に届かず、一生このまま出られないのではないかと思っているその時……

 マルベリーの頭の中に、一つの声が鳴り響いた。

【ナカナイデ】

『えっ?』

 それは幾度となく聞いていた魔素の声。
 まるでマルベリーの涙に誘われたかのように現れた魔素は、彼女に救いの声を授けた。
 魔法の詠唱式句という、救いの声を。
 その時は風系統の跳躍魔法の式句を教えてもらい、枯れ井戸から脱出することができた。
 それからも度々、命が危険に晒された時や、重要な場面などで魔素が声を掛けてくれた。



 同じだ。
 この感覚は、あの時と同じ。
 魔素が救いの声を授けてくれる時の感覚。
 絶望的な状況に光を射してくれる時の感覚。

【アキラメ、ナイデ】

 マルベリーはその声を聞いて、焦燥していた気持ちが徐々に落ちついていった。
 同時に脳裏に大きな疑問符を浮かべる。
 窮地に立たされた今、その状況を案じて魔素が声を掛けてきてくれたのはわかる。
 今までも同じように、何度も危機を救ってくれたから。
 しかし今マルベリーは、本来の自分の肉体ではなく、フクロウのホゥホゥの体に魂を移している。
 この状態で魔素の声が聞こえたということは、これはホゥホゥの体内に宿された魔素の声?

【マダ、マケテナイヨ】

 マルベリーは初めて、自分のもの以外の魔素の声を聞いた。
 別の肉体に移っている時でも、その者の魔素の声はしっかり聞こえるのだ。
 改めて知ったその事実に驚愕を覚える。
 さらに、続く魔素の声にマルベリーはさらなる衝撃を受けることになった。

【コレ、ツカッテ】

 そう言って伝えてきたのは、魔法の詠唱式句だった。
 初めて聞いた魔法の式句。
 加えてその効果についても教えてくれて、マルベリーは人知れず息を呑んだ。

(こ、この魔法は――!)

 短く感じられた時間の中、それを最後にホゥホゥの魔素との会話は終わった。
 唐突に告げられた魔法の詠唱式句。
 それを頭の中で反芻させながら、マルベリーは不意にある話を思い出す。

 フクロウには、様々な言い伝えがあるという。
 神話において知恵の女神の聖鳥として登場することから、“知恵の象徴”として知られていたり……
 夜行性かつ眼鏡を掛けているような見た目で勉強家の印象があることから、“賢者の化身”として伝えられていたり……
 はたまた古くから畑の害虫駆除を行ってくれる益鳥であることから、“幸せを呼ぶ鳥”として認知されていたり……
 しかし国によっては、まったく違った象徴として扱われていることもあるという。

 それは、“死の象徴”。

 空想物や伝承では悪魔の化身として扱われることが多く、“死”を招く不吉な存在として知られている。
 そんなフクロウの中に眠る魔素が教えてくれた、一つの魔法。
 それは……

(この魔法なら確かに、この戦況だってひっくり返せるかもしれません。でも、この魔法を使える人なんて……)

 心当たりは、一応ある。
 けれど今、ここにその人物はいない。
 せっかくのこの魔法も持ち腐れになってしまうのだ。
 もしあの子が今ここにいれば、絶望的なこの状況だって打ち破れるかもしれないのに。

「グガアッ!」

 その時、先ほどポワールに攻撃を仕掛けて来た獣人が、再びこちらに迫って来た。
 傷付いて倒れているポワールが、まだ絶命していないことを察してまた爪を振り上げる。
 ポワールは、傷の痛みのせいで身動きが取れない。
 それでもマルベリーだけは守ろうと小さく蹲る。
 マルベリーは己の無力さを嘆いて心の中で叫びを上げる。
 刹那――

「【生か死か――死神の大鎌――ひと思いに敵の首を刈り取れ】」

 まるでこちらの願いを、たった今聞きつけたかのように……
 あるいは、こうなることがわかっていて、魔素が詠唱式句を伝えてきたかのように……

 マルベリーの目の前で、見慣れた銀色の髪が揺れた。



「【悪魔の知らせ(デス・ノーティス)】!」



 漆黒の波動が迸り、目の前から迫っていた獣人に浴びせられた。
 瞬間、獣人は糸の切れた操り人形のように倒れる。
 すでに事切れて生気を感じなくなった獣人を目にし、マルベリーはゆっくりと顔を上げた。

「……間に合ってよかった」

 銀色の髪につぶらな碧眼。
 整った童顔に華奢な体躯。
 青と白を基調とした魔術学園の制服もよく似合っており、見慣れたクローバーの髪飾りも微かに光る。
 自分と一緒にいた頃よりも、その背中がとても大きく見えて、マルベリーは感涙を禁じ得なかった。

「もう、大丈夫だよ」

 幸運の魔術師、サチ・マルムラードが、絶望の戦場に光を灯した。