「え」

 次の日、学校についた私は絶句する。
 上履きが、ない。
 違うところに入れ間違えて帰ったのかも、と周りを探すけれど、ない。
 仕方なく、来客用のスリッパを借りた。
 3年前にも上履きがなくなったことがある。
 それは、いじめだった。

(どうして…)

 3年前のことが頭を過ぎって、胸がすーすーした。

「あ、来た来た」

 教室のドアをくぐった途端、向けられた視線。
 これ見よがしに聞こえてくる声。

「地味子のくせに、よくやるよ」
「速水センパイに何してくれんのよ」
「自意識過剰すぎ」

 それらは、全て自分に向けられた敵意だとすぐにわかった。
 上履きも、きっと誰かによる嫌がらせだ。

(速水センパイって言った…?)

 どうして、センパイの名前が出てくるのか・・・。
 不思議に思いながらも、私は席に座って教科書を引き出しにしまい、鞄を机のフックにひっかけて本を開く。
 俯いて、本を読む。
 ほら、こうすれば雑音なんか気にならない。

 バシッ

 すごい音と共に手に衝撃が走る。

 床に本が落ちる音で本が飛ばされたのだと気づいた。

「ねぇ、ちょっと、あんたさ、速水センパイのことケガさせたらしいじゃん」

 威圧的な声。
 本がなくなった手から視線が外せない。声の主は、多分、同じクラスの野沢さん。

「えっ…、あの…」
「はぁ、しらばっくれるつもり?昨日、購買で、転びそうになったアンタを支えてくれたセンパイをつき飛ばして、ケガさせたんでしょ?」

 私が知っているのは、支えてくれたことまでなんだけれど。つき飛ばした覚えもけがをさせた覚えもない。

 でも、と考える。
 もしかして、振り払った拍子にもしかして爪が当たったとかしたのかもしれない。
 急いで逃げてしまったから、けがをさせてないとは言い切れなかった。

(もしかして、本当にケガさせちゃった…?)

 サーっと顔から血の気がひいていくのが自分でもわかった。

「黙ってないでなんとか言ったら?」

 そう、言葉を投げたのは誰だろう。いつの間にか、野沢さんの隣にもう一人立っていた。

「いや…あの…」

 視界がどんどん狭まって、暗くなっていく。

 やばい、貧血…。
 気持ち悪い。

「ちょっと、ごめ、んなさい…気分が…」

 私はなんとか立ち上がって、廊下の方へ向かった。

「ちょっと!逃げるつもり!?」

 怒りに満ちた声を背中に受けながら、千鳥足で、他の人の机に手をつき、なんとか廊下に出たけれど、そこでもう、平衡感覚が取れなくて膝をついて倒れこんでしまった。
 ぐわんぐわんに世界が回る。
 気持ち悪い。

「岸野っ?大丈夫か?」

 この声は、多分高土くんだ。

「う、うん、大丈夫、ただの、貧血…動かなければ大丈夫、だから」
「何よ、か弱いふりすれば助けてもらえると思って」
「おい、お前ら、いい加減にしろよ、寄ってたかって、岸野がなにしたってんだよ」
「高土くんには関係ないでしょ、女子の話に足突っ込まないで」

 言い争う声が、どこか他人事のように、遠のいていった。


「あ、気が付いた?」

 保健室の先生が、カーテンから顔を出す。

「貧血ね、鉄分足りてないんじゃない」
「私、どうやってここまで来たのか覚えてないんですけど…」

 先生の向こう、壁に掛かった時計を見るとすでに4時間目だった。

「あぁ、確か高土君てこが運んでくれたのよ」

 なんてことだろう。
 よりによって、高土くんに助けられるとは。
 時間を巻き戻してやり直したい。
 上履きが無くなってる時点で家に帰れば良かった…。

「高土くん、優しいわねぇ。まさに王子様って感じよね」

 先生の目が乙女になっているのも、無理はない。
 クラスメイトの高土くんは、次期ポスト速水と言われている程の人だ。
 容姿端麗で特進クラス、更にバスケ部エースという豪華三本立ての彼は、既にファンクラブも出来ていて、速水センパイの後継者の道を突き進んでいた。

「教室戻ります」
「大丈夫?もう少し休んでいってもいいのよ?」

 先生に「大丈夫です」とだけ返して私は教室に戻った。
 本当は、教室になんか戻りたくない。
 戻れば、また注目を集めてしまうだろう。
 重い足で授業中の教室に入る。

「おぉ、岸野大丈夫かー」

 後ろのドアから入ったせいで、皆が一斉に振り返った。

「あ、あの…、今日は、帰ります…」

 なんとか声を振り絞る。

「そうか、気を付けて帰れよ」

 机に行く途中、私は盛大に転んでしまった。
 足をひっかけられたのだ。
 それを見ていた後ろの方の席からくすくすと笑い声がした。

(あぁ、久しぶりだなぁ、この感じ)

 すごく、気持ち悪い。

「おい、大丈夫か?」
「あ、はい…すみません」

 急いで荷物をまとめて、私は学校を後にした。


 次の日、登校すると、今度は教科書に落書きされていた。
 文字が読めない程に、太い油性マジックで。徹底してるなぁ、と感心してしまう。
 やはり、あの速水センパイ遭遇イベントは、いじめコースへのフラグでしかなかったのだ。
 そんなことより、と私は席を立って、高土くんのところに向かった。
 クラスの人が、私がどこへ行くのか目で追っているのを感じながら。

「あの、高土くん…」

 広い背中に声をかけると、高土くんは振り向いて「あ、おはよう」と挨拶してくれる。
 この人は、1年生の時からいつも普通に接してくれる唯一のクラスメイトだった。

「おはよう。あの、昨日、保健室まで運んでくれたの、高土くんだって保健室の先生にきいたんだけど」
「あぁ、うん、俺」
「迷惑かけてごめんなさい。ありがとう」
「いや、どういたしまして」

 じゃぁ、とすぐさま自分の席に戻る。 昨日、家に帰ってからも、頭の中はもやもやして、野沢さんの言葉が離れなかった。

『購買で、転びそうになったアンタを支えてくれたセンパイをつき飛ばして、ケガさせたんでしょ?』

(どうしよう…、本当にケガさせてたら…)

 無くなった上履きや、いやがらせなんかよりもよっぽど気になる。
 でも、確かめる術がなかった。
 速水センパイの教室に行って、本人に真相を確かめることなど、底辺の住民である私には到底不可能で。
 結局、堂々巡りで終わってしまった。

 今日も野沢さんに絡まれるのではと、ドキドキしていたけれどそんなこともなく、お昼休みに入って一安心。
 相変わらず女子の視線は突き刺さるものがあったけれど、私はずっとシェルターを作ってやり過ごしていた。
 お弁当と水筒の入った手提げを持って、職員室に寄って鍵を取り図書室へと向かう。
 図書室では、PCを立ち上げてからお弁当を広げた。
 いつものルーティンだ。

「いただきます」

 お箸を持ってそうつぶやいた時、ドアが開いた。
 私は開いたばかりのお弁当箱にかるく蓋をして、カウンターの下の引き出しにしまう。
 たまに、昼休みの早い時間に返しに来る人がいるのだ。
 近づく足音をききながら、カウンターに本が置かれるのを待つけれど、その人は、カウンターの目の前に来ても本を出す気配がない。不思議に思って顔を上げたのと同時に声が降ってきた。

「椅子、ないの」
「え?…あ、」
「もう一個、椅子」

 と、私を見下ろして言ったのは、速水センパイだった。

「あ、はい」

 カウンターの後ろの司書室からパイプ椅子を一脚持って、カウンターの向こうに居るセンパイに渡した。
 椅子をどうするのだろう、と思いながら席に戻ると、なぜだかセンパイも着いてきて私の隣にパイプ椅子を開いて座ったのだった。

(えっと…これは一体…)

「あ!センパイ!ケガさせちゃったって本当ですか!?」

 そうだ、聞かなければならないことがあったのだ。
 隣のセンパイは、驚いた顔をしていた。

「びっくりした。アンタそんなでかい声も出せるんだ。って、ケガってなんの話」
「あ、すみません…。あの、購買で私が振り払った拍子にセンパイがケガしたって…昨日、ちょっと人づてに聞いて…」
「ケガなんかしてないけど」
「…、よかったぁぁ…!」 

 本当に良かった。
 じゃぁ、やっぱりあれはただの噂だったんだ。購買での出来事に尾ひれ背びれがついて周りに回ってあぁなっただけなんだ。

「おおげさ」

 ふっ、と一瞬だけどセンパイが笑った気がした。

「あ、あと、メロンパンごちそうさまでした。あ、今お財布持っていなくて・・・。今度ちゃんと支払います」
「いい、いらない」
「で、でも」
「貸し、ね」

 その意図が読めないでいると、センパイはまた口を開いた。

「どこかで返してもらうから、今はいい」

 そう言われても、やっぱり良くわからない。

「飯、食わねーの」
「あ、はい」

 促される形でカウンターの下にしまったお弁当を再度広げて食べ始めると、速水センパイも隣でコンビニのおにぎりの包装をあけだす。
 そっか、速水センパイはいつも買ってくるんだ。
 一昨日、寝坊したといったのは、寝坊してコンビニに寄ってこれなかったという意味だったんだ。 また一つ、センパイのことを知れたことが、とてもうれしい。

 聞きたいことも聞けて、言いたいことも言えたので、胸の内がすっきりした。
 晴れ晴れとしたのか、頭が動き出す。
 どうして速水センパイはここに居るのだろうか。
 どうして、私はあの速水センパイと隣に並んでお昼を食べているのだろうか。

(底辺と頂点…)

 この学校の、頂点に君臨する速水センパイと、底辺に属する私。
 変な組み合わせだ。
 私は、気にしても仕方がないと諦めて特に話すこともせず、読みかけの小説を片手に箸を進める。
 図書室は、ひんやりと涼しかった。 結局、速水センパイはご飯を食べ終わってからもパイプ椅子に座ってスマホをいじったり、寝ているのか目をつむっていたりと特に会話もせずに、とても静かに過ごしていた。
 予鈴が鳴ると、「じゃあね」と去っていった。
 やっぱり、何を考えているのかわからない。


「うそでしょ…」


 6限目の移動教室から戻ると鞄がないことに気づく。
 悪質だ。
 鞄には、財布も定期も入っているのだ。
 これでは、家に帰れない。
 私は、さすがに盗むまではしないだろう、と踏んでHR後に校内を見て回った。

(ないなぁ…、どうしよう、塾の時間に遅れちゃう)

 中庭やごみ箱、焼却炉、ロッカー、捨てられていそうな所を回ったけれど、見つからなくて途方に暮れていた。
 先生にお金を借りるしかないか、と諦めて一旦教室に戻ると、誰も居ないはずの教室に人影が見えた。

「あ、岸野」
「高土くん?」

 傾き始めた西日に照らされたその人は、バスケの練習着を着て首からタオルをかけていた。
 汗だくなのに、綺麗だと思わせる美貌が彼にはある。

「探してるの、これ?」
「あ」

 彼の手には、私の鞄。

「ありがとう」

 受け取って中身を確認すると、中のものはそのままのようだった。

「あ、良かった、定期もお財布もある」
「体育館の外のごみ箱にあった。誰のかわからなくて中身見たけど、ごめん」
「ううん、大丈夫。本当にありがとう」

 練習中だったのに、わざわざ持ってきてくれたんだ。

「先生に言ったら?上履きも、だろ」

 高土くんの視線がスリッパを履いた私の足元にいく。

「定期もお財布もあったし…、大丈夫」 
「でも、こんなのおかしいじゃん」

 私は、なんだか責められているような感覚になって、鞄を握りしめた。
 きっと、人一倍正義感の強い高土くんからしたら許せないんだろう。
 それでも、私は首を横に振る。

「私は大丈夫だから。ありがとう」

 先生に言ったところで何も変わらないことはもう既に経験済みだ。

「高土くん、本当に、ありがとう」

 教科書を鞄に詰め込んで、まだ何か言いたげな高土くんにそう言って私は学校を後にした。