「あ!」

 叶の声で現実に引き戻された僕は、反射的に叶の方を見た。

「どうしたの?」
「流れ星! 俺、初めて見たかも!」
「え、あんなに空見てきて⁉」
「うん! あー願い事三回言えなかった……!」

 悔しそうにそう言って、叶は突然バタンと仰向けに地面に寝そべった。
 
「あ、寝ながら空見るのめっちゃ最高じゃん! ほら、陽介も!」

 叶は自分の横の地面をポンポンと叩き、僕にも寝そべるように促す。

「……いや、砂が髪の毛に、」
「あと少ししたら帰る時間だし、別にいいじゃん! ほら早く!」
「……わかったよ」

 僕は渋々と叶の横に寝そべる。
 そして改めて空を見る。僕は、息をのんだ。

「な、すげぇだろ?」

 叶が得意そうに笑う。

「……うん、これはすごい」

 星空が、視界いっぱいに飛び込んでくる。さっきまで視界の端で光っていた花火たちも、今はもうない。
 頬を撫でるぬるい風。冷たい地面。そして満天の星空。
 前言撤回。全くもって素朴な星空じゃない。座って見ていた時も綺麗だったはずなのに、ちょっと見方を変えるだけで、こんなにも違って見えるのか。

「さっきさ、俺も前は星に願うこと馬鹿にしてたって言ったじゃん」
「うん」

 再び叶が言葉を紡ぎ出す。今度はさっきよりも静かな声だった。
 僕も静かに相槌を打つ。

「高校入学前、俺めちゃくちゃ緊張してて。だから、気休めに前日の夜に星に願ってみたんだよね。馬鹿にしてたくせに何してんだって感じだけど。そもそも七夕じゃないし」
「うん」
「それでも割と本気で願ったんだ——『こんな俺にも最高の友達ができますように』って。今までも普通に友達いたけど、高校では知り合い一人もいないし、うまくいくか不安だったからな。そしたらさ——」

 叶は僕の方に少し視線をずらして、

「陽介が出会ってくれた」
「……うん」
「あぁ、星も馬鹿にするもんじゃねぇなって。偶然かもしれないけど、もし俺が星に願ってなかったら、陽介とも出会えなかったかもしれない。入学式の日に陽介が偶然早く来ることもなかったかもしれない。今こうやって、一緒に星を見て感動してくれる友達はいなかったかもしれない」

 「それから星に願うってこと、馬鹿にできなくなったよ」と叶は笑って続けた。頬をかきながら、恥ずかしそうにそう言った。
 そんな叶を見て、僕は本当のことを今言おうと思った。

「僕は叶のこと、ずっと苦手だった。いや、今でも少しその真っ直ぐすぎるところが苦手」
「……うん」

 叶は一瞬驚いたように目を丸くして、それから静かに頷いた。続けてと叶は言う。

「叶は自分の世界を持っていて、どんどんそれを広げていって。そんな叶が羨ましかったし、見ていて僕は自分の情けなさを知って辛くなった。それでも僕が叶と友達をやめなかったのは、苦手とかどうでもいいくらい、叶のことが友達として大切だったからだ」
「うん」

 叶は力強く今度はうなずいた。
 普段の僕達ならこんなことは言い合わない。でも、なんとなく星空をこうやって見上げていたら、心のうちに溜めていたものが自然と溢れ出していた。

「いつも思ってたんだけどさ、叶が空を見てる時、どこかに飛んでいきそうな、フワッと消えちゃいそうな気がしてたんだよね。そんな叶を僕は引き留めたかった。隣じゃなくてもいい。先に進んでもいい。たまに僕の所に来て、くだらない話をして、少し頼ってくれればいいよって」
「うん」
「だからってわけじゃないけど、僕は友達として叶の側にいたかったし、何よりも叶のこともっと知りたいなって思ってた。今でも思ってるよ」
「そっか」

 叶の声が少しくぐもった。叶の方を見ると、彼は腕で目を隠していた。
 
「……陽介のアホ。お前が感動させるから星空見れねーじゃん」
「……先に感動させるようなこと言ったの、そっちじゃん。星が綺麗な日に普段言えないようなこと言うのもよくない?」
「陽介も大概にロマンティックだよな」
「叶ほどじゃないけどね」
「ハハッ、だな」

 突如空に、鮮やかに光の花が咲いた。打ち上げ花火が始まった。
 タイミングの良さに二人で笑い合って、そして静かに立ち上がる。

「じゃあ、短冊掛けに行こうか」
「泣き顔がもうちょっと落ち着いてから行くわ。先に短冊掛けてきて」
「わかった、先に行ってるよ」

 叶はその場にとどまって、僕は反対にグラウンドの中央に向かった。
 一年生の時は「いい大学に入れますように」。
 二年生の時は「叶の世界が知れますように」。
 二年生の時の願いは、たぶん叶も知らない。こっそり書いて、笹の目立たないところにこっそりかけたから。一年生の時に知りたかったことを、二年生の短冊に僕は託したのだった。
 そして今年の願い。

「あ、夏川! 花火一緒に見ない?」
「あ、ごめん。先に短冊掛けてくる」
「お、いってら~」

 クラスメイトの誘いを断り、笹の前にたどり着く。
 僕の、願い。

『叶の願いが叶いますように』

 叶の願いを僕は知らない。知っていたとしても僕が何かをして叶えられるわけじゃない。星だったら他人の願いを叶えてやりたいと、彼はさっきそう言った。その時僕は思ったのだ。それじゃあ叶の願いは誰が叶えるんだろうと。
 だったら僕が他の星たちに願おう。叶の願いが叶ってほしいと心から願う。そして僕も、叶の願いが叶うように微力ながらも手伝ってあげたい。
 少しうざいだろうか。でも、星に願うくらい僕の自由だから。

「陽介さぁ、願うなら自分のこと願えよな~」
「あ、叶」

 僕の後ろからのぞき込むように僕の短冊を見る。

「俺も短冊掛けよーっと」

 いつの間にか隣に並んでいた叶が僕の横に並んで、自分の短冊も笹に掛ける。

『陽介の願いを叶えられますように』

 元気な性格とは反対に、凛とした綺麗な字で綴られたその願いを見て、今度は僕が顔を覆う番になる。綺麗な星空にあてられたのか、今日は涙腺が弱いらしい。

「……叶も人のこと言えないじゃん。あーあ、叶のせいで短冊見れなくなった。どうしてくれんの」 
「俺たち高校生活最後の七夕祭りで、お互いのこと願ってんの面白いな」
「全くだよ」
「これって、結局俺らの願い叶うのか?」
「僕は叶のことを願って、叶は僕のことを願って……まぁ、なんとかなるでしょ」
「ま、そうだな~!」

 大きな笹を見上げる。視線を上にあげると在るのは、色とりどりの短冊と星空。最高のコントラストだ。そして——。

「あれ? 夏川|『一人』で何してるの?」

 クラスメイトの一人が僕達の——僕の所に駆け寄ってきた。

「星に、願ってた」
「何それ? ポエマー?」
「そうかも」
「ふ~ん。あ、そろそろみんな帰るって。夏川も早めに帰れよ~」
「……うん」

 気付くと、グラウンドにいたほとんどの人がリュックを背負って帰ろうとしていた。
 そんな人たちを眺めながら、僕らは笹の前から動かなかった。
 
「……俺さ、今日で成仏するわ」

 叶はポツリと、ただ一言そう呟いた。
 驚かない。なんとなく、そんな言葉が来ると思っていた。

「……そっか」
「事故から今日で一年? 早いもんだよな。たまに様子見に来てたけど、その間に陽介もめっちゃ友達出来て、なんか子供の成長見てる親の気分だったわ」
 
叶は僕と自分の短冊を持ってふわりと宙に浮く。その二枚を愛おしそうに見つめながら、

「これさ、お守りに持って行ってもいいか?」
「いいよ。その代わり捨てるなよ」
「陽介の願いを捨てるわけがないじゃん。なんなら短冊に書いた願いごと、星になってでも叶えてやるよ」

 無邪気にほほ笑む叶を見て、僕は必死に唇をかんで溢れ出してきそうな涙をおさえた。手を伸ばしかけて、そっと下ろす。わかってる。伸ばしても触れられない。
 そう。叶は一年前に亡くなった。信号無視の車に轢かれてあっけなく命を落とした。ここに居る叶は、幽霊となった叶だ。
 なにもこの一年間ずっと、幽霊の叶と一緒にいたわけじゃない。叶は数日前——七夕祭りの初日に突然僕の目の前に現れたのだ。「七夕祭りを一緒に回ってほしい」と。
 一年経ってなんとか叶の死を受け入れた僕にとって、再会できたことは嬉しかったものの、それ以上に彼に触れられない、彼はこの世のものではないという現実に気が狂いそうだった。それでも僕はなんとか叶の願いを聞き入れ、後夜祭まで一緒に七夕祭りを回っていたのだ。

「最後に七夕祭り来れてよかった。未練はまだまだあるけど、七夕祭りに来れたからもう十分だ。悪かったな。せっかくの最後の七夕祭り、俺に付き合わせて」
「そんなことは気にしてない。それよりも……本当に、成仏するの?」

 幽霊として一年もこの世にいれたなのら、これからも。
 そんな僕の思いに気付いたのか、叶は寂しそうに笑った。

「俺も考えた。でもさ、結構きついんだ。この世に残っても年を取れない俺が、年を取っていく陽介を見るの。だから、俺は成仏して生まれ変わって、別の人生を歩みたい」
「そこ、『生まれ変わったら陽介に会いに行くよ』とかじゃないんだ」

 僕は苦笑しながら、叶の方を見る。
 叶は僕の方を見ずに、空中であおむけになった。大好きな空を見ているのか、それとも空を見ているフリをしているのか。 

「会いに行きたいよ。だけど、会えるかどうかわからないからな。それに陽介にはもっと気楽にこの先を生きてほしいんだ。そのためには、俺との約束なんかでお前を縛りたくないんだよ」

 そう言う彼の体は、だんだんと色を無くし透明化が進んでいた。 
 そんな彼の姿を見て、僕は後先考えずに彼の方に手を伸ばす。

「……っ。それ、貸して!」

 僕は叶の手から自分の短冊をひったくるように奪い、持っていたペンで願い事を書き替える。

「——僕の願いを叶えるなら、これを叶えろ! 星になんかなるな!」
「おい、陽介お前何して——!」

 叶の姿はもう消える直前だった。短冊を叶に押し返す。
 書き直された僕の短冊を見て、叶は目を丸くしてボロボロと涙をこぼす。僕もつられて涙が溢れだしていた。
 どんなに無茶な想いでも星に願ってみればいい。もしかしたら、何か変わるかもしれない。叶が入学式前に星に願ったように。

「叶! ありがとう! 僕に最高の青春をくれて! 最高の夏をくれて! 叶がいたから僕は変われたんだ! この夏に叶が会いに来てくれたから、僕は生きていられる。生きなきゃって思える。生まれ変わっても叶から会いに来れないなら、僕が会いに行ってやる! 待ってろ!」

 叶と出会って、僕も空を見るのが好きになった。空を見上げるたびに自分の世界が広がっていく気がした。叶と少しでも対等になれる気がした。
 叶の真っ直ぐな言葉たちが苦手だった。でもそれ以上にその言葉たちは、僕にたくさんの夢をくれた。叶の世界に少し触れられた気がして、嬉しかった。
 そして今日、僕は星に願う。叶わないかもしれない願いを、星に。どうか叶いますようにと祈るのだ。
 僕らはボロボロとダサいくらいに泣き続けた。叶が二つの短冊をしっかりと握りしめて、片手でピースを向ける。ようやく叶と目が合う。涙でぐしゃぐしゃの彼の表情は、僕が知る限りで一番の笑顔だった。  

「陽介、今日お前と見た星空、人生で一番綺麗な空だった——ありがとう。また、会おうな!」

 その言葉が聴こえた時には、すでに叶はいなかった。
 力が抜けてその場にへたり込む。涙がとめどなく溢れて、声をも出さずに静かに泣いた。
 短冊は不思議なことに、本当に叶と一緒に消えた。僕ら二人の願いが、叶のこの先を守ってくれればと思う。
 拭っても溢れてくる涙を無理やり止めて、深く息を吸って、誰もいなくなったグラウンドで一人少し寝そべった。
 叶。星がすごく綺麗だよ。天国からはこの星空は見えるのだろうか。君の大好きな空は見えるのだろうか。

「あ、流れ星……」

 叶。僕も今、人生で初めて流れ星を見た。できれば君と見たかったな。
 ねぇ、成仏した人が星になるって本当かな。じゃあ、今の流れ星は君だろうか。
 ——違うな。君はきっと星にならない。星になるなという僕の言葉を、叶は絶対に無視しない。星になったら僕の願い、叶えられないもんな。僕も叶の願い、絶対に叶えてみせるから、叶も頼んだよ。

「また、いつか」

 そう呟いて僕もグラウンドを立ち去った。
 花火の煙の匂いはほとんど消えていて、寂しいグラウンドを彩るのは、大きな笹にかかったたくさんの願い達だった。