翌日。
私が屋上のフェンスに掴まって空を眺めていると、足音もなくその人はやって来た。
「やぁ」
第一声を耳にして、私はパッと振り返る。
「先生……!」
落ち着いた声。穏やかな瞳。纏う柔和な雰囲気。そして今日も、先生からはどこか懐かしい匂いがした。
「心のわだかまりは解けたかい?」
「はい。私の気持ちを初めて両親にぶつけました。絶対聞き入れてもらえないって思っていたけど、両親は誠実に応えてくれました」
優しい笑みで問われ、私は真っ直ぐに先生を見つめて答えた。
「そう」
先生は静かに頷いた。
「私、他県の大学を目指すことにしたんです。合格したら家からは通えないので、一人暮らしをすることになります」
「そうか」
「先生、昨日の言葉を訂正してもいいですか。私、お兄ちゃんのことも両親のことも、本当は嫌いなんかじゃないんです」
兄も両親も、かけがえのない家族だ。一緒にいれば綺麗ごとじゃない、いろんな感情を抱くこともある。そのひとつに嫌いな一面があったことも事実。だけど、それが家族を語るすべてじゃない。
本当は家族のこと、大切に思っていたのだ──!
「知ってたよ。君がお兄さんのこと、ご両親のこと、本当はすごく愛しているってちゃんとわかっていたよ」
先生はやわらかに目を細め、白い歯をこぼす。
夏の日差しの下で見る、先生の笑顔がなんとも言えずまぶしくて、私もまた目を細くした。
「君自身はどうだい?」
「え?」
「自分のことは嫌いなままかい?」
一瞬理解が追いつかなかったのは、その質問が私にとって予想外だったから。不思議なことに、私は自分自身については、まるで考えていなかったのだ。
瞬きを繰り返しながら少し逡巡し、私は口を開いた。
「間違いなく、昨日までは嫌いでした。今もまだ、よくわかりません。……でも、これからは自分が好きな自分でいられるように、そういうふうに行動したいと思ってます」
「いい表情だ。君はもう、大丈夫だね。自分で選んだ道を、自分の足で歩いていける」
先生は目尻を下げ、頭ひとつ分高い位置から私を見下ろす。その瞳はなにかが吹っ切れたかのように晴れやかで、なのに少し寂しそうだった。
……やっぱり私、先生に似た人を知っているような気がする。
──ブワァアア。
その時、屋上に一陣の風が吹き抜ける。
「あっ」
私は咄嗟に先生から視線を外し、風を孕んではためくスカートと髪を抑えて俯いた。
「今のすごい風でしたね。あれ? ……先生? 先生!?」
風が去り、私がゆっくり隣を見上げると、不思議なことにさっきまで隣にいたはずの先生がいなくなっていた。慌てて周囲を見渡すけれど、先生の姿はどこにもなかった。
私はわななく唇を噛みしめて俯いた。
……本当は、捜すまでもない。だって、先生は──。
私はへなへなとフェンスにもたれかかり、おもむろに空を仰ぐ。
照り付ける太陽のあまりのまぶしさに目を瞑ると、瞼の裏に優しい微笑みをたたえた先生の姿が鮮やかに浮かび上がった。そうして先生の笑顔は、いつしか兄の無邪気な笑顔と折り重なるようにひとつになった。
私はずっと、誰かに背中を押して欲しかった。同時に、私の心には兄に対する引け目があり、私の決断が兄によって許されることを望んでいたのだ。
先生は、そんな私の願望が作り上げた幻。だから先生の声は、兄の声。懐かしいと感じた匂いも、少し下がった目尻も、全て兄のそれと同じだったのだ。
私はゆっくり目を開くと、前を見据えた。
これから私は、自分で選んだ自分の人生を歩んでいく。だけど、この決断は決っしてお兄ちゃんを蔑ろにするものじゃない。お兄ちゃんが私にとって大切な家族であることは揺るぎない真理なのだから。
フェンスに背を向けると、私は夏空の下、晴れやかな心で大きく一歩を踏み出した──。