期末テストを終えた私は、学校の屋上にいた。フェンスに寄りかかって仰ぎ見た空は雲ひとつなく、肌を刺すような日差しが注いでいた。
テストの感触はまずまずだった。このまま内申点を落とさずに過ごしていれば、おそらく指定校推薦がもらえるだろう。
全ては順調……それなのに、私の心は晴れなかった。
「浮かない顔だね。なにか悩みごとでもあるの」
まぶしいくらいの太陽を目を細くして眺めていたら、後ろから声をかけられた。
えっ? 振り返ると、二十代半ばくらいだろうか。スラリとした長身の男性が柔和な笑みをたたえて、数歩分の距離を置いて佇んでいた。
男性は温和な雰囲気で、大人の包容力を感じさせた。そして少し垂れた目尻がなんとも優しげだった。
私は初対面で覚えるには不可解なくらいの好感を、男性に対して抱いていた。
「あなたは……? あ、もしかして新しく赴任してきた養護の先生ですか?」
尋ねながら、産休に入る養護の先生の交代で赴任してくるのが男性らしいと、前に噂になっていたのを思い出す。ノーネクタイの白いシャツにスラックスという装いからも、おそらく間違いないだろう。
「なに、テストの出来が悪かったくらいで、そう落ち込むことはないさ」
先生は私の問いかけには答えず、的外れな励ましの言を述べながら私の隣に並んだ。なぜか、先生からはとても懐かしい匂いがした。
「……先生。テスト最終日に浮かない顔でいるからって、その理由がテストの出来だというのは決めつけですよ」
私はぷぅっと頬を膨らませ、唇を尖らせた。
初対面の相手を前にこんなに自然体でいることに、私自身、内心で驚きが隠せなかった。だけど先生の包み込むような雰囲気が、固く閉ざした私の心をいとも簡単に解きほぐしてしまうのだ。
自分自身の不可思議な心の動きに戸惑いつつも、今こうしている瞬間に、かつて覚えたことのない居心地のよさを感じていた。
「ほぅ。なら、どうして君はいつまでもこんなところにいる? 他の生徒たちは解放されたとばかりに、皆、早々に学校を後にして羽を伸ばしているだろうに」
先生の声は不思議だ。どこかで聞いたことがあるような気もするが、思い出せない。
ただ、整然として理知的な口調も、間の取り方や穏やかな抑揚も、すべてが耳に心地よかった。
「つまらない反骨心で、いつまでも帰らずにここにいるんです」
そんな先生の声が、そしてやわらかな眼差しが、私を常になく饒舌にさせた。
「反骨心?」
「先生は、きょうだい児って言葉を知ってますか」
質問の形を取ったが、尋ねるまでもなく、養護教諭が知らないわけがない。
「私、知的障害のある兄がいるんです。きょうだい児ってやつなんです」
私は先生の答えを待たずに続ける。
「家ではいつだって、兄の行動を横目で見ながらの生活です。食事も母たちと兄の介助を交代でしながらなので、ゆっくり食べられたためしがありません。もちろん誕生日やクリスマス、そんなイベントだってまともに楽しめるわけがない。でも家はまだマシで、兄との外出はもっと大変。一緒に出かける時、私はいつだって人の目を気にして肩身を狭くして、身を縮めています。……本音を言うと、私、兄のことが嫌いです」
……友人であれ、家族であれ、こんなふうに心の内を話したことなど一度もなかった。それなのに、先生を前にすると、ずっと胸に燻らせていた思いが、まるで湧き出るように声になってしまっていた。
「うん」
先生は否定も肯定もせず、ただ静かに頷いた。
同情も慰めも、うんざりだった。だから先生が示した自然な反応は、私の胸を苦しいくらい熱くした。
「私の帰りが遅いから、母は今頃きっとやきもきしながら待っていると思います。母は私のこと、介助要因として頭数に入れて、あてにしているんです。だから今、私がここにいるのはそんな母への小さな反抗。……私、両親のことも大嫌い」
「うん」
かなり過激的なことを言っている自覚はあった。普通なら、同情やらを通り越して引かれてしまうに違いない。でも先生は、そっと頷きながら聞いてくれる。
だからだろうか、言葉が止まらなかった。
「でもね、兄や両親のことをそんなふうに思ってしまう意地の悪い自分自身が、本当は一番大嫌いです。……私、なんて冷たい人間なんだろう。最低の人間です」
私は唇を噛みしめて俯いた。握った拳に力が籠もり、爪の先が白くなっていた。
しばしの沈黙の後、先生がゆっくりと口を開いた。
「あぁ、最低だな。ただし最低なのは、今の君の心理状態だ。もっと言えば、こうまで君を追い込んだ環境も最悪だ」
「え……?」
予想外の言葉に驚いて顔を上げると、殊の外強い先生の瞳とぶつかった。
「誰が君を冷たいなどと非難できるだろう。思う心は自由だ。そして君の人生は、君のもの。君の好きに生きていいんだ」
真っ直ぐに告げられた言葉。
耳にした瞬間、トクンと鼓動が跳ね、全身の体温が高くなるのを感じた。
「私の、好きに……? でも私、お兄ちゃんを捨てられません」
「捨てる? おかしなことを言うね。君がお兄さんの介助……しいては将来的な後見も。それらを引き受けないことと、お兄さんを捨てることはイコールではない。君とお兄さんは、どんな関係性であっても兄妹であり、家族だ。それ以上でも以下でもない」
先生は余計な感情を交えずに、理路整然と告げた。
「……はじめてです。そんなふうに言ってもらったのは。……でも、両親はきっと当たり前に期待している」
「人の期待を裏切ることは、たしかに重い決断になる。しかし期待を裏切ることは、決して悪ではないよ。同様に期待すること、それ自体もまた悪ではない。どんな道を選ぶのかは、君自身だ」
目を真ん丸にする私に、先生は続ける。
「君は、どうしたいの?」
真っ直ぐに問われ、ゴクリと喉が鳴った。
「私は……」
答えようとして、いったん言葉を途切れさせた。
当然、決断には責任が伴う。この決断によって、親子の関係に決定的な亀裂が生じる可能性も孕む。本音を言えば、怖さがあった。
「まずは今晩、両親に私の気持ちを話してみようと思います。その上で、最終的にどうするか決めたいと思います」
「うん、それがいいね。まずは腹を割ってご両親に話してごらん。話さなければ、思いは伝わらない。……それで僕は、いつも歯がゆい思いをしている」
「……歯がゆい、ですか?」
「いや、そこは気にしないでいい」
コテンと小首をかしげる私に、先生はフッと微笑み、それ以上を語ろうとはしなかった。
もしかすると先生もまた、なにかしら心の葛藤を抱えながら生きているのかもしれないと思った。
「先生、聞いてもらってありがとうございました。おかげで両親や兄としっかり向き合うことができそうです」
「そう、よかった」
私がお礼を伝えたら、先生はふわりと表情を緩めた。さらに目尻が下がり、やわらかな印象になった。それを見ると、無性に胸が熱くなった。
私は満たされた思いで、視線を先生から晴天の空に移した。
この後、私と先生の間に特に会話はなかった。ただ静かに寄り添って、ふたりでまぶしいほどの太陽を見上げていた。
──ガタンッ。
背後で上がった物音にハッとして振り返ると、見回りの教師が扉から顔を出す。
「まだ残ってたのか? 下校時間だぞ、早く帰れよ」
「すみません! すぐ帰ります!」
私は見周りの教師に答え、慌てて足もとに置いていた鞄を掴み上げる。
「それじゃ先生、私、行きますね。今日はいっぱい話を聞いてもらって、ありがとうございました」
私がペコリと頭を下げて伝えると、先生はやわらかに微笑み、そっと右手を上げて応えてくれた。
私は先生にくるりと背中を向け、パタパタと駆けていく。
「長く残っちゃってすみません、つい話が弾んじゃって」
扉を開け放って待っていた見回りの教師に告げ、ヒラリと屋内に身を滑らせる。
なぜか教師は訝んだ表情をしていたが、私は特段気にもせず小さく会釈して、階段へと踏み出した。
「さようなら」
「あ? ああ、気をつけてな」
帰宅する私の足取りは軽かった。