――彼は、共に逃げよう、と言ってくれました。

 ――私たちの関係に勘付き釘を刺そうとした者に、部外者は黙っていろと本気で怒ってもくれました。

 ――しかし私は、最初からどこか諦めていたのです。

 ――ですから、彼がそう言ってくれただけで十分過ぎるほどに嬉しく、幸せだったのです。


 彼には未熟ながらも力があったから、彼女のことを諦めるつもりがなかったのだろう。

 しかし彼女は恋に落ちても尚、現実を心の隅へ澱《おり》のように沈ませていた。


 ――いいえ、これはまやかしかもしれません。

 ――そう言ってもらえただけで至上の幸せだと思ったのも確かです。

 ――ですがそれ以上に、彼にすべてを捨てさせてしまうことが。捨てたあとで彼が後悔してしまうのではないかということが。とてもとても、恐ろしかったのです。


 彼女の生活は、決して豊かではなかった。

 だから、豊かさを捨ててゼロから始めることの厳しさがよくわかっていた。

 そして、豊かさしか知らない彼が、そんな生活の中で自分を思い続けてくれなくなることを何よりも恐れた。


 ――私は彼に、嘘をつきました。

 ――約束の場所へ必ず行くと、空誓文(そらぜいもん)ばかりを口にしました。

 ――約束の日の前夜、誰にも知らせず村を出ると決めていたのに、です。