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「さすがに料理、は作れないなあ」

 十一日の木曜朝。ハムととろけるチーズを乗せたトーストをもしゃもしゃと頬張りながら、絃葉は呟いた。リフォームしたカウンターキッチンの視線の先では、祖母が自分用のキュウリの浅漬けを作っている。

「どうしたの、絃葉。料理したいの?」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて」

 母親に聞かれ、両手と首を大きく振って否定する。

「絃ちゃん、もし使いたいなら遠慮なく使いなね。私は昼ご飯のときに使えればいいんだから。食材もあるものは自由に使っていいよ」
「なんだなんだ、絃葉の手料理が食べられるのか」
「もう、おばあちゃんもお父さんも違うの! ちょっと別の話!」

 矢継ぎ早に話を振られた彼女はミルクティーを飲みながら苦笑し、その様子を見た家族三人は朗笑する。

「絃ちゃんは得意料理ってあるの?」
「ううん……あ、オムライスは得意だよ。フワフワに作れる」
「へえ。結構難しいだろ?」
「うん、何度か失敗して、料理の動画見ながら練習したんだ」

 朝食を終えた彼女は、シンクにマグカップとお皿を持っていく。家族でこんな風に談笑するのは、彼女がここに来てから初めてのことだった。


「外行ってきまーす」
「気をつけてね!」

 ご飯を食べてからしばらく家でゆっくりしていた絃葉は、母親に見送られ一五時過ぎに家を出た。連日思うがままに存在感を示していた太陽を、シュークリームのように膨らんだ雲が隠す。気温もそこまで上がらず、高所である恩恵を十二分に受けた過ごしやすい気候になっていた。

「さて、今日は何しようかな」

 昨日はグレースカイさんを真似してみたものの、さすがに外で料理はできない。
歩きながら彼女はやりたいことを考える。これまではいつもと違う道を歩いたり、音楽をランダムで再生したり、ラジオで聞いた「新しいこと」をやっていたけど、今日は「新しいことを見つける」という新しいことをすることになりそうだ。

 そんなものがすぐに見つかるのかという不安と、どんなものに出会えるかという期待が、彼女の胸の中でないまぜになり、絃葉は一回大きく深呼吸してみた。

「ううん、新しいことかあ……」

 アイディアがまとまらないまま、お決まりの散歩コースを歩いて道を下る。そして、火曜日にいつもと違う別れ道に進んだ場所まで来たときだった。

「あ、そういえば!」

 あることを思い出して、提げていたサコッシュの中を漁る。そこにはこの前折ってしまったビラが入っていた。

 よし、と自分に気合いをいれるようにパチンと指を鳴らし、絃葉は火曜と同じように、遠回りの道を選んで右に曲がった。

 しばらく歩き、やがて見えてきたのはちょっとしたペンションよりずっとオシャレな、洋風造りの建物。この前たまたま見つけた、ハーバリウムのお店だった。
絃葉は店内に人がいないか窓ガラスから確認して、おそるおそる店に入る。カラコロというベルの音で、一人でやっているのであろう女性店主が彼女のほうに早足で向かってきた。

「いらっしゃい。この前も来てくれましたよね?」
「あ、はい。あの……」

 一瞬言葉に詰まる。彼女の脳内に、カオリさんの声が浮かんできて、彼女はぎゅっと手に力を入れた。

「ハーバリウム作りをできるって、この前見たんですけど……」

 絃葉はビラを見せる。さっき手を握ったときに少し折り目のついてしまったその紙には、可愛いポップ体のフォントで「ハーバリウムを手作りしてみませんか?」と書かれていた。

「あ、はい。できますよ。千五百円で、このくらいの大きさのができますけど、やってみますか?」

 親指と人差し指を広げて高さを表した店主に、絃葉は「お願いします」と軽くお辞儀をした。

「用意するものは、ドライフラワーとガラス瓶と専用のオイル、花を切るためのハサミ、摘まむためのピンセットね。生花はハーバリウムにあんまり向かないの。水分を含んでるから、カビや細菌繁殖の原因になって、長期保存には向かないのよね」
「そうなんですね。切り花でやるんだと思ってました」

 お店の奥にある、たくさんの花や葉が並んだテーブルで、絃葉は店主から作り方を説明される。ブラウンのニットワンピにツヤのある薄ベージュのサテンパンツという格好の店主は、鮮やかなオレンジ色のチョーカーが夏らしいコーディネートだった。

「まずはお花から入れるわよ。この瓶のサイズに合わせてお花をカットしていくの。茎の長さなんだけど、瓶の中で斜めに立てかかるぐらいの長さだと型崩れしにくいわ」
「分かりました。あの、入れる順番とかってあるんですか?」

 栄養ドリンクの瓶くらいの大きさのガラス瓶を見ながら、絃葉は店主に質問してみる。知らない人と話すのは緊張するけど、どうせなら良い物を作りたかった。

「良い質問ね。カットしたお花と葉を交互に入れていくと綺麗な並びになると思う。片方にお花が寄っちゃったりしにくいからね。で、最後にオイルを入れれば完成。ボトルから垂れないように注ぎ口から慎重にそそいでね」
「はい、やってみます」

 私向こうにいるから、と言って彼女は去っていき、絃葉は若干緊張の面持ちで作業を始めた。

 店内に小さな音で流れるボサノバを聞きながら、彼女は花を選んでいく。種類と色ごとに分けられたカゴに盛られた花には、名前が書かれていた。

「カラーは揃ってた方がいいよね」

 花束のように色とりどりのものより、テーマカラーを決めた方が失敗しない気がする。絃葉はそう考え、夏でも涼やかな青をテーマにして花を選んでいく。アジサイ、スターフラワー、スターチス、ペッパーベリー……初めて見る花もあって、こんなに鮮やかな青い花や実があるのかと新鮮な驚きを覚えた。

 立てた瓶に茎を当てて長さを測りながらハサミでパチンと切っていく中で、彼女はすっかり作業に夢中になっている自分に気が付く。手を動かすと没頭できる、というDJカオリの話は本当らしい。

「近くに住んでるの?」

 不意に、店主が話しかけてきた。ことりとテーブルにオレンジジュースを置いて「良かったら飲んで」と優しく微笑む。絃葉は「ありがとうございます!」と口をつけ、オレンジ特有の程良い酸味で喉を癒やした。

「いえ、父母がここの出身なので今週は祖母の家に来てます」
「そうなんだ。ふふっ、何にもないでしょ、この辺り」
「え、あ、いや、はい……」

 同意したら失礼になるかな、と彼女は不安になったものの、最初に素直にリアクションしてしまったので、正直に答えた。

「私もおんなじこと思ってたから大丈夫」
「……そうなんですか?」

 そう尋ねると、店主は店の入り口の方に首を向け、昔を懐かしむように目を細めた。

「結婚して名古屋からこっち来たのよ。ホントに娯楽がなくて退屈になっちゃってさ。じゃあ自分が楽しいと思うことやろうと思って、働いてお金貯めて、ここにお店出したの」
「すごい! このお店も全部自分で作ったんですね!」
「ありがと。ごめんね、邪魔しちゃった。ゆっくり作ってね」

 レジの方に戻っていった店主をしばらく目で追った後、絃葉はまた作業に戻った。

 茎の長さを揃えながら、入れるもののバランスを考える。緑の葉があまり入らない方がいいだろうか、ペッパーベリーを入れすぎると花が目立たなくなるのでは。幾つかの花材を並べて考えていると、壁に掛けられた時計の長針がどんどん加速していくように感じた。

「よし、これで入れてみよう」

 ピンセットを持って震える手で花を摘まみ、絃葉は瓶の中に入れていく。アドバイスを貰った通り、花や実と葉を交互に入れると、確かにバランス良く配置できた。目一杯詰め込みたい気持ちもあったけど、少しくらい空間があった方が見やすい気がする。

 彼女は、ちょうど近くの棚を掃除していた店主に声をかけた。

「あの、瓶に入れ終わったんですけど、こんな感じで大丈夫でしょうか……?」
「どれどれ。あ、うん、上手に出来てるわね。じゃあこれを使ってオイル入れてみて」

 注ぎ口のついたボトルキャップで、ゆっくりとオイルを注いでいく。グラスにスッとオイルが注がれ、茎や葉が優しく揺れた。

「できた!」

 シルバーのフタをしめて完成。世界にたった一つの、小森絃葉だけの青いハーバリウムが出来上がった。

「おつかれさま。すごく綺麗に出来てる!」

 店主は陽光に透かすように瓶を目の高さまで持っていく。絃葉が遠くから見ても、とても満足のいく出来栄えになっていて、彼女は自然と口角が上がった。
「この袋に入れて持って帰って。あとこれ、オイルが漏れたときにどうするかとか、まとめてあるから一緒に入れておくわね」
「ありがとうございました!」

 お金を払い、お礼を言って彼女は店を出ていく。抱えるように胸の前で持っているアイボリーの袋も、楽しそうに揺れていた。

「ふふっ」

 相変わらず過ごしやすい気候で、彼女は軽くスキップしてみる。思った以上に楽しかった。


 しかし、しばらくすると、その気持ちも日の立った風船のように萎んでいく。

「やっぱりなあ……」

 ハーバリウムを作るのは楽しかった。作ることに没頭するとネガティブな感情がいなくなるというのも身をもって実感した。それは本当だ。

 だからこそ、作業を終えたからネガティブが戻ってきたらしい。「満たされない」という思いが心の中に満ちていく。ちょうど瓶にオイルを注いだときのように。


 どんなものでも、みんなで楽器を演奏する楽しさには到底敵わない。コンクールやコンサートの高揚感を、今でもすぐに思い出せる。

 そして絃葉は痛烈に自覚する。結局自分は、楽器が大好きなのだ。音を鳴らして、メロディーを重ねて、曲を奏でるのが大好きなのだ。皮肉にも部活から離れたことで、本当に楽器が好きだと気付かされた。

 辞めたくなかった。高校でも演奏したかった。でも自分はあの環境には合わなかった。

 ただ、今考えると、入学前にもう少し調べても良かったのかもしれない。強豪校だもの、激戦なのは当たり前で、そこには当然競争も嫉妬も渦巻くと、ちょっと考えれば分かったのに。

 自分はなぜあの高校の吹奏楽部に入りたかったのか。他の吹奏楽部から一目置かれたかった? コンクールで全国に行きたかった? そんなことじゃない。自分はただ、みんなで吹くのが好きで、中学のときからホルンが好きだっただけ。だからこそ、教え方の上手い先生がいて、レベルの高い人が集まる場所で合奏したかった。

「……ふっ……うっ……うう…………」

 絃葉は泣くのを止めようとするが、気持ちを抑えようとすればするほど、勝手に涙が零れてしまう。下を向いて歩いていると、道路に自分の影が伸びてきた。見上げた空に、燃えるような夕日がかかっていて、眩しいほどの美しいオレンジが胸を焦がす。

「うああ……イヤだ……イヤだよ…………」

 田舎で誰もいないのを良いことに、彼女は我慢せずに泣いた。とめどなく流れる涙を拭くこともせず、頬に濡れ跡を作って服に浸み込ませる。声をあげて泣いたのは、部活を辞めた日依頼だった。



 その日の夜。絃葉はいつものようにラジオをベッドに置いて横になる。夕方感情を爆発させたからか、幾分スッキリした気分になっていた。

 二三時半になり、「Color Your Life」の放送が始まる。青のハーバリウムに赤い夕陽と、今日は色に囲まれた日だったと、彼女は一日を思い返す。

 DJカオリさんの落ち着いた声で番組が進んでいき、番組の後半に差し掛かって一曲流れた後だった。

「それでは、次のおたよりです。今週はこの方のメールを楽しみにしている方も多いのではないでしょうか」
「始まった!」

 絃葉は体を少しだけ起こす。彼女も、楽しみにしているリスナーの一人だった。

「皆さんお待ちかね、グレースカイさんからのおたよりです。
 『カオリさん、こんばんは。遂に木曜日になりました。私の新しいことへのチャレンジもあと二日です。
 今日はどんなことをやろうか、たくさん悩んだ結果、新しいメイクを買ってみました。これまではチークとリップだけだったんだけど、アイシャドーもやってみることにしました。今日家で少しやってみましたが、ネットの写真みたいに上手く塗れなくてちょっと怖い感じになりました笑 すこしずつ慣れていって、夏休み明けには今までずっとアイシャドーをやってたかのように何食わぬ顔で学校に行きたいと思います』」

「化粧かあ……」

 聞いていた彼女は、持ってきた自分のバッグを見遣る。目、眉、肌、口とひと通りのコスメセットは持ってるものの、学校にはほとんどつけていってない。初めてアイシャドーを塗ったときは、自分も鏡を見ながら緊張してブラシを動かしたものだ。

「『でもカオリさん、私、メイクで生まれ変わった気分になって、考えたことがあるんです。こうして毎日新しいことをしてきたから、世界にはまだまだ私がやったことないことが溢れてるって気付かされました。だから、確かに最近はつまらない毎日だったけど、この先もずっとつまらないだろうとは思わなくなったんです。これって大きな進歩じゃないですか?』
 グレースカイさん、今日もありがとう」

 絃葉は彼女からのおたよりを真剣に聞いていた。確かに、自分もやったことがないものだらけだ。大学に入ったら、もっと一人でできることも増えるだろう。ずっと退屈な日々ではないのだ、ということに期待を感じながら、パーソナリティーの話に引き続き耳を傾ける。

「そうなんだよね、世の中って本当に、自分が知らないもの、経験したことがないものばっかりなのよ。

 実は私も、グレースカイさんに触発されて、今日新しいことをやってみました! 何だと思う? 三二歳のチャレンジ、人生初カヤックを体験したよ!

 カヤックって分かるかな? 両側に水かきのついたパドルで漕ぐ、ボートみたいなヤツね。

 友達と二人で車で青木湖まで行って、レンタルして乗ってみたの。始めにインストラクターさんがついて漕ぎ方教えてもらったんだけど、いざ乗ったら流れに逆らって進むのが難しくてびっくりした! 川の流れって緩やかに見えるじゃない? でも乗ったら全然そんなことなくて、すぐ斜めに行ったり座礁しそうになったりして。よく『流れに逆らう』って比喩表現使うけど、もう容易には使えないなって思ったね」
「ふふっ、確かに」

 最後に挟まれたちょっとした小ネタに絃葉は吹き出す。オチまでついて見事なトークだったけど、グレースカイさんに触発されて動いているのが自分だけじゃないと知れたのも、彼女にとっては大きな喜びだった。

「じゃあ次のおたよりの前に一曲聞いてください」

 そうして女性ボーカルのミディアムバラードが流れる。今日もこのラジオが聞けて良かったと思いながら、絃葉は残りの放送を楽しんで眠りについた。



 5

「ごめん、ちょっと出てくる!」
「ちょっと絃葉、出てくるってもうすぐお昼よ」

 玄関で絃葉の母親が止めようとするが、彼女は既に靴を履き、押すだけでドアが開く細いドアノブに手を掛けていた。

「午後から天気崩れるでしょ? 今のうちに行っておきたくて。なるべく早く戻るから、ね!」
「まあそれならいいけど……ってちょっと待ちなさい絃葉! それ持ってくの!」

 母親が再び制そうとしたときにはもう遅い。彼女は大きな黒いバッグを持って、外へ飛び出していた。

「はっ……はっ……」

 八月一二日、金曜日。祖母の家に泊まる最後の日。息を切らして、彼女はいつもの散歩道とは逆に山を登っていき、黒髪が踊るように揺れる。昨日活躍できなかった鬱憤を晴らすかのごとく太陽はカンカン照りだったが、午後からは雨雲が来てこの村を濡らすらしい。やるなら今のうちだと思うと、傾斜のある道も足取り軽く歩くことができた。

「着いた!」

 二十分ほど登ったところで、見晴らしの良い草原に出た。以前父親に教えてもらった、ハイキングのオススメの休憩ポイントだ。

「誰もいなくて良かった」

 そう呟きながら、彼女は黒いバッグの留め具をガチャリと外す。中から、金色に輝くホルンが出てきた。吹く前にロータリーと呼ばれる丸いバルブの部分にオイルをさし、レバーを何度か動かして馴染ませた。

 準備ができたので、彼女は立ち上がる。音の出るベルという広がった口に右手を入れ、レバーに指を添えて、金管の中でも特に小さいマウスピースに優しく唇を当てた。


 パーーーッ パパーーーッ


 膨らみのある音が鳴り、草原に響き渡る。多分、この下に位置するペンションにも聞こえているだろう。祖母の家にも届いているかもしれない。

 明日の朝には帰宅だ。帰らないといけない。だから、吹くなら雨になる前のこのタイミングしかなかった。


 パーーーッ パパパーーーッ


 今日の新しいことは、「部活を辞めてから初めてホルンを吹くこと」 全く新しいことじゃないけど、絃葉が今日一番やりたいと思えたことだった。

 音に強弱をつけたり、ドから高音のドまで音階を奏でてみたり。久しぶりだから息の量が安定しないけど、ちゃんと音は出る。

 パッとマウスピースを口から外し、彼女は微笑む。トランペットみたいに抜けるような音色じゃないけど、この音が大好きだ。中学からずっと続けて、退部のショックで吹くのを辞めていたけど、やっぱりホルンと離れるなんてできなかった。

「楽しい!」

 一言だけそう叫んで、大きく深呼吸する。景色がさっきよりも開けて、緑も鮮やかになったように見えた。

 バッグに楽器をしまい、来た道を下っていく中で、絃葉は清々しい心持ちになっていた。

 昨日も感じたことだけど、世界には新しいことが広がっているし、自分の中にはやりたいことが光っている。自分が今何をすべきか考えてみると、すぐに答えが見つかった。

 楽器が好きだ。楽器を吹くのが好きで、みんなで演奏するのが好きだ。だからそれだけは終わりにしたくない。何か方法を探す。あの高校だけが、吹く場所じゃない。自分がやりたいことのために動こう。

 ちょうど遠くに家が見えてくる。一度心を決めると、彼女は昨日見た燃えるような夕焼けを思い出して、なんでもできるような気になった。


「あ、やば、始まっちゃう!」

 窓の外では夜が深まり、たまに犬の遠吠えが聞こえるだけの、静寂の時間。机に座ってスマホで調べ物をしていた絃葉は、時刻を見てハッとなり、慌ててラジオのアプリを立ち上げてベッドに寝転ぶ。別にそのまま机で聞いてもいいのだけど、なんとなくこのラジオは寝た状態で聞きたくて、彼女はリラックスした体勢でスピーカー部分から流れる音に耳を傾けた。

「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life。時刻は二三時半になりました。今週最後の放送です。今夜は県内どこも雲一つなく、星が綺麗です。今日も三十分、ここで皆さんと悩みとゆったりと向き合い、明日が少しでも色づくよう優しく応援していきたいと思います」

 そういえば、さっき家族で見た星空は綺麗だったな、と思い返しながら、絃葉はスマホに映った金曜日の文字に目を遣る。明日土曜日からはこの番組もお休み。自分が帰るタイミングと合っていて良かった。

「では早速一つ目のおたよりを読んでいきましょう」

 いつもの通り、カオリさんがおたよりを読んでいく。友達と同じ人を好きになってしまった、親とソリが合わない、ときどき虚無感に襲われる……絃葉と同世代の色んな人が、顔が見えない相手に、顔が見えない相手だからこそ、悩みを吐露して、カオリさんは綺麗ごとなしで答えていく。BGMも声も、変わらず心地よかった。

 そして、放送終了まであと十分となり、遂に絃葉が待ちに待っていた時間が始まる。

「それでは皆さん、今日もお待ちかねだったかと思います。今週最後のおたより、月曜からずっとメールをくれていた、グレースカイさんからです」

 絃葉は少しだけ体を起こす。八日からおたよりを聞いていた彼女にとって、グレースカイさんは既に一週間を共にした仲間のような存在だった。この県のどこかに彼女は住んでいて、一緒にこの番組をドキドキしながら聞いているのだろう。

「では読みますね。
 『カオリさん、こんばんは。月曜から始めていた新しいことのチャレンジも今日でいったん終わりです。今日はどんなことをしようかたくさん迷ったんですが、先月学校に行かなくなってから初めて、いつも一緒だったグループの友達に遊べないか声をかけてみました。新しいことじゃないけど、私にとっては同じくらい勇気のいることでした。一人は予定があって断られちゃったけど、もう一人は都合がついたので、映画を見て洋服を買いに行きました。もちろん、新しいメイクで! 誘ってみて良かった、本当に良かったです。

 この一週間、悩むことも多かったし新しいことに腰がひけたこともあったけど、前に進むことができて楽しかった。来週からはしばらくおたよりは無しで、ここに遊びに来ます。他の人のメッセージにもカオリさんの話にも元気をもらっています。リスナーの皆さん、明日からも私達の人生がカラフルになりますように」

「おめでとう!」

 思わず絃葉は小さく拍手をする。グループで不和ができて不登校気味だったというグレースカイさんが、同じグループの人と遊ぶ。この一週間で、彼女のこの後の学校生活も大きく違うものになったに違いない。

 カオリさんが何を話すか、絃葉は期待を込めてラジオに意識を戻した。

「グレースカイさん、一週間ありがとう、そしておめでとう! こんなありきたりな言葉じゃ全然足りないと思うけど、本当によく頑張ったと思う。だからグループの子と遊べたって文を見て、ちょっと泣きそうになるくらい嬉しかったよ。
余計な言葉を重ねると野暮な気がするので、私の好きな歌詞を贈らせてね。

『叶わない夢を見るのは止めて この今を夢のように彩っていく
それだけで僕達は いつだって新しくなれる 生まれ変われる』

 最後に流すのは、この歌詞の歌です。グレースカイさんだけじゃなくて、今聞いている全ての人に届くように。今週もありがとうございました」

 挨拶が終わると同時に、ギターのリフが流れる。バンドの曲だけどとてもポップで、寝る前のこの時間に聴いても全く耳障りじゃなかった。

「……どうしようかな」

 放送が終わると、絃葉はスマホでこの番組のホームページを開く。「番組へのおたよりはこちらから」というボタンをクリックすると、投稿フォームに遷移した。

 何文字か打ったものの、「いいや」とすぐにそのサイトのタブも電気も消してタオルケットに抱きつく。寝る姿勢になる。何かお礼のメッセージを書こうと思ったけど、このタイミングではない気がして、そのままさっき流れた曲の歌詞を思い出しながら目を瞑った。



 翌日、朝の九時。絃葉は、家から徒歩で行ける距離にある理容店に祖母と来ていた。

「絃ちゃんが私に切ってほしいなんて初めてね」
「えへへ、たまにはね。お代は朝のオムライスってことで」
「はいはい。美味しかったわよ」

 祖母にハサミを入れられながら、絃葉は笑う。早起きして作ったオムライスは、久しぶりに作ったけどチキンライスも卵もうまくできて、家族みんなに好評だった。

「このくらい切っていいの?」
「うん、大丈夫」

 肩まで伸びていた髪を、肩につかないくらい短くする。ここ最近の彼女からしたら、随分大きなヘアスタイルチェンジだ。

 ジョキッと音がする度に、古い自分が落ちていく気がする。絃葉は、床に散らばった過去の自分を嬉しそうに見ていた。

「絃葉、できた? あら、結構短くしたのね」

 そろそろ出発ということで様子を見に来た母親がドアを開けると、ちょうどシャンプーとドライヤー、そして仕上げを終えた彼女は嬉しそうに立ち上がる。

「うん、生まれ変わった。ありがと、おばあちゃん」

 また来るね、と挨拶して、絃葉は笑顔で車に乗り込んでいった。




 ***





潮乃(しおの)、もうお母さん達寝るからね! 夕ご飯、冷蔵庫入れておくから!」
「だから要らないって」

 何度も食事を心配する母親に、つい苛立ってそう返事する。潮乃はベッドに横になりながら、今日の演劇部の練習を思い出していた。

 もう八月のお盆で、来月には文化祭で発表だというのに、脚本と演出がしょっちゅう衝突し、潮乃を含む役者陣にも当たるようになっているので、まったく上手く進まない。せっかく有名俳優が在籍していたような歴史と実績のある演劇部なのに、部員の半数は文化祭が終わったら辞めると言っていて、彼女の高校生活は暗澹たる未来しか見えなかった。

「……なんか見るかな」

 そう言ってアプリを触っていると、たまたまラジオのアプリを起動してしまった。別に見たい動画があったわけでもないので、そのまま県内の放送を流す。時刻は二三時半で、ちょうど番組が始まったばかりだった。

「分かる。難しいよね」

 DJカオリと名乗るパーソナリティーが読む恋愛相談のおたよりに、潮乃はつい相槌を打つ。そして一曲聴き、そろそろ切ろうとした時だった。

「では次のおたよりです。この方は……あ、珍しい、県外の方からですね。ラジオネーム『いつかの私へ』さんからです。

『カオリさん、こんばんは。本当は去年送るか迷ったのですが、一年経って改めておたよりを送ります。
 一年前、私は部活の人間関係が嫌になって吹奏楽部を辞め、意気消沈のまま祖母の家のある長野に来ました。そこで聞いたのがこのラジオでした。DJカオリさんが読むメッセージ、そしてグレースカイさんというリスナーのおたよりに支えられたのを覚えています。当時、私と同じように毎日がつまらないと感じていたグレースカイさんが、一日一回新しいことをするという報告をしていて、私も彼女と同じように新しいことを見つけながら過ごす中で、前を向くことができました。

 学校では部活を辞めたけど、今、私は同じように吹奏楽部を続けられなかった生徒を集めて、グループを作って練習しています。楽器演奏のできるレンタルスペースを月極めで借りて、一人四千円くらいずつ毎月出し合って練習場所を作ってるんです。お金もかかるし、高校のコンクールにも出られないけど、演奏できるのが本当に嬉しくて、毎日充実してますね。今度みんなの母校の中学にかけあって、演奏会を企画する予定です。色んな中学を回るツアーみたいにできたら楽しいだろうなあ。

 今年のお盆は忙しくてそっちへ行けないけど、今同じように悩んでる人達に伝えたいと思ってこのメールを投稿しました。世界が思い通りにならなくてしんどくなったときも、自分が動けば世界は変わる。そのことが、これを聞いているいつかの私へ、少しでも届きますように』