逃亡者、柳原《やなぎはら》薙《なぎ》。
薙はそう高くない山の頂上にいた。そこからはるか下に見える繁華街やネオンの灯る街並みを見つめていた。そこにはかつて薙が愛し、その先の人生もずっと共に歩くと信じていた人々が住む小さな街だった。
――――裏切り者。
それは自分のほうなのか、それともその街に住むかつての友のほうなのか? その疑問はもう何年も胸に蟠っていた。
「裏切り者に用はない、出て行け、俺の前から消えうせろ」
その言葉が、薙が聞いた親友、高塔《たかとう》蓮《れん》の最後の言葉だった。蓮は高校時代を共にすごし、その先もずっと一緒だと信じていた最愛の友だ。
――――裏切り者。
裏切ったのは自分のほうだと、頭の隅でわかっていた。彼にとって、見て見ないふりをすることは裏切りだ。それを知っていながら気付かないふりを続けた。見てしまうことを恐れ、見ないように気付かないようにしてきた。
抗いきれない運命の中で親友が苦悩していたことを知っていた。仲間たちのために意地を捨て、信念を曲げてまでやらなければならなかったことを知っていて、気付かないふりをし続けた。
「……っ!」
心の奥で、頭の中だけで、親友の名を呼んだ。
高塔蓮。
彼と別れてからその名を口にすることはやめていた。
口に出せば堪えられなくなる。裏切ったことに、そして裏切られたことに……。
***
高塔と出合ったのは高校一年のときだった。
薙は当時から臥体もデカく、顔もどちらかと言えばヤクザ紛いの強面で、同年代の少年達の群れからは少し離れた位置にいた。と言っても別に特別ワルだったわけではなく、クラスの連中の薙に対する評価もそれほど悪いモノではなかった……と思う。
ただ強面にも関わらず生真面目な性格で、とっつきにくく敬遠されがちだったかもしれない。だがその位置を居心地が悪いとは思っていなかったし、特別寂しいとも思わなかった。
「薙! まぁた、ボウッとしてる、何考えてるの?」
「え? いやなにも?」
「嘘、どうせ最近出来た彼女のことでも考えてたんでしょ」
それは学校の帰り道、たまたまバッタリ出くわした中学時代からの友人、杉崎《すぎやま》由佳里《ゆかり》と並んで帰る道すがらのことだった。夕方の空を見上げ、何かに思いを馳せている薙の顔を見て、由佳里がからかう。好奇心満々といった感じだ。
「かのじょォ? い、いねえよ、そんなモン」
薙は驚いて少し慌てた。考えていたのは彼女ではなく、彼氏、高塔蓮のことだったからだ。
「本当かしら? 恋でもしてます、って顔だったわよ」
「してねえっての! 由佳里こそ彼氏の一人もできねえの?」
「出来ないんじゃなくて、作らないのよ、私は」
由佳里は口を尖らせて怒っている。薙はへんな自慢もあったものだと吹き出しながらペッタンコの学生鞄を肩にかけて、横を向いた由佳里をからかった。
「ホンットかよ、あぶれてるなら俺がなってやってもいいぜ?」
「あいにく私、理想が高いのよ」
学校内で一人でいることに薙がなんの違和感も持たなかったのは、中学時代からの友人であり、理解者でもある由佳里の存在があったからかもしれない。
「あ……そ、せいぜい理想に埋もれて行き遅れんなよな」
「ご心配なく、モテるのよこれでも、薙と違ってね」
「……へ」
軽口を言い合っては突き合い、三叉路で手を振って別れた。薙は由佳里の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
高校に進学してそれぞれ通う学校は変わってしまったが、由佳里と薙は男と女という境界をこえて、信じあえる友人同士だった。ときには姉弟のように、ときには親友のように、そしてときには伴侶のように語り合い寄り添ってきた由佳里への想いが、友情から愛情へと変わるまでにはまだもう少しの時間がかかりそうではあったが、それでも由佳里は薙にとって心の支えだった。
由佳里の姿が見えなくなってから薙は再び思考を戻した。さっきまで考えていたクラスメイト、高塔蓮のことだ。
学内で一人であるということには、それほどの孤独は感じていなかったが、時々、無性に誰かと話したくなることもある。そんなとき、目に付いてしまったのが同じクラスにいた高塔だった。
彼は薙と同じようにいつも一人だった。理由はわからないがクラスメイトから恐れられ、避けられて浮いていた。強面の自分と違い、高塔はとても洗練された佇まいがあった。頭も悪くは無い。成績は中の下くらいだったが、それはたぶん授業をサボりがちだった為で、本当は頭のいい奴だと感じさせた。
背は自分より少し低めだが、薙の身長は一八〇を越えていたので、その自分とそう変わらぬように見えた高塔も決して小さくないはずだ。だが何故か小さく見えた。
薙は昔からなにか気になりはじめると、止まれない性質だったので、それからずっと高塔の後ろ姿や、孤独を漂わせる寂しそうな横顔を見ていた。
「アイツはなんで……」
気になってつい口にまで出た。
彼は綺麗な顔をしていた。決して女性的ではないが、どこか性別を越えた色気があり、時折見せる射るような視線は野生の豹のようで、危険な香りがした。と言っても、別にクラスメイトといざこざを起こすわけではない。授業をサボることは多かったが、決して不良であるとか番を張っているとか学内を仕切っているとかいうわけではない。どちらかと言えば寡黙で目立たない男だった。
ハッとするほど綺麗で鋭い視線を持ちながら、まるでそこに存在していないかのように気配を感じさせない。だから誰も彼がいることに気付かず、いないことに疑問も持たない。
たまにその存在に気付いた者は、何故か彼を恐れその場を離れていく。彼はそんなクラスメイトの態度に腹を立てるでも悲しむでもなく悠然としていた。
いつしか薙はそんな高塔蓮に心魅かれはじめ、気づけば目で追うようになっていた。
その日も彼は授業には出て来ていなかった。学校自体には来ているようだったので、その姿を探す。
ウロウロと校内を歩き回り、彼の打ち水のような涼やかで凛とした背中を追い求めた。だが教室の中にも廊下にも校庭の隅にもいない。
最後に薙は階段を上がり、屋上の立ち入り禁止と書かれてあるドアを開けて様子を窺ってみた。
果たしてそこに高塔はいた。
「気取るなよ、俺等だってこうやって頭下げてんだろ」
「俺は別に気取ってもいないし、頭を下げろとも言ってない」
「いい気になるなよ? 一年坊主のクセに、いいか、こっちが大人しく頼んでんだ、はいわかりました先輩っつうのが常識だろうが!」
高塔は上級生数名に取り囲まれていた、なにか揉めているようだ。話の内容はよく聞こえなかったが、上級生が先輩風を吹かせて彼になにか無理難題を吹っ掛けているらしいことは理解出来た。
「上級生だかなんだか知らないが、人をいきなり呼びつけて有無を言わさず言うことを聞かせようとするような輩に尽くす礼はねえな」
だが彼はその要求を呑むつもりはないようで、厳しく手酷い言葉でそれを跳ねつけた。肩にかかる長めの黒髪が屋上を吹き抜ける風に嬲られて舞い踊る。綺麗な顔に嬲られた髪がかかり、羽織っていた学生服の上着も翻った。
「退けよ……これ以上俺に時間を潰させるな」
「……」
鋭い目で上級生を睨みつけ、一歩一歩と前へ進む高塔の迫力に圧され、上級生は静々と下がっていく。まるでボクシングのチャンピオンが帰っていくのを見送るように、彼の行く手はサアッと道が開けた。
屋上の開けっ放しになっているドアの影に隠れていた薙に気付かず、彼はそのまま階段を降りていき、薙はその後姿を見送りながら背後で聞こえる上級生の声に聞き耳を立てた。
「チッ、偉そうに……」
「まあそう言うな、じっくり行こうぜ」
事情はよくわからなかったが、その上級生たちが、彼をなにかの仲間に引き入れようとしているらしいと言うことだけはわかった。不良同士の権力争い、それもこの学校内で誰が一番偉いのか、そんなことを競う、見栄と意地だけのくだらない抗争に引き込もうとしていたらしい。
だが彼は屈しなかったのだ。つるむつもりも堕ちるつもりもない。そんな小さな権力争いに興味はないと立ち去った。やはり彼は自分が思っていたとおり、高潔で潔い男なのだ。そう確信した薙は、それからさらに深く高塔蓮を見つめるようになった。
見続けていると相手の心の言葉が聞こえるような気がしてきた。彼の淋しさや温かさ、クラスの空気を壊さぬように、彼は彼なりに気を使っているのだ。
何故そんなに自分を抑えるんだろうか? そんなことを考えているある日、問題は起きた。
クラスメイトの一人が財布がないと騒ぎ出したのだ。
体育の授業を終えて戻ってみたら、鞄に入れていた財布がなくなっていたという。
「財布は体育係りに預けることにきまってるだろ! なんで預けなかったんだ」
「時間がなかったのよ! で、鞄に入れっぱなしで……でもそんなことどうでもいいでしょ、問題は誰かが盗ったかよ!」
「誰かって誰だよ、授業に出てたらそんな真似できないだろ!」
「授業に出てなかった人もいるでしょ!」
女生徒がそう叫んだとき、クラス中がいっせいに壁際に佇んでいた高塔を見た。
「……?」
彼はすぐにその視線の意味を察したらしい。途惑った表情でクラスメイト三十六名の七十二もある目を見まわしていた。
彼は体育の授業に出ていなかった。それはいつものことだったし、どこで何をしているのかはわからなかったが、授業が終わるまで一度も姿を見かけなかった。
高塔が盗ったんだ。
七十二の目が一斉にそう言っていた。
だが誰一人声に出してそうとは言わないのだ。
ただ黙って注がれる三十六名の視線に、彼はなにも言い返さなかった。口元に掌をあて、目を丸くして心持ち後ろに下がっていく。
戸惑いを隠せない高塔の様子に胸が痛んだ。
あいつはそんなことをするような奴じゃない。薙にはなんの根拠もない確信があった。だがそれを口に出そうとしたとき、彼は黙ったまま教室を出て行った。
「高塔!」
思わず後を追って教室を走り出た。高塔は追って来た薙をチラリと見ただけで立ち去って行く。
その後ろ姿に自分でも驚くくらい胸が痛んだ。
同じなのだ、自分も。彼にとっては自分も他のクラスメイトのように彼を疑い、何も言わず視線で責めた。そうとられても仕方がない。確かに自分は何も言わず何もしなかった。
お前なんかいらない。
去っていく細いシルエットが、背後にある全てを拒絶しているのがわかった。
淋しく悔しかった。だが悲しんでいる場合ではない。疑われたまま弁解もせず消えた彼には濡れ衣を晴らす機会もないのだ。だというなら自分が真犯人を突き止めなければならないのではないか? そしてやったのは彼ではないと証明するのだ。
そう決めた薙は、まずクラス内の連中全員を調べた。
高塔以外で体育の授業に出ていなかったのは二名、二人とも欠席者だ。その二人の家まで行き、確かに家にいた確認を取った。そうなるとクラス内で出来る者はいないことになる。クラス内でないとすれば他クラス、または他学年の生徒かもしれない。
あの日学校に来ていた人間なら盗むことは可能だと考えて、今度は他のクラスの生徒たちへと次々に聞き込んでいった。その結果、隣のクラスの一人がその時間教室にいなかったことがわかる。その前後はいたらしいので、体育の授業のあった三時限目だけいなかったということになる。となると聞かずにはいられない。
教室の外へ呼び出すと、後ろめたいとところがあるのか、やって来たその生徒は酷く怯えていた。
「あんた、穐山さん?」
「あ、はい……はい」
「な、あんた先週の水曜日、三時限目、どこにいたのか教えてくれないか?」
「えっ?」
「俺のクラスで盗難があったんだ、俺の友達が疑われてる、あんたなんか知ってるなら言ってくれ」
高塔とはまだ口もきいたことがない、だが心の中では既に友人だ。だからあえてそう言った。すると穐山は泣き出しそうな顔をしていきなり白状した。
「ご、ごめんなさい! 僕が盗りました! ごめんなさい、ぶたないで!」
「え……?」
ついうっかり忘れていたが、他人から見ると自分の顔はかなり怖いらしい。つまり訊ねていったクラスメイトも、そしてこの穐山も、薙の顔が怖くて喋らないと殴られると思って素直にしゃべったのだ。
「いや、俺は別にそんな……あ、とにかく、やったのはアンタなんだな?」
「ハイ、ハイ!」
その気の弱そうな穐山という男子生徒は上級生に目をつけられ、金を請求されていたらしい。そして自分の小遣いだけでは賄えなくなって隣のクラスが体育の授業で出払うのを知って盗みに入ったという。
薙はホッと息をついた。
やはり犯人は高塔じゃなかった。良かった。
そしてほっとすると同時に気になって来た。彼はあの日一人黙って帰ってしまってから、ずっと学校に来ていない、もう二週間近い。
今頃どうしているのだろう……?
真犯人が名乗り出、少々のいざこざはあったが、無事収めることが出来た。クラスメイトたちも、やったのは高塔ではないと納得してくれた。それを早く知らせてやりたいと思った。みんなわかってくれたから、また学校へ来いと行ってやりたい。
薙は職員室で半ば強引に住所を聞きだし、その日のうちに高塔の家へと向かった。そして彼の家の近くまで行ったとき、大きな神社の境内にいる彼を見つけた。
初めて校外で見た彼は、古風な和服姿で、誰かと楽しそうに話をしていた。
高塔が誰かと楽しそうにしているのを、薙は不思議な気持ちで見つめた。
あれは誰だ……?
その男は高塔より全然年上だが、かと言って父親と言うには若すぎる。たぶん三十代半ば過ぎだろうと思われた。高塔はその男と楽しそうに笑い合っている。
「ホントだな? よおし、約束だかんな!」
「ええ、楽しみにしておりますよ坊ちゃん」
正直それは酷く意外だった。それまで薙は彼が笑っているところを見たことがなかったのだ。しかもその笑顔は今まで無意識に予想していたような口の端だけで笑うような冷たい笑みではなく、顔をクシャクシャにして笑う、どこか照れたような、小さな子どものような笑顔なのだ。
高塔……。
開きかけた口はそのまま動かなくなった。
話しかけるつもりで来た。
財布を盗んだ犯人は捕まった。もう誰もお前を疑っていない、だから早く学校へ戻って来いと言う気で来た。だが彼のどこかはにかんだような歳相応に可愛い顔を見て、なぜだろう、言い出せなくなった。
結局、勇んで出かけたにも関わらずその日は、何も告げず、顔さえ合わせず帰宅することとなった。
*
帰ってからも高塔の子どもっぽい笑顔が忘れられなかった。
あいつはあんなに懐っこい、人好きのする奴だったのか。それなのに何故、学校ではあんなに頑ななのだろう。気になって仕方なかった薙は、結局それから幾日もしないうちに登校してきた本人に、今日こそ話しかけようと決めた。遠くから見ているだけでは埒が明かないからだ。
朝、教室に入ると、一番後ろのロッカーの前に、入り口へ背を向ける形で立っている高塔を見つけた。
自分と違いスマートで背筋のシャンとした綺麗な背中と気のせいか少し括れてみえる腰のラインが、なんとなくファッションモデルかアイドルタレントのように見えて、思わず触りたくなる。
遠くから見ても見惚れるほど綺麗な顔とも相まって、もしも彼が女性だったら、物凄い美人だろうなと、ついくだらない妄想まで展開させた。今、誰かに自分の頭の中を覗かれたら、きっと変態だと思われるだろう。薙は自分でもそう呆れながらお目当ての彼に声をかけた。
「蓮? どうかした?」
受話器に耳を押し付けるようにして佇んでいた高塔《たかとう》蓮《れん》(二十六歳)に、台所にいた杉山《すぎやま》由香里《ゆかり》(二十六歳)が声をかける。
ただ呆然と受話器の向こうから聞こえる声を聞いていた蓮は反射的に受話器をおいた。
「いや、なんでもない……間違い電話だよ」
そう答えた蓮の手はガクガクと震えていた。
由佳里はその手をそっととり、怯える蓮の痩せた背中へ両手をまわす。
「大丈夫よ……大丈夫、私がついてるから、ずっとついてるから」
「……由佳里」
電話の主は薙《なぎ》だった。
柳原《やなぎはら》薙《なぎ》(二十六歳)、かつては親友と呼んでいた男だ。
***
蓮が薙と出合ったのは高校一年の時だった。
父親がヤクザの組長であると言う特殊な事情のせいで蓮には友人がいなかった。というより幼い頃からずっと、友だちというものが存在していなかった。
父親がヤクザの組長をしている、そう聞けば大抵の人間はビビる。最初は友達だと思っていても父親のことを知ると逃げていく。初めは普通に接して遊んでくれている友だちも蓮の家庭事情を聞くとみんな離れていった。ヤクザの息子だ、父親は組長だ、機嫌を損ねたら何をされるかわかったもんじゃない。みんなそう思っているようだった。
それは仕方がない、自分だって普通の家庭に生まれ育っていたらそう思っただろう。
だからそれは堪えられた。
だがそれとは逆に蓮のバック、ヤクザの組長の息子、という肩書きを当てにして無駄に媚び諂う輩も多い。中学、高校になると諂うヤツはさらに増えた。みんな蓮の後ろにいる父親、ヤクザの組長という肩書きに諂っているのだ。
そんなモノに興味はない、欲しいと望んでいたのは上から与えられる権力や甘い蜜ではない。そんなモノが欲しいという輩にはなんの興味も湧かない。奴等が欲しいのは自分ではない、そのバックだとわかっていたからだ。
蓮には組長の息子として、普段から組員の幾人かがお守り役のように張り付いていた。蓮を坊ちゃんと呼び、ちやほやと甘やかした。だがそれも自分が偉いからではない。父親が大物だからだ。
もっとバカに生まれていればそれでも良かったのかもしれない。ちやほやと祭り上げられていい気になって、まるでそれが自分の力のように錯覚し、威張り散らす、そんな組長の息子という奴等がいることも知っていた。だがそう思うことは出来なかったのだ。
組長の息子という部分を除ければ自分はなんの価値もない。ただの頭の悪いガキでしかない。だからなにくれとなく世話を焼いてくる組員たちにも本当には心開くことはなかった。所詮は父親の笠の下、そう自分を卑下しながら、いつかは実力で認められる人間になると心に誓っていた。
そんな中で薙は唯一、蓮のバック、家庭の事情と言うものを知らずに出会えた人間だった。
高校に入学したばかりの頃、同じクラスに、ヤケに大柄で熊かと見違うほど強面の男がいるのに気がついた、それが薙だった。
父親が組長であることは学内では周知の事実で、知らないものなど殆どいない中で、薙はその噂すら知らなかったらしい。薙の朴訥で優しい気質が、噂話などに耳を貸すようなことをさせなかったのだろう。
***
確か古文の授業だったと思う。
担当教諭はまだ若い女性で、静かな声でゆったりと話していた。古文なんか早口や大声で話すものではないだろうが、それにも程度というモノがある。あまり大人しいので、生徒は殆んど話を聞いていなかったし、ずっと大声で喋りあっていた。授業どころではない。
蓮もその煩さには少々ウンザリしていたが、別に授業内容が聞こえなくてもかまわないし、聞く気もあまりなかった。だから黙っていた。
そんなときだった、蓮の横でガタンと席を立つ音がして、太く低い声がボソリと聞こえてきた。
「ちょっと」
熊の唸り声のような低音でありながら、その声は教室中に響き、ドキリとした。たぶん皆もそうだったのだろう、ざわめきは見る間に小さくなり、みんなその声のするほうへ振り向いた。
「静かにしてくれないか? 先生の声が聞こえない」
その途端、みんな、当の先生までが黙り込み、クラス中が水をうったように静まり返る。声の主は蓮の二つ隣の席にいた大柄で厳ついご面相の男だ。一見するとそっちのほうがヤクザじゃないのかと聞きたくなるくらいの強面だった。
「先生、続きをお願いします」
「……ぁ、はい」
静かに授業再開を促した男の迫力に気圧され、その女教師は泣きそうな声で小さく返事を返していた。クラス内は天井から針が降ってきたように張り詰めて、まるでその男が悪いかのような空気が流れる。
「……」
蓮はしばらくその男の横顔を見つめていた。そいつは見るからに男らしい風貌で、背など周りから頭一つ以上は飛び出るほど高い。箔があると言うか、一度見たら忘れられない強烈な印象を受ける男だった。
その日の出来事はそれだけ薙が真面目であるということだろうに、何故かそれ以来クラスメイトや先生までが薙を敬遠するようになった。生真面目過ぎる性格で、悪く言えば融通がきかない、よく言えば正義感があるとでもいうのだろうか、みんななんとなく苦手意識が働くらしい。たぶんクラスメイトもそして先生も、自分達のズルさを薙に見抜かれそうで敬遠しているのだろうと感じた。
だが当の薙は、クラス中から敬遠されようと、歩くたびモーゼの十戒のように人が避けて行こうともまるで気にならないように見えた。いつでも堂々と前を向いて歩く奴、自分とはまるで違うタイプの男、そしていつかはああなりたいと思っていた理想の男。蓮はいつしか薙を目で追うようになった。
***
その日、蓮は家の離れにしつらえてある道場で竹刀を振りながら薙のことを考えていた。
自分の場合はわかる、環境が環境だ、クラスの連中が敬遠するのも頷ける。だが薙は違う。ただ身体が大きくて少し厳つい顔をしているというだけで他になんの理由もなく阻害されている。それでも薙は拗ねるでも凄むでもなくいつも飄々としていた。
「薙……お前はなんで……?」
自宅にある道場内で散々に竹刀を振り回して、疲れ果てた蓮は道場の真ん中に寝転んで思わず呟いた。まだ口を聞いたこともないクラスメイトのことが頭から離れない。
薙のことを考え、ただぼうっと寝転んでいると、頭上の襖がスッと開き、低く威圧的な声がしてきた。
「蓮、どうした、ちゃんと学校にいっとるか?」
父親だった。
「っせえな、行ってるよ」
蓮は父親のほうに振り返りもせず投げ捨てるように答えた。父親はそんな蓮の頭越しに低い声で唸るように話を続ける。
「お前はワシと違って頭がいい、これからの極道には知恵も必要だ、しっかり勉強してちゃんと学校を出るんだぞ」
「……」
極道に知恵? それはいかに他人を騙し、いかに他人の裏をかけるか考える為の知恵かよ?
父親の言葉をそのまま受け取れずに苛々と唇を噛んでいると、父親は少し声を荒げた。
「聞いとるのか、蓮?」
「聞いてんよ、わかった、もう他に用がないなら消えてくれ!」
思わず起き上がって怒鳴り返す。父親はジロリと蓮を見据えてから黙って襖を閉めた。
「チッ」
蓮はそのまま道場の天井を見据えていた。学校へはクラスで盗難事件があった日に、早退して以来、もう十日以上行ってなかった。
それは蓮がサボっていた体育の授業時間中のこと、クラス内で一人の学生の財布が盗まれるという事件が起きたのだ。
「財布がないんです! 確かにここにいれておいたのに!」
女生徒がヒステリックに叫ぶ、普段金は購買で昼食を買う程度で、大金は持って来てはいけないことになっていたが、その女生徒は前日バイトの給料が出たとかで、なくなった財布には四万円近く入っていたらしい。盗難事件としての額はたいしたことないが、学生にとっては大金だ。盗まれたのだと騒ぎ立てた。
「しかしね、みんな授業中で、誰もそんなことをしている暇はなかっただろう? キミの勘違いじゃないのか?」
「そんなことないです! 確かに授業前はあったんです!」
「しかしクラスメイトはみんな同じ授業を受けているだろう?」
「サボってた人もいるじゃないですか!」
担任の呑気な声にカッとした女生徒がいきり立って叫び返すと、クラス中全員がいっせいに蓮のほうへ振り返った。
「な、んだよ……?」
ヤクザの息子だ、なにを考えているかわからない、なにをするかわからない奴だ。コイツがやったに違いない。みんな報復を恐れて口にこそ出さなかったが、視線がそう言っていた。
せめて口に出して、お前がやったんだろうと聞かれれば、違うと否定も出来るのに、誰もなにも言わない。蓮を怒らせると何をされるかわからない。そう思っているようだった。
俺は報復なんてしたこともないし、人のモノを盗ったこともない。そう言いたくても言い返せない重苦しい沈黙に蓮は下唇を噛み締める。そしてその視線に耐え切れなくなったとき、一人黙って教室を出た。どうせ言ったところで誰も信じまい。そう諦めて逃げたのだ。
だが教室を立ち去るとき、薙が廊下まで追ってきた。そして確かに名前を呼んだ。
「高塔!」
その声を背中に聞きながら、蓮は自宅へと逃げ帰った。
薙の声は少し低めだが父親のように冷たく響く声ではなく、とても優しい声だった。もう一度聞きたい、あの声で名前を呼ばれたい。そう思った矢先、また頭の上で襖が開いた。
「坊ちゃん、まだ拗ねていなさるんですか?」
「須崎……」
そこにたっていたのは須崎《すざき》賢《けん》、父親の組の若頭の一人なのだが、父親から蓮のボディガードとお守りを任せられている男だ。
「別に、拗ねてるわけじゃねえよ、ただ子どものことを考えてるっつうなら、まずテメエが極道から足洗えって思っただけさ」
拗ねるなんて子どもっぽいことを自分がしているとは思いたくないが、そうなのかもしれない。そう感じながらも蓮は強がって答えた。
心配しているような顔をしている須崎も所詮は極道、父親の配下であり、その命をうけ自分についているに過ぎない。そう考えると捻たくもなる。だが須崎はそんな蓮の孤独な思惑に気付かずか、静かな優しい声で話しかけてきた。
「坊ちゃん、お宮さんへ詣りやせんか?」
「お宮さんか……まあ付き合ってやってもいいけどよ」
「では、参りましょう」
須崎と連れ立って近所の神社へ行った。
そこは案外大きな神社で、蓮の家はその神社に傾倒し、多額の布施を出している。実質上高塔の神社と言って差支えないところだった。
神社のご本尊は「火愚槌 ―カグツチ― 」日本神話に出てくるイザナギ、イザナミの数多い子どものうちの一柱だ。日本神話における火の神で、軻遇突智《かぐつち》とも表記されている。
出産時にイザナミをその炎で火傷させてしまい、これがもとでイザナミは死んだ。母殺しの火愚槌は、その後怒ったイザナミの夫、つまり実の父であるイザナギに殺された。つまり、心ならずも母を死なせ、父に殺された哀れな子どもということだ。
なんで、そんな神がご本尊なんだ? 蓮は不思議に感じ、須崎にそう聞いたことがあった。すると須崎はこう答えた。
「それは私等極道が火愚槌だからですよ、心ならずも世間様に仇なし、世間様に疎まれて生き、やがて世間様に殺される運命だからです」
そんな仇ならやめればいいだろうと言うと、須崎は頭を振った。そんなことはもう出来ないのだと言う、一度極道に落ちたが最後、二度と人には戻れないのだと。
「酷えな、極道は人じゃねえみたいじゃねえかよ」
「人じゃねえんですよ、坊ちゃん」
「……」
「でも極道だって最初から悪だったわけじゃないんです、誰だって最初は罪もない子どもだったんですよ、それがどこでどう間違ったんだか、この始末です」
蓮が押し黙ると、須崎は少し淋しそうに、いつもの優しい笑顔で話しを続けた。
「だから、オヤジさんは火愚槌を祭るんです、私やほかの若い衆が無事人生を昇華出来る様、祈りを込めて火愚槌を祭ってるんですよ」
親父にそんな深い考えがあるモノか? 蓮はそう思ったがあえて反論はしなかった。
「坊ちゃん、オヤジさんさっきはああ言いましたが、坊ちゃんに組を継いでもらおうとは思ってませんよ、あなたはあなたの人生を生きていいんです、そのために普通に学校にも行ってもらってるんです」
「どうだか……ってより須崎、その坊ちゃんってのはよせっつったろ?」
坊ちゃん、という呼び方はまるで自分が一人前ではない、いつまでたっても笠の下にいるガキだと言われているようで嫌だった。事実そうなのだが、それでも高塔蓮という一個人でなく、父親の付属品のように見られるのが嫌だったのだ。だが須崎は静かに首を振った。
「そうはまいりません、あなたはオヤジさんのお子さんだ」
「お前、俺の言うことを聞くように親父に言われてんだろ」
「はい」
「なら命令だ、坊ちゃんはヤメロ」
我ながら、子どもじみた無茶を言ってると思った。須崎は組の若頭、ケジメだけは固いのだ。須崎がそう呼んだら下の者への示しがつかなくなる。出来るわけないとわかってて言っているのだ。
「わかりました、ではこうしましょう、道場で三本勝負をして、もしも坊ちゃんが勝ったら、私もあなたを坊ちゃんと呼ぶのをやめますよ」
「本当だな?」
須崎のその意外な答えに蓮はパッと明るい顔になった。すぐには無理でも、いつか、いつか必ず須崎を負かす、そうすればもう坊ちゃんとは呼ばれないのだ。
「ようし! その言葉、忘れんじゃねえぞ! 必ずブッ倒してやんかんな!」
「楽しみにしておりますよ」
蓮が笑うと、須崎も顔をほころばして笑った。高塔の鬼神と呼ばれ、世間から恐れられている須崎も、こうして笑っていれば人好きのする普通の男に見えた。
「では、帰りましょう、坊ちゃん」
「もう帰んのかよ? 早えな」
突然真顔で促された蓮が聞き返すと、須崎はあたりを窺いながら先を急がせた。
「どうも誰かに見られてるような気がします、坊ちゃんになにかあったら私は指くらいじゃすみませんからね、さ、戻りましょう」
自分は別にかまわないが、自分のせいで須崎が指を詰めることになったら適わない。蓮も大人しく従って帰った。
「坊ちゃん、学校へは……」
「わぁってるって、ちゃんと行く、行きゃあいいんだろ」
「はい、そうしてください」
「……」
学校なんか行っても楽しくもなんともない。
ケドまあ、今回は須崎の顔も立ててやろう。
そう思った。
数日後、久しぶりに登校したときに、クラスの雰囲気が違っているのがわかった。
「おい、なんだ、なんかあったのか?」
クラスメイトの一人を捕まえて聞くと、例の盗難事件のカタがついたらしい。そして名探偵は他ならぬ薙だった。
薙はクラス中、果ては学校中の全ての生徒をあらうように回り、犯人を突き止めた。犯人は目立たない優等生で、上級生に脅され金を要求されていて困り果てた末に盗んでしまったらしい。
薙はそれを突き止めると、その上級生のところへ行き、殴り倒して謝らせ、財布はダメだったが金を返還させたのだ。そしてそれを持ち主に返し、犯人については追求しないでくれと言った。だがそのことで、犯人は薙ではないかと疑われる。それでも薙は犯人の名を言わなかったのだが、それでますます疑われていった薙を見かね、真犯人は自分から名乗ってでた。薙は悪くない、悪いのは自分だと叫び、それを庇う薙と二人がなんだか文句のつけられない雰囲気で、結局もういいよと言う話に落ち着いたのだと話した。
それ以来、クラス内での薙の評価は格段に上がり、一目置かれる存在になったという。
話を聞いて、ますます薙を見直し、凄い奴だと思った。自分は拗ねて逃げただけだったのに、その間薙は事態を解決へと導いていた。同じ歳なのになんでこんなに違うのかと思うと少し悔しい。
薙のような男になりたい。ただ漠然とそう思い、その存在ソノモノに憧れすら持った。
そう思った矢先、すぐ後ろで声が聞こえ、ドキリとした。
「高塔」
「ぇ……?」
低く、そして静かで優しい声だ。振り向くとそこに薙がいた。目の前に立たれると、頭の中で思っていたよりも、全然デカくて、思わず後ずさる。
熊だ。それも冬眠から醒めたばかりの飢えた樋熊……。
幼い頃からヤクザ連中の中で育ち、普段から厳つい顔は見慣れている蓮もその迫力あるご面相にはちょっと驚いた。だが薙は、厳つい顔とは裏腹に、とても静かで優しい声で話しかけてきた。
「よかった、今日は来たんだな、心配してたんだぜ」
「心配……?」
「高塔!」
「?」
ゆっくり振り返った高塔を見て、その妄想は弥増した。いつもキリリとしていたはずのその顔は儚げで、狼の群れに放り出された美少女のごとく、少し怯えて見えた。
色が白い。
ゾクリとくるような朱色の唇が震えて見えて一瞬なにを言おうとしていたのか忘れそうになった。だが直ぐに、彼の妙な態度は自分の顔が怖いからだと気づいた。おそらく他の連中がそうであったように、怯えさせたのだろう。
怖い顔なのは生れつきだし、直せない。せめて態度だけでも柔らかくしようと、儀心地ない笑顔を作って話しかけた。
「よかった、今日は来たんだな、心配してたんだぜ」
「……」
出来るだけ、なんでもない風を装って話しかけると、高塔はさらに怪訝そうな目をして見返してきた。
それはそうだろう、考えてみたら自分たちはまだ一度も言葉を交わしたことがなかったのだ。いきなりクラス一の強面に話しかけられたら誰だって不信に思うだろうし、ましてや心配してたなんて言われた日には変に思われて当然だと理解した。
「……心配?」
薙のほうが十センチ以上背が高いので、オウム返しに聞き返してくる高塔の目線は自然に上目遣いになる。不思議そうな表情で自分を見上げてくる表情がとても可愛らしく見えて目を瞠った。長い睫に縁取られた綺麗な瞳に気がとられ少し上擦る。
ヤバイくらい可愛い。これで女の子だったら迷わず交際を申し込むところだ。
そのとき、最初に感じていた無表情で冷たいクールなにーちゃんという印象は跡形もなく吹き飛び、薙の中で「高塔蓮=可愛い」という構図が生まれた。
それは数日前、彼に会うため向かった先で思いがけなく誰かと笑い合っているのを見たときに感じた想いをなぞるようであり、また全然違った感情でもあった。
あのときの仔犬のような可愛らしい笑顔は、自分に向けられたものではなかったが、今度はあの笑顔を自分だけに見せて欲しいと願ったのだ。だがまさかそうも言えないので、それは胸の内に留めて話しかけた。
「ああ、例の盗難な、犯人捕まったんだ、お前さ、途中で帰っちまったから、なんか気にしてんじゃないかと思って」
「別に、気になんか」
突然話しかけてきた野獣を見るように、戸惑った感じの高塔は、それでも逃げることなく、ぶっきら棒に答えた。そんな顔ではなくもっと可愛い顔を見たい。笑ってくれないかなと思いながらも返事をしてくれたことが嬉しくて、つい顔も綻ぶ。
「だよな、うん、お前にはなんの関係もないんだもんな、悪い、なんか変なこと言っちまって」
「……」
高塔に逃げられないよう薙は夢中で話しかけた。笑って欲しい、自分にもあの日見た可愛らしい笑顔を見せて欲しい、その思いは欲望に近かったかもしれない。
「けどなんか悪いことしちまったなと思って」
「なにが?」
「ぁ、いや、あのときは結局なんか、みんなお前を疑ってたみたいだったし、俺も何にも言ってやれなかったから……いや俺は疑ってなんかなかったぜ? けど、結局なにも言えなかったし、だから……ゴメン!」
そこは本当に悪いと思っていたので、思い切り潔く頭を下げた。彼に誤解されたくなかったのだ。
自分は一度だって高塔を疑ったことなどない。彼はそんなことをするような奴じゃないとわかっていた。それなのにあの日、みんなの前でそう言ってやれなくてすまないと心から詫びた。だがその行為は彼を慌てさせたようで、急にオロオロと情けない声になった。
「ちょっと、なにお前、止めろよそんな……別に俺は」
その慌てた声がとても可愛く聞こえて、頭を下げたままチラリとその表情を追う。彼は少し赤くなって困り果てた表情をしていた。その戸惑った顔が笑えるほど可愛いくて、もっと困らせてやりたくなった。
「許してくれ、でなきゃ俺は一生でも頭下げ続けるからな」
「あ、のなぁ…… 」
わざと頑なにそう宣言すると、想像どうり彼は戸惑い、言葉をなくした。綺麗な瞳が少しだけ潤んで見えて、このまま突いたら泣くんじゃないかなと思った。
泣かせてみたい。
つい湧いてでた奇妙な感情に自分自身で驚きながら、薙は相手がどう出るかと様子を窺った。不思議と拒まれる気はしなかった。ただ純粋に、もっと困らせてこの可愛らしい反応を見たいと思ったのだ。
「もういいから、頭上げろよ俺はなんとも思ってねえよ」
「じゃ、許してくれるんだな?」
教室の一番後ろで頭を下げ続けること数分、高塔はとうとう折れた。嬉しさで思わず顔を上げると、直ぐ目の前にちょうど自分の様子を窺うように覗き込まれていた綺麗な顔があった。いきなり至近距離で目があって、ちょっと驚いたが、それよりも面白かったのは、目があった途端に絶句して大げさに跳ね退いた彼の顔が真っ赤だったことだ。たぶん彼も自分に好意を持ってくれている。そう感じて行動にも勢いがつく。
「じゃ、俺を許してくれんだな高塔? なあオイ!」
その赤くなった顔をみてそう確信した薙は、ワザと追い討ちをかけるように叫び、照れて顔を逸らそうとする高塔の両手を固く握った。
もっと苛めてみたい。
泣かしてやりたい。
それは小学生が好きな子をわざと苛めるような子どもっぽい感情と似ていて擽ったかったが、それでも赤くなるその顔をもっと見たかった。
握り締めた彼の手は熱く、必死で逸らしている顔は本当に真っ赤だ。思っていたより全然可愛い。
「わかった、わかったから手っ! 手、離せよバカ!」
薙は高塔を追い詰めることに夢中になっていたが、俯いた高塔の顔を覗きこむと、その瞳は熱く潤んでいて、このまま追い詰めたら本当に泣きそうに見えた。そうなってくると、こちらも苛め過ぎたかなと罪悪感に襲われる。ここらでやめておかないとあとで気まずいことになりかねない。自分は彼と友だちになりたいのであって、苛めたいわけではないのだ。そう反省して手は離した。
すると高塔はホッと安心したように息をつく。ずっと隣でその顔を見てきたような温かい感情に支配され、少しだけ戸惑った。やはり自分はこの可愛い奴とずっと一緒にいたいのだ。改めてそう気づいた薙は、高塔に右手を差し出し、友だちになってくれないかと頭を下げた。
「あらためて頼む、友だちになってくれ」
「は? ……ぁ、朝っぱらから教室内で恥ずかしい真似すんな阿呆」
高塔はまた赤くなってうろたえた。
「んだよ! 俺は真面目にだな……!」
今度は薙も苛めているつもりではなく本気だったので、思わず憤慨して迫った。彼も今度はさっきほど慌てず、仕方ないなというように、背後のロッカーに背を預けて答えた。
「わかったからそうがなるな、友だちだろ、いいぜ」
「本当か?」
「ぁあ、よろしくな、薙……」
余裕の笑みでそう答えた高塔は、最高にクールでカッコいいヤンキー映画の主役のように見えた。
(ヤンキーにしては少々細すぎて可愛い過ぎだが)
話してみると意外なことに、彼も薙を見ていたと知った。
「お前、目立つからな、なんかデカくておっかなそうな奴がいんじゃん、とか思っちゃってたのよ」
「俺も最初はさ、なんか凄くカッコいいあんちゃんがいんなーと思ってたんだ、けどコイツが意外に仔犬みたいによく笑いやがるからなんか可笑しくって……お前、可愛いっ」
思わず本音を言うと彼は思いっきり胡散臭そうに跳ね退いて見返してきた。
「なに、お前まさかアッチの趣味?」
「バカ! 違げえよ! けどホラ、美人に性別はないだろ」
「何言ってんの、やっぱアッチの気あんじゃねえの?」
「無えっての! ああもう褒めんじゃなかった!」
「アハハッ……」
ふざけて笑う高塔は、それまで勝手に想像していたよりずっと明るくて可愛い、魅力的な男だった。その高塔の唯一と言っていい友人になれたことは薙にとって人生の誇りだ。
なにがあってもなにがなくても、学校にくれば彼に会える。それだけで毎日がとても楽しくなったし、家族より多くの時間を高塔と過ごし、その笑顔を見ているのが好きだった。それはそれまでの十六年間の思い出と差し替えてもいいくらい最高に幸せで濃密な時間となる。
***
高塔と友だちになって数ヶ月たった頃、薙は高塔に由佳里を引き合わせた。話してみればこんなに人好きのする気のいい奴なのに、相変らず学校での高塔の評価は芳しくない。クラスメイトはみなどこかしら遠慮気味で遠巻きにしているだけなのだ。
薙は例の盗難事件の解決以来、クラス内では一目置かれ、その薙と一緒にいる高塔に対しても、表立った嫌がらせやあからさまな無視などはなくなったが、それでも彼がクラス内に友人を作れていないことには代わりがない。だから由佳里に合わせた。ガールフレンドどころか、友人は薙一人しかいなかった高塔の世界を広げてやりたかったのだ。
由佳里に引き合わせてみると、高塔は目を丸くして驚いた。その上一言も挨拶の言葉が出てこない。どうも驚き過ぎてどうしていいかわからないらしい。仕方が無いので今度は由佳里に高塔を紹介した。
初めて面と向かってみた薙は蓮よりも十センチ近く背が高く、目線は自然に上向く。蓮の身長は百七十三あるので、それより十センチ上となると、百八十以上にはなるだろう、高校生にしてはデカ過ぎだ。
上目づかいに見上げる蓮の顔を覗きこみ、薙は厳つい顔を盛大に緩ませて笑った。
「ああ、例の盗難な、犯人捕まったんだ、お前さ、途中で帰っちまったから、なんか気にしてんじゃないかと思って……」
「別に、気になんか……」
本当はとても気にしていた。クラス中に、そして薙に疑われたままで学校なんか行きたくないと思っていた。だがその事件は当の薙が解決してくれたのだ。それはもしかしたら自分のためにしてくれたんだろうかと思うと少し嬉しかったのだが、素直になれず、ボソボソと答えた。
そんな蓮に、薙は本当に嬉しそうに話しかけてくる。なにか話したくて仕方がないといった感じで、ソワソワしていた。
「だよな、うん、お前にはなんの関係もないんだもんな、悪い、なんか変なこと言っちまって」
「……」
「けどなんか悪いことしちまったなと思って」
「なにが?」
「ぁ、いや、あの時は結局なんか、みんなお前を疑ってたみたいだったし、俺も何にも言ってやれなかったから……いや俺は疑ってなんかなかったぜ? けど、結局なにも言えなかったし、だから……ゴメン!」
薙はそう言って、デカイ身体を大きく二つに折り曲げて深々と頭を下げた。正面きってそう謝られるとなんだかくすぐったいし、困る。しかも薙は下げた頭をなかなか上げないのだ。
「ちょっと、なにお前、止めろよそんな……別に俺は」
朝の教室内には登校してくる生徒たちが大勢行き来していて、そんな室内で図体のデカイ薙に頭を下げられると目立って仕方がない。だが薙は教室の一番後ろにある小さな黒板の前で頭を下げたっきり、頑固に上げようとしなかった。
「許してくれ、でなきゃ俺は一生でも頭下げ続けるからな」
「あ、のなぁ……」
それが謝ってる態度か? それじゃあ謝られていると言うよりは、脅迫されているみたいじゃないかと呆れたが、薙は大真面目だ。仕方がないので、いつまでも頭を下げている薙の肩に手をかけた。
「もういいから、頭上げろよ俺はなんとも思ってねえよ」
「じゃ、許してくれるんだな?」
身体は折り曲げたまま、薙は期待に満ちた表情でパッと顔を上げた。その間が絶妙で、ちょうど蓮も薙の顔を覗きこんでいたところだったので、僅か三センチほどの至近距離で目が合った。ドキリとして慌てて後ろへ下がる。
心臓が早鐘を打っていた。
覗き込んだ薙の目は、熊ソノモノだ。それも、飢えた樋熊ではなく、テディベア……小熊のように朴訥で優しいあどけない目だった。
そういや熊って人を襲うようなイメージがあるけど、本当は雑食で、普段は大抵草木を喰ってる草食なんだっけ? その素直で優しそうな瞳を真正面から見てしまった蓮はドキドキしながらまるで関係ない事を考えていた。
薙の視線を横目に感じながら、自分がまるで女子中学生のように落ち着きなく気持ちが上擦っていることに気付き、さらに慌て焦った。薙の顔が見られない。
「な、高塔? 俺を許してくれんだな? なあオイ!」
薙は俯く蓮の顔を無神経に覗き込み、熱心に、少し急くように聞きながら蓮の両手をグッと握ってくる。手を取られた蓮はさらに慌てた。薙に握られた両手から熱が高まり、全身が熱くなる。上擦ってあらぬことを口走りそうだ。
蓮は必死で顔を逸らして、泣きそうな声で言い返した。
「わかった、わかったから手っ! 手、離せよバカ!」
「あ、悪い、つい……」
蓮の一声に、薙も突然気がついたかのようにパッと手を離す。そしてまだドキドキと気分の落ち着かない蓮の隣に自然と立った。
薙がいる。
毎日毎日気になって仕方がなかった薙がまるで友だちのように普通に自分の隣にいる。そう思うだけで胸の鼓動は静まることを知らず、身体は熱いままだ。これではまるで恋でもしているようだと気付き、蓮は下唇を噛んだ。
違う、自分はそんなつもりではない。
そんなつもりで薙を見てたんじゃない。
そう思えば思うほど動揺は治まらず、蓮は泣きだしそうな自分を必死で宥め、気を静めようとしていた。意識しているのは自分だけだ。薙はただクラスメイトとして、正義感から放っておけなかっただけだ。間違えるな、薙はお前の友だちじゃない。
「俺な、実はずっとお前のこと見てたんだ、ずっとこうやって話したかった」
「え……?」
必死で気を逸らそうとしていた蓮の耳に、薙の優しい声聞こえた。それはまるで告白のようで、ドキリとした。顔を上げると薙は本当に嬉しそうに笑っている。
「本当だぜ、なんかよ、やけにクールで綺麗な兄ちゃんがいるなーって思って、ずっと話しかけたかったんだ、けどなんか声かけそびれちまって」
「クールって……なんだよ、ただ冷たいってだけだろ?」
「なに言ってんだ、お前は冷たくなんかないだろ、本当は凄く熱い奴だ」
薙はまるで全てをわかってくれているような、手放しの好意を滲ませながら右手を差し出した。
「つうコトで、あらためて頼む、友だちになってくれ」
「は?」
その台詞には正直蓮も唖然とした。
中学生日記ではあるまいに、今時友だちになろうなんて真っ向から言ってくる奴なんかいないぞとたじろいだ。だが薙は大真面目で、出した手を引っ込めない。蓮が握り返してくれることを期待して、差し出されている右手を見ていると、なんだか昔流行ったカップルを作る番組なんかを思い出した。
男が女の前に立ち、お願いしますと手を差し出す。彼女がその手を取ればカップル成立、取らずにごめんなさいといえば不成立となる。もちろん自分は女じゃないし、薙もそういう意味で言ってるんじゃないのはわかっているが、なんとなくそれを彷彿とさせ、可笑しくなった。
本当は自分もずっと薙と話したかった。だが自分からは言い出せなかった。
それが今こうして思いがけず、薙のほうからそう言い出してくれたのだ。このチャンスを逃すバカはしないのが賢明だろう。蓮もそう覚悟を決めた。だが手は取ってやらない。
「朝っぱらから教室内で恥ずかしい真似すんな阿呆」
「んだよ! 俺は真面目にだな……!」
冷たく横を向き、そう答えた蓮に憤慨して薙が顔を上げる。その真面目そうな瞳を、今度こそ真っ直ぐに見返して静かに笑いかけた。
「わかったからそうがなるな、友だちだろ、いいぜ」
「本当か?」
「ぁあ、よろしくな、薙……」
蓮が笑うと、薙も本当に嬉しそうに笑い返してきた。薙は蓮のすぐ横に、二人の腕が接触するくらい近くに立って、夢中で話しかけてくる。必要とされ、求められる幸せを感じ、なんだかくすぐったくなる。
「最初はさ、なんか冷静で凄くカッコいい奴に見えたんだ、けどコイツが意外に子犬みたいによく笑いやがるからなんか可笑しくって……可愛いなーってさ」
「……は? カワイイってなによ、俺? なに、お前まさかアッチの趣味?」
「バカ! 違げえよ! けどホラ、美人に性別はないだろ」
「何言ってんの、やっぱアッチの気あんじゃねえの?」
「無えっての! ああもう褒めんじゃなかった!」
「アハハッ……」
ちゃんと話したのは初めてだと言うのに、拗ねて横を向く薙がなんだかとても懐かしく見えた。もう何年もの長い間、ずっと友だちだったような、妙に温かい気持ちになり、騒ぎの発端となった盗難事件やその犯人にさえも感謝した。
全てはこの日、始まったのだ。
***
それから薙とはどこへ行くのも、何をするのも一緒だった。
クラスで浮き捲くりだった蓮にとって、薙の存在がどれだけ心の支えになっていたか、きっと本当にはわかっていなかっただろう、薙にも、そして当の蓮にさえ。
相変わらず他の連中からは恐れられ敬遠されていたが、それが全然気にならなかった。ただ薙がそこにいるのが当たり前で当たり前過ぎて、気付けなくなっていたのかしれない。
「由佳里、こいつ高塔、高塔蓮っつうんだ、話したろ、クラスメイトでさ、いい奴なんだ、友人になったんだ、よろしくしてやってくれ」
「……」
ところが、何故か由佳里も目を丸くしたまま、固まっていた。いつもの快活な由佳里らしくない呆然とした態度だ。何故だろう?
やはり高塔は誰にでも、受け入れてもらうことが出来ないのか? でも、何故?
少々愛想は悪いが、そんなに嫌な男には見えないはずだ。誰にでも同じく明るい由佳里までが黙ってしまうことが納得出来ない。
「どうした由佳里? なんとか言えよ」
「あ、ゴメンなさい……なんかすっごい美人だから、驚いちゃって……」
「美人?」
ああ、そうかと納得した。自分はもう見慣れてしまったが、確かに高塔はそんじょそこらにいない美形だ。つまりは見惚れていたということだ。
薙は内心面白くなかった。
たしかに高塔は美形だが、正面切って美人だなんていわれると、じゃあ俺はと聞きたくなるではないか。もちろん自分が美形という言葉とはかけ離れた、厳つくむさ苦しいご面相なのは承知しているが、それでも高塔だけが褒められるというのはなんとなく納得出来ない。男として、プライドを傷つけられた気がした。
だが、その義憤はすぐに見当違いだとわかった。由佳里が不思議そうな顔で言ったのだ。
「でも、薙の学校にこんな美人もいたのね、意外だわ、薙も隅に置けないわね」
「ハ? って、何が?」
「何って、高塔さんよ、美人じゃない、驚いたわ、薙がこんな綺麗なガールフレンドを作るなんて」
「バッ馬鹿! 高塔は男だって! よく見ろ!」
季節が冬だったこともあり、高塔は白いフワッとしたダウンジャケットを着ていて、ボディラインはよくわからないし、元々細身なので見ようによっては女に見えなくもない。下は黒い革のパンツだったが、女性でもパンツをはく奴は大勢いるし、現に今由佳里もパンツ姿だ。緩くウエーブのかかった髪が肩近くまで伸びている高塔が女性に見えたらしい。
この俺にガールフレンドが出来たのかと思ったのか、どうりで、由佳里が固まるわけだ。
しかし笑うな、そうか、高塔が女ねえ……
まあ美形だし、笑うと可愛いし、そう思えなくも無いけどな。
薙は一人納得しながらクスリと笑った。
「高塔、お前が喋らねえから、由佳里の奴、お前を女と間違えてんぜ、何とかいえよ、ほら」
「え、あ? ……ああ、そうか、えっと」
促すと、高塔は少し途惑ってソワソワしていたが、直ぐに思い切った表情で笑顔を作った。そしてスイッと右手を出す。
「よろしく、杉山由佳里……さん? 高塔蓮です」
「あ、こちらこそよろしく、由佳里です」
そのとき薙は、高塔と由佳里の二人が、にこやかに握手を交わし、笑い合っているのを見て、なぜか心痛む思いがした。高塔が自分以外の人間に穏やかに微笑みかけるところを薙は初めて見たのだ。
いや、正確には初めてではない。いつだったか高塔の様子を見に行ったとき、神社でかなり年上の男と笑い合っているところを見たことがあったのを思い出した。
あのとき初めて高塔の笑顔を見たのだ。とても可愛い笑顔だと思った。正直言ってちょっと見惚れた。
話しかけ、親しくなり、お互いに親友と呼ぶ間柄になってからは、その笑顔は自分だけに向けられるモノとなっていた。それが今は由佳里に向けられている。
由佳里は女で、自分が見ても美人の部類だと思う。普段女性と話すどころか自分以外の誰とも話すことのない高塔の気を引くことくらいは容易いように思えてきた。
高塔に友だちが出来るのは喜ばしいことだ、そのつもりで紹介した。由佳里ならいい友人になれると思っていたし、それは間違った選択ではないはずだ。だが、なにかが薙の心に蟠り、引っかかった。
高塔が、遠くに離れていく。
そのとき薄っすらと感じたその思いは、甘酸っぱいモヤモヤした塊として薙の中に長く留まることとなった。
高塔と付き合い始めて半年くらいたった頃か、薙はようやく高塔がなぜ皆に敬遠されているのかを知った。
それは高塔と待ち合わせの場所へ行く途中、偶然見かけた男をつけたことから発覚した。
初めて高塔の笑顔を見た日、その笑顔は自分以外の男に向けられていたものだったのだが、それがとても可愛くて、次の日話かけずにいられなくなった。そのときに彼と話していた男を街で見かけ、なんとなく気になって後をつけたのだ。そしてその男がヤクザ者であり、しかもかなり顔役だと知った。
なぜそんな男がと高塔といたのだろう。もしかしたらなにか脅されているのではないかと疑い、義侠心から後を付けた。しかし尾行はすぐに気付かれる。
当然だ、相手は百戦錬磨のヤクザ者、高校生の尾行など直ぐに知れる。曲がり角で見失いかけ、慌てて走ると角を曲がった直ぐのところで、鋭い目をしたそいつは黙って待ち伏せていた。
「誰だ? 誰かに頼まれたのか? え、鷲尾会の須崎と知っててつけてきたのか? どうなんだ小僧」
迫力あるご面相で睨みを利かせながらそう凄む男にさすがの薙も少し怯んだ。だが高塔が絡んでいるのだ。もしも彼がなにかの厄介事に巻き込まれているとしたら見過ごせないと睨み返す。確かに自分は三十がらみの須崎からしてみれば小僧かもしれないが、それでも学校では強面で通っている。まして高塔や由佳里に言わせれば、三十過ぎくらいに見えるらしい、そう馬鹿にされたもんでもないだろう。そう開き直り、つけてきた理由を話して、その男須崎に、高塔との関係を訊ねた。すると須崎はいきなり表情を変えた。
「すいません、蓮坊ちゃんのご学友でしたか、これはご無礼を……」
その上、そう言って僅かに頭まで下げた。
「蓮坊ちゃん……?」
男は名を須崎《すざき》賢《けん》と名乗った。須崎は訝る薙の目をジッとみて、嬉しそうに話し出す。
「いや、私は嬉しいですよ、蓮坊ちゃんにこんな立派なご学友が出来たなんて、坊ちゃんのことを心配してわざわざつけてらしたんでしょう? 私のようなならず者相手に怯むことなく、それだけ坊ちゃんを思ってくださってるってことだ、ありがとうございます」
「あ、いえそんな……」
いきなり下出に出られて拍子抜けししている薙に、須崎は目を細めて延々と高塔のことを話した。
それによると高塔は須崎の属する暴力団、鷲尾会の会長の一人息子で、そのせいで今まで友人らしい友人は一人もいなかったらしい。高塔を心配してやってきたのは薙が初めてだと言った。
「是非、これからも、蓮坊ちゃんと仲良くしてやってください、よろしくお願いします」
「あ、はい……いえ、此方こそ……」
須崎があまり丁重に、頭を下げるので、薙もかえって恐縮した。慌ててボサボサの髪を掻きながら頭を下げる。……と、ペコリを下げた頭の上からいきなり高塔の声が降ってきた。
「何やってんだ、オメーはよ!」
ついでにポクンと後頭部を叩かれた。
「高塔?」
「蓮坊ちゃん」
「おかえりなさいやし、坊ちゃんのお友達がお見えだってんで、少し先にお話させていただきましたよ」
高塔は不機嫌そうに須崎を睨んでいたが、須崎は余裕の笑みを浮かべながら高塔の頭を撫でた。撫でられた高塔は決まり悪そうにその手を振り払う。
「坊ちゃんはよせっつったろ!」
「二勝したら、と言ったはずですよ、坊ちゃん」
「……ふん」
高塔は薙に向かって話があるからついて来いと言った。言われるままについていくと、その行く先は町外れの埠頭だった。
「聞いちまったんだな……」
海風に吹かれながら、高塔は不機嫌そうな表情で薙を睨むようにして言った。その顔は怒っていると言うよりは、悲しんでいるように見えた。
「なんで言ってくれなかったんだよ」
「……」
高塔は答えなかった。ただ哀しそうな、淋しそうな表情で風の吹き込む海を見ている。きっと知られたくなかったのだろうとは思ったが、知らずにいられることじゃない。ただ学校にいる間だけの上辺だけの付き合いでいる気なら別だが、芯からわかり合い、永遠も誓える友人として付き合うなら、そんな秘密は作れない。そう信じて全てを拒絶しようとしている背中に声をかけた。
「それでなんだな……俺はずっと不思議だった、俺と違って小綺麗で人好きしそうなご面相なのに、なんで避けられてるのか、それはこういうことだったんだな?」
「……」
それでもなにも答えない高塔に詰め寄った。何故言ってくれなかったのか、言えば自分も他の皆と同じように高塔を避けるようになるとでも思ったのか、もしそうだというなら心外だ。薙は高塔から信じられていなかったことへの怒りで身体が震えるのを感じていた。
「そうだとして……お前はどうする? 俺といるとお前まで白い目で見られるかもしれない、離れるなら今のうちだぜ」
友だち宣言してから数日後、薙は突然、なにを思ったか蓮を隣町境の土手まで引っ張っていった。
「高塔、こいつ、杉山由佳里、俺の中学時代の友人なんだ」
そこで美女を紹介された、杉山由佳里、もちろん女だ。
薙に女?
彼女?
由香里は美人で、スレンダーで、優しそうに見えた。薙にはもったいない美人だ。
蓮は彼女の姿を見た途端、心臓に太い杭を打ち込まれたかのような衝撃を感じて焦った。薙に彼女がいるなんて考えてもみなかったのだ。まるで世界が突然掌を返したように色が変わって見えた。
薙は自分と同じくクラスから浮いていた。それは尊敬と羨望と、少しの煩わしいくらいの融通のきかない正義感が疎ましく感じられるからなのかもしれないが、それでも浮いていた。自分に薙しかいないように、薙には自分しかいない。そう信じていた。それが覆された気がした。
薙に彼女がいた?
それはどういうことだ?
薙は違うと思ってた。
なにと違う?
なにが違う?
自問自答していると、いつの間にか近づいてきていた薙がチョイチョイと蓮の脇腹を突く。
途端に全身の血流が上がった。
薙の指が突いた脇腹の部分から、ゾクリと痺れるような感覚が奔り、それが全身へ広がっていく。背筋からずり上がってくるむず痒いその感覚は、それでなくとも動揺していた蓮の内心を大きく波打たせた。
落ち着け。
落ち着け!
しっかりしろ!
足が震えそうになるのを抑え、出来るだけ何気なく薙へと耳打ちする。
「なんだよ、お前、そんな顔して彼女なんかいたのかよ!」
「そんな顔は余計だ馬鹿、それに由佳里は別に彼女ってわけじゃねえって、中坊ん時からの友達だって」
「そういうの、彼女って言うんじゃねえの?」
「言わねえの」
薙は由佳里を彼女ではないと言ったが、それは今はまだ、という意味にも聞こえた。もしくは薙自身、自分で自分の気持ちに気付いていないだけで、本当は好きなんだろうなと思った。それは由佳里が薙の想う人であるにふさわしい気立てのよさそうな娘だったからだ。
薙の(未来の)彼女。
蓮は由佳里を真正面から見ることが出来ず、斜めに構えたままチラチラと横目で見ていた。この娘がいつか自分から薙を奪っていくんだ。それは絶望的な予感だった。
そんな狭くて暗い、半友好的な考えを持ったことを疎ましく、恥ずかしい。なんで自分は女に生まれなかったんだろうかとさえ感じたが、その考えは慌てて否定した。自分が薙に何を求めたのか、そのときはまだ気付きたくなったし、そんなことでヤキモチを妬くようなセコイ人間だと薙に思われたくない。
だが自分がどこか上擦っていて、おかしいということだけはわかっていた。
「高塔、お前が喋らねえから、由佳里の奴、お前を女と間違えてんぜ、何とかいえよ、ほら」
「え、あ? ああ、そうか、えっと……」
突然そう話をふられ、蓮も一瞬心を読まれたかと慌てたが、そんなわけは無い。直ぐに気持ちを切り替えて笑顔を作った。そしてはにかんでいる由佳里に向かってスッと右手を差し出す。
「よろしく、杉山由佳里……さん? 高塔蓮です」
「あ、こちらこそよろしく、由佳里です」
由佳里は最初蓮が感じた薙を奪っていく敵としてのイメージからは程遠く、とても魅力的な娘だった。
笑顔が柔らかい。そして好意に躊躇いがない。
普通、初めて会った男に突然握手を求められて躊躇わず応じる女はいない。まずは警戒心を持つはずだ。いい子ぶるにしても一瞬の躊躇いがある。そして慌てて作り笑顔で震えがちな手をオズオズと差し出す。それが流れだと思っていた。
しかし由佳里は蓮の差し出す右手に両手で答え、蓮の右手を包むように握りながら人懐こそうな柔らかく優しい笑顔で話しかけてきた。だから元来人見知りするタイプの蓮も、臆することなく笑い返すことが出来た。
「びっくりしたわ、まさか薙にこんなカッコイイ友達ができるなんて、ね、どう? 薙って学校でもあんななの?」
「あんな?」
「ほら、無愛想で、ぶっきら棒で、鬼みたいに怖いでしょ、中学ン時なんか皆に恐れられてたんだから、体も大きいし、なんかもう二十五くらいに見えない?」
「ああ、まったくだ、今でもそうだぜ、先生より怖いって評判さ、マジ十六には見えねえよな、二十五? それは言いすぎ、三十だろ」
「あっはは、そうかもねー」
二人して薙のことを貶すような話をしながら、どれくらい薙を好きなのか主張しあってるような気がした。不思議と嫌な感じはしなかった。それは由佳里の笑顔がとても魅力的だったからかもしれない。
事実、由佳里はとても気の利く強く優しい娘だった。初めて会ったというのに、由佳里には蓮に対する警戒心も敵愾心もなく、まったく昔からの友だちであったかのように話し、笑ってくれるのだ。さすがに薙と二人きりのときはどうなのかわからないが、少なくとも蓮が一緒のときは、蓮と薙を分け隔てするような事はなかった。彼女は蓮を薙の友人としてだけでなく、蓮自身を自分の友人としてきちんと見てくれる娘だったのだ。
由佳里ならいい。
由佳里しか認めない。
薙の横に並ぶ自分以外の人間は、由佳里だけだ。
蓮はほんの少しの淋しさを心の内に抱えながら、二人の交際を認め、祝福した。
***
友だち通しになってから半年、薙を自宅へ招くことは一度もしなかった。それは自分がヤクザの組長の子どもだと知られたくなかったからだ。
薙は理由もなく人を差別するような人間ではないし、事実を知ったあともその態度は変わらないかもしれないが、彼にも家族や由佳里がいる。もしかしたら気にするかもしれない。だから話さなかった。
だがその日は、近くに出来たアミューズメントへ行ってみたいと言った薙に押し切られ、自宅近くで待ち合わせの約束をしてしまった。学生名簿で住所だけは知れているので、待ち合わせに遅れたらそれこそ自宅へ来られかねない。来られたら困る。だが急いで家を出ようとしていた蓮の後ろから、低く冷たい声がした。
「蓮、どこへいく?」
「親父……」
呼び止めたのは父親だった。いつにも増して渋い顔をしている。だいたいこういう顔をしている時は良い話ではないのがわかっている。蓮は出来るなら聞きたくないなと軽く睨んだ。
「どこだっていいだろ、俺は忙しいんだ、話しならアトにしてくれ」
そう言い返す蓮に、父親、高塔《たかとう》剛久《たかひさ》は極道の頂点に立つモノの眼力で見つめ、低く、唸るような声で話した。
「連合の、浮岳(うきたけ)坊ちゃんを知っているな?」
「……ああ、だからなんだ?」
連合というのは所謂極道の集まり、関東近辺に巣食う大小さまざまな組を束ねている組織で、ようするに極道の親玉のようなものだ。
日本地図を関東、関西、極東の三つに別け、それぞれに溢れる極道の集団。その関東を束ねているのは、通称連合と呼ばれる関東白峰連合会であり、蓮の父親の束ねる鷲尾会の親玉のようなものだ。そして浮岳坊ちゃんと言うのは、そこの白峰会長の孫(息子は東西の抗争の末暗殺されていて現在七十歳の爺と、九十二歳の大爺が連合を仕切っている)、白峰《しらみね》浮岳《うきたけ》(二十四歳)のことだった。
「坊ちゃんがこの間の会長の祝賀会でお前を見かけてな、えらく気に入ったそうだ、たまには遊びに来いと言ってきている」
「それは強制かよ、行かなきゃウチの面子が立たなくなるとか言う気か?」
浮岳という男は会長の孫という事を最大の武器に好き放題の道楽息子で、権力に媚び諂う輩のことなど、なんとも思わない、所謂大馬鹿野郎の類であり、そのチャラチャラとした外見からして、気に喰わない奴だった。配下の組の組長の子ども達を集めては甚振って楽しもうという腹なのは目に見えている。普段組長の子どもとしてチヤホヤされているガキどもをわざと侮辱し、嬲り、汚物を舐めさせ、屈辱に震える姿を眺めては嘲笑することで自分の優位を確認したい、そんな下品な男だ。
「いや、そうではない、ただそういう話がきているというだけの話だ」
父親はそう言ったがたぶんそれは半ば命令なのだろうなと蓮にも察しがついた。ただ仮にも自分の息子をそんな目にあわせたくないと思ってでもくれたのか、それとも上からの命令だから行ってくれと頭を下げるのが嫌ななのか、行けとは言わなかった。
冷たい目をした高塔の言葉にさらにカッときた。おそらく彼は幾度となくこういう場面を経験してきたのだろう。その度に離れていく友を見送ったのだろう。だが自分はそんなことで心変わりなんかしない。
俺はお前の傍から離れたりしない。初めて真剣にそう思った。
「高塔……」
「……薙?」
両手と全身が自然に動き、途惑っている彼の細い肩を抱き寄せる。そのままぎゅっと抱きしめると、高塔は怯える少女のように小さく震えた。目を閉じると彼の匂いを感じる。涼やかで清々しい水辺の花のような香りだった。
「……」
それはほんの数秒のことだったが、数年後には恋人と呼び、彼女だと認識することになる由佳里よりも先に、薙の手は高塔に触れていた。
数秒後、ゆっくりと身体を離して、薙は宣言する。
「俺がそんな男だと思うのか? 俺はお前が好きだ、お前が何者でも、この先何があっても、それだけは絶対に変わらねえからな」
すると高塔は大げさに慄き、思いっきり胡散臭そうに離れてから真っ赤な顔で喚いた。
「なにっ、それ! やっぱお前そっち系?」
「違う! 今のは親愛の情ってヤツだ、わかれ、そんくれえ!」
「わかるか、そんなもん!」
「違うからな、絶対違うからな!」
笑いながら、それでもなお疑わしそうにホントかよとブツブツ言う高塔を見ながら、薙は誤解されたままでもよかったかなとちょっとだけ思った。
それくらい、そのときの高塔は可愛かった。
「変わらねえよ、俺は……俺達はずっと親友だ、そうだろ?」
そう言ったとき、極自然にそうだなと答えた高塔の肩が、なぜかとても小さく細く見えた。
だが一瞬の不安を無視して、来週末何をして遊ぶとか、その前に期末があんじゃねえかよと、他愛無い話をしはじめる。それからも二人の関係は変わらないものと信じようとしていたのかもしれない。
それからもずっと、共に遊び共に学び、ときには学校をサボって無駄にダベって、何をするにも高塔と一緒だった。 彼と過ごす時間は薙の宝だったのだ。
しかし薙にはもう一つの宝があった。幼馴染であり性別を越えた友情を持ち続けてくれた由佳里だ。
薙は小学生の頃から体格が大きく、クラスメイト同士で何か小競り合いあっても、いつも悪いのは薙のほうだと疑われていた。 デカくて怖い顔をしている。ただそれだけで敬遠されがちだった薙を小さな頃からずっと疑うことなく信じ続けてくれた由佳里がいたからこそ、薙は曲がらずにすんだのかもしれない。高塔と由佳里、薙にとってこの二人こそが大事な宝だったのだ。
だが、宝は一つだからこそ宝なのだ。二つを保とうとすればどちらかが壊れる。その亀裂はまだ目には見えていなかったが、深く静かに進行していた。
***
「高塔くんってまるで薙の恋人みたいね」
ある日、薙の家に遊びに来ていた由佳里がそう呟いた。薙は机の上に高塔と由佳里の二人が一緒に映っている写真を綺麗な木製の写真立に入れて飾っていた。
本当は由佳里の写真を飾るつもりだったのだが由佳里一人が映っている写真がない。飾りたいから撮らせてくれと言うのもなにか気恥ずかしい。そんなことをするとまるで自分が由佳里のことを好きみたいにみえるじゃないか、いや、事実好きではあるがあくまでそれは友達としてだ。そう自分に言い聞かせ、その感情に蓋をしようと、あえて高塔と一緒の写真を選んだのだ。
なかなかいいのがなくて、心なしか高塔のほうがメインになっている写真になった。その写真の高塔がとても綺麗でイイ男に映っていたのは少し癪だが高塔もかけがえのない大事な友人だ、それはそれでかまわないと思っていた。
由佳里はその写真をシミジミと見てそう言ったのだ。
「なに? なんでだよ、よせよアイツ男だぜ?」
なぜか少し後ろめたい気分に陥りながら慌ててそう答えると、由佳里は悪戯っぽく笑いながら薙のひたいを小突いた。
「わかってるわよそんなの……でももし、高塔くんが女の子だったら私、負けちゃうなぁって思ったの」
高塔が女だったら?
薙はその言葉に心が震えるのを感じていた。
ありえない。もしも高塔が女だったら、そもそも自分は高塔に興味なんか持たなかっただろう。もったとしても声なんかかけなかったと思う。
いや、違う。高塔が女だったとしても、きっと同じように心魅かれたに違いない。そしてもしかしたら由佳里の言うとおり……薙はそう思いながらもありえないことだとその考えを否定した。
「バカ、そんなことアイツの前で言ってみろ、怒るぜ、きっと」
本当にありえない。高塔は誰よりも強く潔い男なのだ。
「だってなんか薙って高塔くんが心配で仕方ないって感じに見えちゃって……高塔くんが美人で薙がそんなだからかな? 最近、二人のことを蔭で、美女と野獣って言ってる人がいるの知ってる? 薙って高塔くんの用心棒みたいなんだもの」
美女(高塔のことだろ?)と野獣(俺か?)……?
薙は眩暈のようなショックを受けながらその話を聞いた。
確かに高塔は父親がヤクザであると言う特殊な事情もあって、いつも一人でいて寂しそうにみえたし、もちろん女ではないが美人だし、何となく庇護欲をかきたてられたのも事実だったが。だがそれでイコール二人がアヤシイと言われるのは腑に落ちない。というより嫌だ。だが口を尖らせて拗ねたように言った由佳里に反論しようと思いながらも、薙の目は自然に、由佳里の手にしていた写真へと移った。
写真の中の高塔は少し首をかしげ、楽しそうに笑っていた。それは最初、他の男、須崎といるときに見かけ、魅せられた、屈託なく笑う仔犬のような笑顔。また見たいと思わせた笑顔。自分の隣で笑っていて欲しいと願ったとびきりの笑顔だった。
自分は高塔をなんと思っているのだろう……?
ふと頭を擡げた突き刺さるような疑問を深く掘り下げようとしたそのとき、黙ったままの薙の様子に、怒らせたと感じたのかもしれない、由佳里の涙声が聞こえた。
「ゴメン、なんかあんまり二人が仲いいから……ヤダな私、少し妬いちゃったかな」
涙ぐんでそう言った由佳里を見て胸が締め付けらるような気がした。
「どうかしてるね、ゴメン、今の話、高塔くんには内緒ね?」
「由佳里……」
そして由佳里は頬を伝いそうになる涙を慌てて指で拭って急いで笑顔を作ってみせる。そのとき薙は、一生懸命笑おうとしてくれる由佳里を心から愛おしいと思った。
「由香里、俺は、お前を……っ」
「……薙?」
涙を堪えて笑顔を作ろうとしている由佳里に、その写真は、本当は由佳里を飾りたくて置いたのだと告白した。もうずっと好きだったと、いつの頃だかわからないくらい昔から、俺はお前が好きだったんだと告げた。 由佳里はその告白に涙で応えてきた。ポロポロと涙を落としながらただただ薙の名を呼んで、その胸にしがみついてくる。
「由佳里……」
「薙……」
その日、初めて由佳里の唇に触れた。
温かく柔らかく仄甘い彼女の唇からは、ほんの少し、口紅の香りがした。
もしも高塔が女だったら……。
その妄想を振り払うかのように由佳里の唇を塞ぎ、甘く香る身体を抱きしめた。
***
その年のクリスマスは高塔と過ごした。
実際の所、本当は由佳里にも家へ来ないかと誘われてはいたのだがそれはあえて断った。
由佳里は極平凡な家庭の娘であり、いかに幼馴染とはいえ、クリスマスという家族が集うであろう特別な日に行きたくはなかったのだ。それではまるで将来を誓い合った婚約者同士のような……と言うと少し大げさかもしれないが、ガールフレンドの両親に会うということはそれだけ特別な意味があるような気がした。自分はまだ十七で、将来のことを決めてしまうのは早すぎると思ったのも一因だった。
……が、なによりも、高塔を一人にしておきたくなかったのだ。