薙の声は少し低めだが父親のように冷たく響く声ではなく、とても優しい声だった。もう一度聞きたい、あの声で名前を呼ばれたい。そう思った矢先、また頭の上で襖が開いた。
「坊ちゃん、まだ拗ねていなさるんですか?」
「須崎……」
そこにたっていたのは須崎《すざき》賢《けん》、父親の組の若頭の一人なのだが、父親から蓮のボディガードとお守りを任せられている男だ。
「別に、拗ねてるわけじゃねえよ、ただ子どものことを考えてるっつうなら、まずテメエが極道から足洗えって思っただけさ」
拗ねるなんて子どもっぽいことを自分がしているとは思いたくないが、そうなのかもしれない。そう感じながらも蓮は強がって答えた。
心配しているような顔をしている須崎も所詮は極道、父親の配下であり、その命をうけ自分についているに過ぎない。そう考えると捻たくもなる。だが須崎はそんな蓮の孤独な思惑に気付かずか、静かな優しい声で話しかけてきた。
「坊ちゃん、お宮さんへ詣りやせんか?」
「お宮さんか……まあ付き合ってやってもいいけどよ」
「では、参りましょう」
須崎と連れ立って近所の神社へ行った。
そこは案外大きな神社で、蓮の家はその神社に傾倒し、多額の布施を出している。実質上高塔の神社と言って差支えないところだった。
神社のご本尊は「火愚槌 ―カグツチ― 」日本神話に出てくるイザナギ、イザナミの数多い子どものうちの一柱だ。日本神話における火の神で、軻遇突智《かぐつち》とも表記されている。
出産時にイザナミをその炎で火傷させてしまい、これがもとでイザナミは死んだ。母殺しの火愚槌は、その後怒ったイザナミの夫、つまり実の父であるイザナギに殺された。つまり、心ならずも母を死なせ、父に殺された哀れな子どもということだ。
なんで、そんな神がご本尊なんだ? 蓮は不思議に感じ、須崎にそう聞いたことがあった。すると須崎はこう答えた。
「それは私等極道が火愚槌だからですよ、心ならずも世間様に仇なし、世間様に疎まれて生き、やがて世間様に殺される運命だからです」
そんな仇ならやめればいいだろうと言うと、須崎は頭を振った。そんなことはもう出来ないのだと言う、一度極道に落ちたが最後、二度と人には戻れないのだと。
「酷えな、極道は人じゃねえみたいじゃねえかよ」
「人じゃねえんですよ、坊ちゃん」
「……」
「でも極道だって最初から悪だったわけじゃないんです、誰だって最初は罪もない子どもだったんですよ、それがどこでどう間違ったんだか、この始末です」
蓮が押し黙ると、須崎は少し淋しそうに、いつもの優しい笑顔で話しを続けた。
「だから、オヤジさんは火愚槌を祭るんです、私やほかの若い衆が無事人生を昇華出来る様、祈りを込めて火愚槌を祭ってるんですよ」
親父にそんな深い考えがあるモノか? 蓮はそう思ったがあえて反論はしなかった。
「坊ちゃん、オヤジさんさっきはああ言いましたが、坊ちゃんに組を継いでもらおうとは思ってませんよ、あなたはあなたの人生を生きていいんです、そのために普通に学校にも行ってもらってるんです」
「どうだか……ってより須崎、その坊ちゃんってのはよせっつったろ?」
坊ちゃん、という呼び方はまるで自分が一人前ではない、いつまでたっても笠の下にいるガキだと言われているようで嫌だった。事実そうなのだが、それでも高塔蓮という一個人でなく、父親の付属品のように見られるのが嫌だったのだ。だが須崎は静かに首を振った。
「そうはまいりません、あなたはオヤジさんのお子さんだ」
「お前、俺の言うことを聞くように親父に言われてんだろ」
「はい」
「なら命令だ、坊ちゃんはヤメロ」
我ながら、子どもじみた無茶を言ってると思った。須崎は組の若頭、ケジメだけは固いのだ。須崎がそう呼んだら下の者への示しがつかなくなる。出来るわけないとわかってて言っているのだ。
「わかりました、ではこうしましょう、道場で三本勝負をして、もしも坊ちゃんが勝ったら、私もあなたを坊ちゃんと呼ぶのをやめますよ」
「本当だな?」
須崎のその意外な答えに蓮はパッと明るい顔になった。すぐには無理でも、いつか、いつか必ず須崎を負かす、そうすればもう坊ちゃんとは呼ばれないのだ。
「ようし! その言葉、忘れんじゃねえぞ! 必ずブッ倒してやんかんな!」
「楽しみにしておりますよ」
蓮が笑うと、須崎も顔をほころばして笑った。高塔の鬼神と呼ばれ、世間から恐れられている須崎も、こうして笑っていれば人好きのする普通の男に見えた。
「では、帰りましょう、坊ちゃん」
「もう帰んのかよ? 早えな」
突然真顔で促された蓮が聞き返すと、須崎はあたりを窺いながら先を急がせた。
「どうも誰かに見られてるような気がします、坊ちゃんになにかあったら私は指くらいじゃすみませんからね、さ、戻りましょう」
自分は別にかまわないが、自分のせいで須崎が指を詰めることになったら適わない。蓮も大人しく従って帰った。
「坊ちゃん、学校へは……」
「わぁってるって、ちゃんと行く、行きゃあいいんだろ」
「はい、そうしてください」
「……」
学校なんか行っても楽しくもなんともない。
ケドまあ、今回は須崎の顔も立ててやろう。
そう思った。
数日後、久しぶりに登校したときに、クラスの雰囲気が違っているのがわかった。
「おい、なんだ、なんかあったのか?」
クラスメイトの一人を捕まえて聞くと、例の盗難事件のカタがついたらしい。そして名探偵は他ならぬ薙だった。
薙はクラス中、果ては学校中の全ての生徒をあらうように回り、犯人を突き止めた。犯人は目立たない優等生で、上級生に脅され金を要求されていて困り果てた末に盗んでしまったらしい。
薙はそれを突き止めると、その上級生のところへ行き、殴り倒して謝らせ、財布はダメだったが金を返還させたのだ。そしてそれを持ち主に返し、犯人については追求しないでくれと言った。だがそのことで、犯人は薙ではないかと疑われる。それでも薙は犯人の名を言わなかったのだが、それでますます疑われていった薙を見かね、真犯人は自分から名乗ってでた。薙は悪くない、悪いのは自分だと叫び、それを庇う薙と二人がなんだか文句のつけられない雰囲気で、結局もういいよと言う話に落ち着いたのだと話した。
それ以来、クラス内での薙の評価は格段に上がり、一目置かれる存在になったという。
話を聞いて、ますます薙を見直し、凄い奴だと思った。自分は拗ねて逃げただけだったのに、その間薙は事態を解決へと導いていた。同じ歳なのになんでこんなに違うのかと思うと少し悔しい。
薙のような男になりたい。ただ漠然とそう思い、その存在ソノモノに憧れすら持った。
そう思った矢先、すぐ後ろで声が聞こえ、ドキリとした。
「高塔」
「ぇ……?」
低く、そして静かで優しい声だ。振り向くとそこに薙がいた。目の前に立たれると、頭の中で思っていたよりも、全然デカくて、思わず後ずさる。
熊だ。それも冬眠から醒めたばかりの飢えた樋熊……。
幼い頃からヤクザ連中の中で育ち、普段から厳つい顔は見慣れている蓮もその迫力あるご面相にはちょっと驚いた。だが薙は、厳つい顔とは裏腹に、とても静かで優しい声で話しかけてきた。
「よかった、今日は来たんだな、心配してたんだぜ」
「心配……?」
「坊ちゃん、まだ拗ねていなさるんですか?」
「須崎……」
そこにたっていたのは須崎《すざき》賢《けん》、父親の組の若頭の一人なのだが、父親から蓮のボディガードとお守りを任せられている男だ。
「別に、拗ねてるわけじゃねえよ、ただ子どものことを考えてるっつうなら、まずテメエが極道から足洗えって思っただけさ」
拗ねるなんて子どもっぽいことを自分がしているとは思いたくないが、そうなのかもしれない。そう感じながらも蓮は強がって答えた。
心配しているような顔をしている須崎も所詮は極道、父親の配下であり、その命をうけ自分についているに過ぎない。そう考えると捻たくもなる。だが須崎はそんな蓮の孤独な思惑に気付かずか、静かな優しい声で話しかけてきた。
「坊ちゃん、お宮さんへ詣りやせんか?」
「お宮さんか……まあ付き合ってやってもいいけどよ」
「では、参りましょう」
須崎と連れ立って近所の神社へ行った。
そこは案外大きな神社で、蓮の家はその神社に傾倒し、多額の布施を出している。実質上高塔の神社と言って差支えないところだった。
神社のご本尊は「火愚槌 ―カグツチ― 」日本神話に出てくるイザナギ、イザナミの数多い子どものうちの一柱だ。日本神話における火の神で、軻遇突智《かぐつち》とも表記されている。
出産時にイザナミをその炎で火傷させてしまい、これがもとでイザナミは死んだ。母殺しの火愚槌は、その後怒ったイザナミの夫、つまり実の父であるイザナギに殺された。つまり、心ならずも母を死なせ、父に殺された哀れな子どもということだ。
なんで、そんな神がご本尊なんだ? 蓮は不思議に感じ、須崎にそう聞いたことがあった。すると須崎はこう答えた。
「それは私等極道が火愚槌だからですよ、心ならずも世間様に仇なし、世間様に疎まれて生き、やがて世間様に殺される運命だからです」
そんな仇ならやめればいいだろうと言うと、須崎は頭を振った。そんなことはもう出来ないのだと言う、一度極道に落ちたが最後、二度と人には戻れないのだと。
「酷えな、極道は人じゃねえみたいじゃねえかよ」
「人じゃねえんですよ、坊ちゃん」
「……」
「でも極道だって最初から悪だったわけじゃないんです、誰だって最初は罪もない子どもだったんですよ、それがどこでどう間違ったんだか、この始末です」
蓮が押し黙ると、須崎は少し淋しそうに、いつもの優しい笑顔で話しを続けた。
「だから、オヤジさんは火愚槌を祭るんです、私やほかの若い衆が無事人生を昇華出来る様、祈りを込めて火愚槌を祭ってるんですよ」
親父にそんな深い考えがあるモノか? 蓮はそう思ったがあえて反論はしなかった。
「坊ちゃん、オヤジさんさっきはああ言いましたが、坊ちゃんに組を継いでもらおうとは思ってませんよ、あなたはあなたの人生を生きていいんです、そのために普通に学校にも行ってもらってるんです」
「どうだか……ってより須崎、その坊ちゃんってのはよせっつったろ?」
坊ちゃん、という呼び方はまるで自分が一人前ではない、いつまでたっても笠の下にいるガキだと言われているようで嫌だった。事実そうなのだが、それでも高塔蓮という一個人でなく、父親の付属品のように見られるのが嫌だったのだ。だが須崎は静かに首を振った。
「そうはまいりません、あなたはオヤジさんのお子さんだ」
「お前、俺の言うことを聞くように親父に言われてんだろ」
「はい」
「なら命令だ、坊ちゃんはヤメロ」
我ながら、子どもじみた無茶を言ってると思った。須崎は組の若頭、ケジメだけは固いのだ。須崎がそう呼んだら下の者への示しがつかなくなる。出来るわけないとわかってて言っているのだ。
「わかりました、ではこうしましょう、道場で三本勝負をして、もしも坊ちゃんが勝ったら、私もあなたを坊ちゃんと呼ぶのをやめますよ」
「本当だな?」
須崎のその意外な答えに蓮はパッと明るい顔になった。すぐには無理でも、いつか、いつか必ず須崎を負かす、そうすればもう坊ちゃんとは呼ばれないのだ。
「ようし! その言葉、忘れんじゃねえぞ! 必ずブッ倒してやんかんな!」
「楽しみにしておりますよ」
蓮が笑うと、須崎も顔をほころばして笑った。高塔の鬼神と呼ばれ、世間から恐れられている須崎も、こうして笑っていれば人好きのする普通の男に見えた。
「では、帰りましょう、坊ちゃん」
「もう帰んのかよ? 早えな」
突然真顔で促された蓮が聞き返すと、須崎はあたりを窺いながら先を急がせた。
「どうも誰かに見られてるような気がします、坊ちゃんになにかあったら私は指くらいじゃすみませんからね、さ、戻りましょう」
自分は別にかまわないが、自分のせいで須崎が指を詰めることになったら適わない。蓮も大人しく従って帰った。
「坊ちゃん、学校へは……」
「わぁってるって、ちゃんと行く、行きゃあいいんだろ」
「はい、そうしてください」
「……」
学校なんか行っても楽しくもなんともない。
ケドまあ、今回は須崎の顔も立ててやろう。
そう思った。
数日後、久しぶりに登校したときに、クラスの雰囲気が違っているのがわかった。
「おい、なんだ、なんかあったのか?」
クラスメイトの一人を捕まえて聞くと、例の盗難事件のカタがついたらしい。そして名探偵は他ならぬ薙だった。
薙はクラス中、果ては学校中の全ての生徒をあらうように回り、犯人を突き止めた。犯人は目立たない優等生で、上級生に脅され金を要求されていて困り果てた末に盗んでしまったらしい。
薙はそれを突き止めると、その上級生のところへ行き、殴り倒して謝らせ、財布はダメだったが金を返還させたのだ。そしてそれを持ち主に返し、犯人については追求しないでくれと言った。だがそのことで、犯人は薙ではないかと疑われる。それでも薙は犯人の名を言わなかったのだが、それでますます疑われていった薙を見かね、真犯人は自分から名乗ってでた。薙は悪くない、悪いのは自分だと叫び、それを庇う薙と二人がなんだか文句のつけられない雰囲気で、結局もういいよと言う話に落ち着いたのだと話した。
それ以来、クラス内での薙の評価は格段に上がり、一目置かれる存在になったという。
話を聞いて、ますます薙を見直し、凄い奴だと思った。自分は拗ねて逃げただけだったのに、その間薙は事態を解決へと導いていた。同じ歳なのになんでこんなに違うのかと思うと少し悔しい。
薙のような男になりたい。ただ漠然とそう思い、その存在ソノモノに憧れすら持った。
そう思った矢先、すぐ後ろで声が聞こえ、ドキリとした。
「高塔」
「ぇ……?」
低く、そして静かで優しい声だ。振り向くとそこに薙がいた。目の前に立たれると、頭の中で思っていたよりも、全然デカくて、思わず後ずさる。
熊だ。それも冬眠から醒めたばかりの飢えた樋熊……。
幼い頃からヤクザ連中の中で育ち、普段から厳つい顔は見慣れている蓮もその迫力あるご面相にはちょっと驚いた。だが薙は、厳つい顔とは裏腹に、とても静かで優しい声で話しかけてきた。
「よかった、今日は来たんだな、心配してたんだぜ」
「心配……?」