その日の帰りの会で、久しぶりに石神に名前を呼ばれた。
「上田。指揮やるなら、林先生に申請してきて。あと、これからは全部林先生に聞いて」
「はーい」
本当に石神は変わった。生徒たちを怒鳴っていた教師が、今では地蔵のような態度で生徒と接している。たまに生徒に声をかけると思うと、それは事務的な内容がほとんどだった。
放課後、石神に言われた通り、職員室へ向かった。林先生は自分の席に座り、合唱祭に向けて、忙しそうに仕事をしている。
「すみません、六年二組の上田愛斗です。指揮者の申請できました」
「あ、上田くんがやるの?わかった。じゃ、頑張ってちょうだいね」
林先生は、二十代の女性の先生だ。高学年の男子の中には、林先生を崇拝している人も存在する。もちろん理樹もその一人だった。
退出する時に職員室全体を見渡した。一番端の隅っこに石神の姿がある。他の先生達を寄せ付けず、一人で座り、コーヒーを飲んでいた。
僕も教員時代、どちらかというと孤立していた方だけど、周りからはあんなふうに見られていたのかと思うとゾッとした。
石神を遠目から見ていると、僕が見ていることに気づき、ゆっくりと近づいて来た。その場から急いで立ち去ろうとしたが、石神の目が動くなと訴えかけてくる。その場で静止し、近づいてくる石神を待った。
そのまま石神は僕の横を通り過ぎる。一瞬何だったのかわからなかったが、耳元で石神が一言だけ呟いて行った。
「矢印は消せない」
耳打ちで確かにそう言った。
少し考えたが、その場で答えは出せなかった。
その後、僕も職員室を出て、自分のクラスに戻った。そこには、どういうわけか美来が一人で座っている。
「なんで残ってるの?」
「愛斗くん、待ってた」
なぜ待っていてくれたのかはわからなかったが、一緒に帰ることになった。美来の家は学校の目の前にある。一緒に帰ると言っても、校門を出てすぐお別れだ。
ランドセルを背負い帰宅する。その時も、職員室で石神が言ったことに意識を持ってかれていた。そのせいで、美来のことを気に留めることもなく、気づいたら美来の家の前まで来てしまっていた。
美来の家に着くと、少し待つように言われた。言われた通り、美来の家の前で待っていると、美来はすぐに家から出てきて、「帰ろ」と言ってきた。
「美来の家ここだよね」
「うん。でも愛斗くん、帰ってないでしょ」
美来はよくわからないことを言ったが、美来の手には財布が握られていた。
「あ、買い物行くの?」
「そう。愛斗くんの家とスーパー近いでしょ」
「じゃ、一回僕の家に帰って、自転車で行こうよ。荷物乗せられるし」
「いいの?」
そう言って僕らは帰宅することになった。今日の美来は、いつもより懐っこく感じた。
「ねーね、愛斗くん」
さっきから美来は何かを僕に言いたがっているが、どうしてか美来は少し躊躇っているようだった。
「美来、なんで待っていてくれたの」
「それは…」
美来は言いづらいのか、緊張しているようだった。
「愛斗くん、あの、私達って友達?」
美来は、少し恥ずかしそうに言った。
「当たり前だよ。それを聞くために残ってたの?」
「うん…」
職員室から六年二組の教室に戻った時、帰りの会からは三十分ほどが経過していた。それを確認するためだけに待っていたと思うと、何だか健気に思えてしまう。
「美来は、大人びてて、他の友達よりも話しやすいと思ってるよ。一緒にいると疲れなくて楽なんだよ」
本当にそう思っていた。小学六年生と話すのは、友達でも疲れてしまう。言葉を選んで話しているつもりだが、それでも伝わらないことも多々ある。その点美来は、同級生の中で最も話しやすい友達だと思っていた。
「ほんと?」
「ほんと」
そのあと、美来は僕の顔を見て不安そうな顔をした。まだ信じてくれていないのかもしれない。
「じゃ、僕の家に着いたら、ちょっと待っててよ」
家に着き、優香に誕生日にもらったスケッチブックを持ち出した。そうして美来に、最後のページに描かれている、僕と優香と美来の三人の絵を見せた。
「優香が誕生日にくれたんだよ。美来が僕を笑顔にしてくれた人だって」
照れ臭かったが、優香に言われたように言った。
「優香ちゃんは優しいね」
美来はその絵を見て微笑んでいた。
「それでなんだけど、十一月一日、優香の誕生日なんだ。もしよかったら絵を描いてもらえないか?」
合唱祭の前日に優香の誕生日があった。僕も優香にもらったように、絵をプレゼントしたかったのだが、絵心が全くなかった。春のスケッチの授業で、美来の絵が素晴らしかった事を思い出し、絵のプレゼントをお願いしようとずっと考えていた。
「もちろん。私でよければ」
美来の不安そうな表情は無くなっていた。
「よし、決まり。僕は何をあげようかな」
その日も以前のように買い物に付き合い解散した。
美来は優香の誕生日前日までに渡すって言ってくれたけど、当日予定がないなら一緒に渡してほしいとお願いした。その方が優香もきっと喜んでくれる。
「上田。指揮やるなら、林先生に申請してきて。あと、これからは全部林先生に聞いて」
「はーい」
本当に石神は変わった。生徒たちを怒鳴っていた教師が、今では地蔵のような態度で生徒と接している。たまに生徒に声をかけると思うと、それは事務的な内容がほとんどだった。
放課後、石神に言われた通り、職員室へ向かった。林先生は自分の席に座り、合唱祭に向けて、忙しそうに仕事をしている。
「すみません、六年二組の上田愛斗です。指揮者の申請できました」
「あ、上田くんがやるの?わかった。じゃ、頑張ってちょうだいね」
林先生は、二十代の女性の先生だ。高学年の男子の中には、林先生を崇拝している人も存在する。もちろん理樹もその一人だった。
退出する時に職員室全体を見渡した。一番端の隅っこに石神の姿がある。他の先生達を寄せ付けず、一人で座り、コーヒーを飲んでいた。
僕も教員時代、どちらかというと孤立していた方だけど、周りからはあんなふうに見られていたのかと思うとゾッとした。
石神を遠目から見ていると、僕が見ていることに気づき、ゆっくりと近づいて来た。その場から急いで立ち去ろうとしたが、石神の目が動くなと訴えかけてくる。その場で静止し、近づいてくる石神を待った。
そのまま石神は僕の横を通り過ぎる。一瞬何だったのかわからなかったが、耳元で石神が一言だけ呟いて行った。
「矢印は消せない」
耳打ちで確かにそう言った。
少し考えたが、その場で答えは出せなかった。
その後、僕も職員室を出て、自分のクラスに戻った。そこには、どういうわけか美来が一人で座っている。
「なんで残ってるの?」
「愛斗くん、待ってた」
なぜ待っていてくれたのかはわからなかったが、一緒に帰ることになった。美来の家は学校の目の前にある。一緒に帰ると言っても、校門を出てすぐお別れだ。
ランドセルを背負い帰宅する。その時も、職員室で石神が言ったことに意識を持ってかれていた。そのせいで、美来のことを気に留めることもなく、気づいたら美来の家の前まで来てしまっていた。
美来の家に着くと、少し待つように言われた。言われた通り、美来の家の前で待っていると、美来はすぐに家から出てきて、「帰ろ」と言ってきた。
「美来の家ここだよね」
「うん。でも愛斗くん、帰ってないでしょ」
美来はよくわからないことを言ったが、美来の手には財布が握られていた。
「あ、買い物行くの?」
「そう。愛斗くんの家とスーパー近いでしょ」
「じゃ、一回僕の家に帰って、自転車で行こうよ。荷物乗せられるし」
「いいの?」
そう言って僕らは帰宅することになった。今日の美来は、いつもより懐っこく感じた。
「ねーね、愛斗くん」
さっきから美来は何かを僕に言いたがっているが、どうしてか美来は少し躊躇っているようだった。
「美来、なんで待っていてくれたの」
「それは…」
美来は言いづらいのか、緊張しているようだった。
「愛斗くん、あの、私達って友達?」
美来は、少し恥ずかしそうに言った。
「当たり前だよ。それを聞くために残ってたの?」
「うん…」
職員室から六年二組の教室に戻った時、帰りの会からは三十分ほどが経過していた。それを確認するためだけに待っていたと思うと、何だか健気に思えてしまう。
「美来は、大人びてて、他の友達よりも話しやすいと思ってるよ。一緒にいると疲れなくて楽なんだよ」
本当にそう思っていた。小学六年生と話すのは、友達でも疲れてしまう。言葉を選んで話しているつもりだが、それでも伝わらないことも多々ある。その点美来は、同級生の中で最も話しやすい友達だと思っていた。
「ほんと?」
「ほんと」
そのあと、美来は僕の顔を見て不安そうな顔をした。まだ信じてくれていないのかもしれない。
「じゃ、僕の家に着いたら、ちょっと待っててよ」
家に着き、優香に誕生日にもらったスケッチブックを持ち出した。そうして美来に、最後のページに描かれている、僕と優香と美来の三人の絵を見せた。
「優香が誕生日にくれたんだよ。美来が僕を笑顔にしてくれた人だって」
照れ臭かったが、優香に言われたように言った。
「優香ちゃんは優しいね」
美来はその絵を見て微笑んでいた。
「それでなんだけど、十一月一日、優香の誕生日なんだ。もしよかったら絵を描いてもらえないか?」
合唱祭の前日に優香の誕生日があった。僕も優香にもらったように、絵をプレゼントしたかったのだが、絵心が全くなかった。春のスケッチの授業で、美来の絵が素晴らしかった事を思い出し、絵のプレゼントをお願いしようとずっと考えていた。
「もちろん。私でよければ」
美来の不安そうな表情は無くなっていた。
「よし、決まり。僕は何をあげようかな」
その日も以前のように買い物に付き合い解散した。
美来は優香の誕生日前日までに渡すって言ってくれたけど、当日予定がないなら一緒に渡してほしいとお願いした。その方が優香もきっと喜んでくれる。