すべての季節に君だけがいた

「一週間経ったらもう桜が咲いてて、次起きたときにはもう新緑が芽吹いてて、その次起きたらすっかりセピア色の世界になってる。あっという間に息を吐いたら白くなる季節になって、また桜が咲く。本当に目まぐるしいくらい全部があっという間で、自分以外の人が早送りで生きてるみたい」
 青花の言葉を聞きながら、自分でもそんな世界を想像してみる。
 一週間ごとに季節が巡っていく世界で、彼女は生きているんだ。
 青花のことを、ここにいる誰もがあっという間に追い越して、年を重ねていく。数年先も青花は、高校生のまま。
 彼女の瞳に、世界はどんな風に映っているんだろう。
 何も言えないまま黙っていると、青花はそんな俺を見てふっと笑った。
「禄はどんな大人になるんだろうな」
「え?」
「有名なゲーム会社で働いて、おしゃれなマンションに住んでたりして」
「えぇ、想像つかないな」
 茶化すように笑う青花だけど、俺はあまり上手く笑えなかった。
 青花が描く未来には、きっと俺はいないんだろう。
 突き放されたような気がして、胸がぎゅっと切なくなる。
 でも、必ずいるという約束もできない。それは俺がまだ、あまりにも非力だから。
「俺が先に大人になっても、季節が巡るたびに今日のことを思い出すよ」
「え?」
 約束ができない代わりに、俺は今言える精一杯の気持ちを伝えることにした。
 頭の上に疑問符を浮かべるような顔をした青花に、俺は言葉を重ねる。
「えっと、ほら、人間の記憶ってすごく曖昧だから、去年の冬は何してたとか、一昨年の夏はこんなことしたとか、そんな覚え方するでしょ?」
「うん、たしかに」
「季節と記憶の関係はすごく強いし、だから、季節が巡るたびに青花のことを思い出すよ。どんな大人になっても」
 そう伝えると、青花はしばらくぽかんとしてから、視線を窓の外に戻して、少し嬉しそうに「そっか」とつぶやいた。
「ほら、俺友達少ないし、その分人より一個一個の思い出が濃い自信あるしさ」
 少し照れくさくなってしまい、自虐的なことを言って、場の空気を和らげる。
 青花はまた、「たしかに」と言って笑って、「禄に友達いなくてよかった」と続けた。
 今日、青花と一緒にいられてよかった。心からそう思える。
 だからつい、今まで青花にしたことのなかった話をしたいと思ってしまった。
「俺さ、二個下の弟がいるんだけど、ずっと不仲なの放置してたんだ」
「えっ、そうなの? 初耳だよ」
 青花は驚いたように声を上げて、目を見開いている。
「うん、でも、ちょっと頑張ろうかと思って」
 まるで誓うようにそう伝えると、青花は「ふーん?」とよく分かっていないような相槌を打つ。そりゃそうだ。
 唐突な宣言に戸惑わせてしまったと思い、俺はそろそろ持ち場に戻ろうと提案しようとした。その矢先、青花はすっと右手を上げて、何かを宣言するようなポーズを取る。
「じゃあ私も、お父さんとのこと、もう少し頑張ろうかな」
「え……?」
「私もお父さんとギクシャクしてるの。でもおばあちゃんももういい年だし、安心させてあげないとね。禄も頑張るなら、私も一緒に頑張ってみようかな」
 どうして青花もそんな風に思ったのかは分からないけれど、「一緒に頑張る」という言葉は心強い気がした。
 俺は深く追及せずに、「そっか」とだけ返して、人ごみの方へ歩みを進める。
 きっと俺は、青花のほとんどをまだ知らない。分かっていない。
 だけど、そばにいることだけは、彼女が求めてくれる限り、きっとできる。
 季節が巡るたびに青花のことを思い出す。それは、本当に本当だよ。絶対と言えることなんかない世界で、それだけは、絶対だと言える。

「あ、ゲーム配信コラボのメールが来てる」
 サボっていた分を取り戻すように、最後の三十分間頑張って集客をした俺たちは、ようやく当番を終えて看板を次の人に任せた。
 あとはゆっくり見れなかった各クラスの出し物を見て回ろうとしていたところで、スマホが震えたのだ。
 メールの送り主を見てひっくり返るほど驚いた。
 なぜなら、ずっと自分がファンだったゲーム実況者からのメールだったから。
「えっ、〝ガンクロ〟さんからコラボ配信の依頼が来た……」
「ええ⁉ それすごくない?」
 自分もまだ信じられていないような口調でぼそっとつぶやくと、青花は俺以上に驚いたリアクションを取ってくれた。
 ガンクロさんは登録者百万人超えの人気配信者で、自分なんかには手の届かない存在だと思っていた人。
「早めに返信した方がいいんじゃない?」
 青花の提案に、俺は動揺した声で返す。
「い、今メール返してきてもいいかな?」
「もちろん! うわーすごいな、いいなー」
 青花も同じくガンクロさんのファンなので、同じように喜んでくれた。
 これからほかのお店を回る予定だったから申し訳なく思ったけれど、俺は青花の言葉に甘えることにした。
「私、この間にお手洗い行ってくるね。存分に集中して返して!」
「あ、ありがとう。人多いから気をつけてね。教室の前で待ち合わせよう」
 青花を見送って、俺は階段の踊り場でメールを返信する。
 高揚して少し手が震えて、上手く打てない。動画配信をいつまで続けるのかは具体的には考えていないけれど、大学を出るまでの自分の生活の糧にしたいと思っている。
 でもそれはあくまでひとつの理由なだけであって、本当は、青花に楽しんでもらいたいから。
 俺はひとつひとつ大事に言葉を考えて、スマホをタップしていく。
 きっと次の季節には、ガンクロさんとの配信を青花に観てもらえる。そんな風にワクワクしながら、感謝の気持ちを言葉にした。
「よし、戻ろう」
 かかった時間は十分ほどだろうか。メールを打ち終えた俺は、青花と待ち合わせていた2―B教室前に向かった。
 しかしそこに、彼女の姿はなかった。
「青花……?」
 トイレが混んでいるんだろうか。思わずあたりを見回すけれど、まだ青花の姿は見えない。
 俺は壁に寄りかかって彼女の帰りを待つことにした。
 コラボ動画を観て喜んでくれる青花を、想像しながら。

世界に置き去りにされても


『季節が巡るたびに今日のことを思い出すよ』
 その言葉は、魔法みたいに胸の中に甘く優しく染み込んでいった。
 誰かに忘れられていくことが怖いと思っている私を、包み込んでくれるようだった。
 嬉しくて、どうしようもなくて、言葉に詰まった。
 禄が好きだと気づいてから、どんな風に彼と接したらいいのか分からないでいたけれど、彼はそんなこと全く察することなく心の奥に入ってくる。
 禄、私は今、君を失うことが、怖くて仕方がない。
 一緒にいられて幸せだと思う一方で、同じくらい胸が切なくなるんだ。
 でも、禄が私のことをこれからも何度も思い出してくれると考えたら、少し胸の痛みが和らいだ。

 やや混んでいたトイレから出て、禄と決めた待ち合わせ場所に向かう。
 まさかガンクロとコラボできるだなんて、本当に禄はすごい人になっちゃったな。
 ガンクロは私も大好きなゲーム実況者だったので、正直、禄以上に興奮している。
 配信日はいつになるんだろう。次に目を覚ました日には、観れるといいな。
 そんなことを考えて待っていると、ふいに視線を感じて顔を上げた。
「あれ、あのときの女じゃん」
 私を見て指をさしている、夏に出会ったばかりの男子三人組。
 たしか木下とかいう、茶髪の派手な男子が、私を見てニヤッと口角を上げた。
 まずい。嫌な空気を察して、すぐに逃げようとしたけれど、角に追いやられてしまった。
 人が多すぎて、逆に目立たない状況に、少し焦る。ここじゃ禄に見つけてもらえない。
「元気? 今もあのオタクと付き合ってんの?」
「ちょっと、離れてください」
「今日は、格下の高校がどんなしょぼい文化祭やってんのか見に来たんだよねー」
 身長が高い木下に見下ろされると、それなりに圧迫感がある。
 私は彼の胸板を少し押して、三人の間から何とか逃げようとしたけれど、上手くいかない。逆に腕を掴まれて、逃げられないようにされてしまう。
 ドクドクと鼓動が速くなっていくのを感じて、私は「まずい」と思った。腕につけていた、心拍数を測れるデジタル時計が、高すぎる心拍数の数値を警告していた。
 どうしよう、禄、早く戻って来て……。
「そんな怯えんなって。お話したいだけじゃん」
「やめてよ、触らないで」
「俺さ、人に指図されたり説教されたりすんの、大嫌いなんだよね」
 ドン!と頭の真横の壁を、大きな拳が通り過ぎる。
 明らかに苛立った様子の彼は、瞳の奥の色が真っ暗だった。
「神代もさー、一回俺に指図してきたことあんの。パシリのことぼこってたら口出してきてさー、気持ち悪ぃオタクの癖によ。そのとき決めたんだ、次のおもちゃはこいつにしようって」
「最低……。頭おかしいね」
 二の腕をぎゅっと掴まれて、私は思わず顔を顰める。
 木下は暴力に慣れているのか、全く表情を変えずに力を入れ続けた。
「神代がM学園受けたら、お前の弟もいじめてやるかなって脅したら、簡単に折れてやんの。だっせー」
 信じられない言葉に、私は思わず耳を疑う。
 痛みも忘れるほど、木下の理不尽な悪意に衝撃を受けていた。
「あんな脅し簡単に信じてさー。本当バカだよなあ、あんなにバカなのに、俺より成績いいとか意味不明すぎ」
「本気で……言ってるの……?」
 ドクンドクン。怒りとショックで心臓が痛いほど鼓動している。
 普段はちょっと興奮しても、簡単にこんな状態にはならないのに。
 無理をして六日間も外泊していたせいだろうか。
 落ち着けようと思っても、心臓は言うことを聞かない。
「しかもアイツ、M学受けないってなったら、家庭崩壊しかけてやんの。三者面談で母親が怒り狂ってる声が外まで聞こえてきて笑いが止まらなかったわ。進学率を気にしてる教師も、それからアイツのことは見放して無視。出席で名前も呼ばない。カンニングしたって噂も流してたから、クラスメイトも全員黙認」
「信じられない……、あなたは人間じゃない」
 悔し涙が入り交じった瞳で睨みつけると、「うるせぇよ」と、今度は足元の壁を思いきり蹴とばされた。
 こんな悪が本当に存在するんだ。
 禄は、そんな地獄みたいな日々を過ごしてきたんだ。
 それなのに、どうして彼はあんなに優しさにあふれているんだろう。
 どうしてそんな人を、誰も守ってくれなかったの。信じてくれなかったの。
 私はキッとさらに力強く睨みつけて、彼に純粋な質問をぶつけた。
「そうやって、〝ムカつく人間〟を排除していって、最後に何が残るの? そんなに自分は特別な存在? 自分以外の全部がくだらなくて仕方ない?」
「は? 何言ってんのお前、またお説教かよ」
「そのうしろで黙ってる二人は、あなたにとって何? ムカついたらまた暴力や言葉で排除するの?」
「あー、うぜぇ、ガチで殴りたくなってきた」
「そんなことを繰り返してたら、あなたには絶対最後何も残らない! 何もない人生だったなって嘆きながら人生終えればいい!」
「うるせぇよ……」
 木下が拳をゆっくり振りかざした途端、ドクンと心臓が大きく跳ねて、一瞬呼吸が止まった。
 私はその場に倒れ込んで、心臓付近を強く抑える。
「あっ、くっ……」
 ああ、最悪だ。お父さんとおばあちゃんと先生と、ちゃんと約束したのにな。無理は絶対しないって。
 呼吸が浅くなってきて、目の前の景色が霞む。
 木下は、苦しむ私の様子を見て「おい逃げるぞ」とだけ言って、私を置いて去っていった。
 人ごみに紛れそうになったけれど、ちょうどそばにあったゴミ箱に近づいてきた女性が、私の存在に気づいてくれた。
「きゃー! どうしたんですか、大丈夫ですか!」
 大声が響いて、あたりはざわつきだす。
 ああ、どうしよう、私ここで、終わるのかな。鈍器で殴られているように、心臓が痛い。
 閉ざされかけた景色を茫然と眺めていると、「青花!」と私を呼ぶ声が、ひときわ大きく聞こえてきた。
 ああ、禄だ。彼の声だ。
 安心したその瞬間、私は意識を手放した。



 誰かのためにこんなに怒ったり悔しくなったりすることが、今まであったかな。
 病気が分かるまで、私は何でもそつなくこなしてきたと思う。
 成績も運動もそこそこで、明るい友達もいて、感情が爆発することなんてなかった。
 正義感はある方だとは思うけど、きっと見過ごしてきた悪もあった。もっと器用に生きていたはず。
 だけど、禄と出会ってから、そうじゃいられなくなった。
 私は、生きている限り、絶対に大切な人を傷つけたくない。見過ごしたくない。
 綺麗ごとばかり並べられる世界じゃないってこと、頭では分かってるはずなのに。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来ても、禄と一緒にいる未来が欲しい。
「青花……!」
 突然パチッと目が覚めると、顔面蒼白となった禄が視界に広がった。
 禄はすぐに「先生、鶴咲さんが目を覚ましました」と慌ただしく告げて、ベッドから離れる。
 カーテンの隙間から見慣れた校庭が見えて、ここは保健室なのだと理解した。
「鶴咲さん。今、救急車すぐに来るからね。体勢はつらくない?」
 カーテンが開いて、保健室の先生が入って来た。そして、私を安心させるように問いかける。
 私はふるふると首を横に振って「もう大丈夫です」と答えたけれど、先生とそのうしろにいる禄は心配そうな顔をしている。
「十分後には救急車が到着するらしいから、もう少し待っていて。私は校門まで救急隊の人を迎えにいってくるから、その間神代君よろしくね」
「はい、分かりました」
 会話を聞きながら、私は少しずつ意識をしっかりさせようと、指先に力を入れたり、深呼吸をしたりする。
 静かな保健室に二人きりになって、私は改めて禄の顔を見つめた。
「驚いた……。女性の叫び声が聞こえて、近寄ったら青花が倒れてた」
 消えてしまいそうなほど、弱々しい声。ものすごく心配をかけてしまったことに、罪悪感を抱く。
「怖かった、すごく……。ごめん、ずっと、そばにいる約束だったのに」
「禄のせいじゃないよ」
 そう言いきると、禄は「でも」と首を横に振る。私は何て声をかけたらいいのか考えて、ひとまず倒れてしまった経緯を説明しようとした。
「ごめんね、人ごみにいすぎて疲れてたみたい。私がはしゃぎすぎたんだ」
 木下たちのことは、伝えない。
 もし禄がこのことを知ったら、今度は禄が無茶をしてしまうと思うから。
 どうにか禄が自分を責めすぎないようにしたいけれど、上手く言葉が見つからない。
「怖かった……、もう二度と青花が目を覚まさなかったらどうしようって」
 禄が、私を切なげに見つめながらぽつりとつぶやく。
 長い前髪のせいではっきり見えないけれど、彼の瞳は少し濡れている気がする。
 こんなにも私がいなくなることを恐れてくれる人が、いるんだ。不謹慎にも、そんなことで心臓が少し高鳴った。
「ごめん、青花の方が、怖かったよね」
「ううん、禄がすぐに来てくれたから……」
 安心させるように笑おうとしたけれど、なぜか頬が濡れていることに気づいた。
 不思議に思い中指を肌に滑らせると、それは目から流れていた。
 痛くて泣いたのか、怖くて泣いたのか、不安で泣いたのか。
 分からないけれど、自分が泣いていると分かった途端、ポロポロと涙の粒があふれ出てくる。
「おかしいな、ごめん……」
 禄は何も言わずにそんな私を見守ってくれて、そばにティッシュを置いてくれた。
 自分が生きていると分かって出てきた涙。これは紛れもなく、死への恐怖だった。
 木下たちの前では気を張っていられたのに、禄の前では自分を守る鎧がボロボロ崩れ落ちてしまう。
「禄、私、怖かった、怖かったよ……」
 私は、布団を自分の顔に押しつけて、声を絞り出す。
 ずっと誰にも言ったことのない弱音が、どんどんこぼれてくる。
「私ね、ほんとは病気より、私が寝ている間に世界が変わってることが怖いの。私が目を覚まさない間も、クラスメイトには毎日いろんなことが起こって、おばあちゃんも体が弱っていって、世界ではありえない事件が起きて、大規模な感染症が流行って、禄に新しい友人ができて……って。私が眠ってる間に通り過ぎた〝今〟に……、世界に置き去りにされて、いつかひとりぼっちになっちゃうんじゃないかって」
 胸の中に押し込めていた恐怖や不安が、一気にあふれ出していく。
 こんな感情、自分の中に本当にあったんだって、自分でも驚くほどに。
「本当は私、大切な人がいる今の世界を生きたい。大切な人が誰もいない未来の世界に残されたって、意味ないなって思うんだよ……っ」
「青花……」
「私が目を覚ましたときに、おばあちゃんやお父さんや禄が死んでしまっていたら、そんな世界、生きてたって意味がないっ……」
 ――誰にも言えなかった。
 言ったらダメだと思っていた。
 だってそれは、生きることを否定することに繋がるから。
 こんな言葉をおばあちゃんが聞いたら、きっと悲しむ。
 こんな本音をお父さんが知ってしまったら、きっと怒る。
 私は今、生きているのではなく、生かされているのだから。
 だから、どこにも弱音を吐けなかった。吐ける訳がなかった。
 耳を澄ますと、未来ある同世代の人たちの、楽しげな声が聞こえてくる。カーテンの隙間から見えた空は目が眩むほど青く澄んでいて、世界は美しいことを知らせてくる。
 それなのに、私はもう明日、強制的に季節をまたがなければならない。
 次に目を開いたときには、文化祭の思い出を語る人なんてきっとどこにもいなくて、すっかり受験の空気になって教室はピリピリしているんだろう。黄金色の景色は色を失って、寒色の世界に変わっている。
禄も、重たそうなコートを羽織って、単語帳を見つめながら、見えない未来への不安を募らせて、白い息を空に向けて吐いたりするんだろう。
 木下たちは、すっかり今日のことなんか忘れて生きているはず。
 私がいてもいなくても、何もなかったみたいに、世界は回っていく。
 ……微かに、救急車の音が聞こえる。
 あの車に乗せられたら、もしかしたら私は、もうこんな風に学校に通うことはできなくなるかもしれない。悲鳴を上げている心臓が、そんな悪い予感まで知らせてくる。
 禄、私は君に、本当に覚えていてもらえるのかな。禄がどんなに大人になっても。
「青花、ひとつ約束してほしいことがある」
 布団の中で声を押し殺して泣いていると、突然空を切り裂くように、禄が声を発した。
 ずっと、私の啜り泣く声だけが聞こえていた保健室だったのに。
 驚いて少しだけ布団から顔を出すと、禄はもう瞳を揺らしたりせずに、真剣な顔をして私をまっすぐ見つめていた。
「万が一俺が死にそうになったとき、もし青花がまだ寝ていたら、ガラス叩き割ってでも起こす。青花の世界が勝手に変わる前に、青花の目を覚ますって約束するよ。いい?」
「はは、何、それ……」
「本気で言ってるよ」
 なんて無茶な言い分。でも嬉しい。
「そんなことをしたら、禄は捕まっちゃう。コールドスリープ中の患者を起こすことは、法に反することだから……」
「捕まったっていいよ」
 一週間しか目を覚ましていられない私を、禄は連れ出してくれると言ってくれたんだろうか。
 こんな会話、守倉先生に聞かれたらものすごく怒られちゃうよ。
 頭がいいはずなのに、禄はめちゃくちゃだな……。
「本当に、世界が変わる前に、起こしてくれる……?」
 かすれた声が、保健室に響く。
私の問いかけに、禄がこくんと頷く。
「……くだよっ……」
 一回目では声にならなくて、私はもう一度伝える。
「約束だよ、禄っ……」
 涙声で伝えると、禄は再び「うん」と力強く頷いて、それから、私の涙を指で拭ってくれた。
 禄に初めて触れられて、これ以上無理をしたらダメなのに心臓がドキッとした。
 約束だよ、禄。
 私の世界が変わりそうなときは、置き去りにされそうなときは、きっと私を起こしに来て。
「鶴咲青花さん、中に入りますよ」
 半開きだったカーテンが開いて、救急隊員の人が二人入って来た。
 禄はスッとうしろに下がり、運ばれていく私を心配そうに見守っている。
 ほんの少しだけ目を細めて、私は力なく手を振った。