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夏休みに入っても私はまだ七星の優しさに狡く甘えていた。
言いたくないことは言わず、でも七星は求めればすぐに来てくれた。彼をいいように扱っている様が母親と被って自分自身がウザくなる。そんな日は七星の優しさをより求めてしまう。
今日も同じだ。
珍しく今日も母は昼から出かけていたが、帰ってくる予感がした午後6時過ぎ、私は家を出て七星を呼んだ。
特に行く当てもなく二人、夏の夜を彷徨っていた。夕暮れというにはまだ明るくて、夏の長い昼を持て余した時間帯。あまり文学的な言葉は知らないが、もしかしたら今が逢魔が時などという仰々しい名前の付いた時間なのかもしれない。
逢魔が時にはまだ星は見えなかった。見えたところで星に詳しくない私には北極星とその近くにある北斗七星くらいしか知らないのだけれど。
そう思ったらふと気づいたことがあった。
「七星の名前って星が由来なの?」
「え、なんで」
唐突に話しかけたからだろうか、七星の返事が少し遅れた。
「北斗七星からとったのかなって」
男子にしては少し珍しい『ななせ』という名前。その由来が北斗七星だというのであれば、詩的でとても素敵だと思った。
しかし、七星は星の見えない空を見上げて違うと言った。
「よく間違われるんだよね。僕もそうならいいと思うんだけど」
少し困ったように笑っていた。七星は一体いくつの笑い方を持っているのだろうか。すべての感情を柔らかくするため彼は効果的に笑顔を使った。
「北斗七星よりよっぽど汚い星が由来の安直な名前だよ。ほらこれ」
七星は携帯でとある画像を差し出した。それは私もよく知るとあるタバコの写真。
「セブンスター。知ってる?」
「うん、まあ」
何を隠そう、母が一番吸うタバコがセブンスターだった。いつでも部屋の中にあった銘柄。タバコを吸うためにベランダに出る母の後ろ姿が幼少期は少し寂しくもあった。
それがなくともタバコなんて毛嫌いしていた。
「親父さんがセブンスター大好きだったんだよ。今でも本数こそ減ったけど、やっぱり吸うときはセブンスターなんだってさ。セブンスターだから七つの星で七星。バカみたいでしょ」
今度は自虐的な笑みを浮かべていた。でも私はそこに楽しそうな七星を見出していた。
自分が家族の話を避けていたからか、七星の家族について初めて聞いた。高校生にして自分の父のことを親父さんと呼ぶ距離感が、七星の家の悪くない家庭事情を表しているようだった。
「そんなこと、ない、と思う。なんて言えばいいかわからないけど、なんかお父さんの愛が詰まってる感じがする」
「確かにドストレートな愛だよね。母さんへのプロポーズも薔薇100本贈ったらしいからね」
その大胆な告白には二人で笑うしかなかった。
父親の愛が新品のタバコみたいにギッシリ詰め込まれた七星という名前にうらやましいと感じた。豪快な愛の名を冠した、繊細で優しい男の子。
北斗七星なんかに負けないほど彼は眩しかった。
「芽衣ちゃんは? なんで芽衣なの」
「私に名前のことで話すことなんて何もないよ。5月生まれだから芽衣。白い犬にシロってつけるくらい何も考えられていない名前」
悩んだとしたら芽衣にするか皐月にするかくらいではないだろうか。私が生まれたのは5月1日の午前4時。もう数時間早く生まれてきていたとしたらどんな名前になったのだろうか。
私の名前にはきっと愛は入っていない。
「安直だね」
七星はそう言って笑ってくれた。馬鹿にするわけではなく、申し訳ないという感情がこもっていたわけでもなかった。バランス感覚に優れた七星だから返せる絶妙な技。
5月になるたび、名前を呼ばれるたびに、私はより母のことが嫌いになっていった。私から名前の話を持ち出したのに、自分の由来を聞かれることは得意ではない。そんなこと予測できただろうに、と自虐的に笑った。
話題を変える。
「七星の家族ってどんな人なの」
さっき彼が父親の話をしたときの、ほのかに楽しそうな表情が脳裏に残っていた私は尋ねてあげた。でもきっと知りたかったのだと思う。七星を形成した人たちがどんな人なのか、七星は普段どんな人たちに囲まれて生活しているのか。
どんな人かって言われると困っちゃうね。と少し時間をかけて七星は一人ずつ説明してくれた。
父親は名前のエピソードで感じた通り、豪快な人物であるらしい。昭和の香りのする頑固な親父さんだけど、やっぱ外で戦ってくれているし僕たちへの愛があってのことだってわかってるからね。と彼は述べた。
母親はとてもおしとやかな人だという。いまだに少女という言葉が似合うような人物で、手袋なんかは手芸で自作してしまう。今でも使っていると言ったから冬になったらそれを恥ずかしそうにつける七星が見られるのかもしれない。話を聞く限り、七星の性格は母親に似たものなのだろう。
姉は私も一度だけ会ったことがある。七星よりも7つ上の姉はもうすでに大学を卒業し、現在看護師として近くの総合病院で働いている。闊達な性格のようで、「宿題やったの?」といういわゆる母の小言は姉から受けていたらしい。
一通り説明してから彼はこんなことを言った。
「ありきたりな家族だと思うよ」
私は眉をひそめた。なら父のいない私はありきたりの範疇に入る資格がないということなのだろうか。
私の怪訝そうな表情に彼は慌てて付け足した。
「家族構成がとかじゃなくてね。なんて言うのかな、家族への愛情と憎しみの比率みたいなものが、かな」
「愛情と、憎しみ……」
「うん。親父さんとも母ちゃんとも姉さんとも僕はそこそこ仲いいとは思ってるけれど、当然好きだけではやっていけないわけでさ。同じ家に住んでいて常に顔を見合わせる状態だとやっぱり嫌な部分も見えてくる。親父さんにこのわからずやって悪態ついたことだって、母ちゃんのご飯を食べなかったことだって、姉さんのおせっかいに舌打ちしたことだってある」
七星のそういった姿は想像がつかなかった。それと同時に彼の素が見れて安心する気持ちもあった。
「好きだけじゃなくて嫌いもある。好きじゃ嫌いは消えないと思うんだ。例えば親父さんのことを100好きだとして、一方で50嫌いだとする。じゃあプラスマイナスで50好きなんだね、とはならないよ。どれだけ100好きでも50嫌いは存在しているんだから。その好きと嫌いとが同居している感じはきっとどこの家族でも一緒なんじゃないかな。いや家族だけじゃなくて、人と人とが付き合うってのはそういうことなのかな」
「ってごめん。何言ってるかわからないよね」
彼は頭をくしゃくしゃと掻いた。
夏の夜に蝉の鳴き声がこだまするのをしばらく聞いていた。
私に100好きだと言える相手はいないと思った。結局私の家族はありきたりに入らないとも思った。けれど、心にスッと入ってくるものがあったことも事実だ。
確か昔、似たようなことを言われたことがあった。