母の病室に訪れたのは前回から1週間たったときだった。その間、元父親が本当に私の家で暮らしてくれていた。と言っても彼は料理ができるわけではなく、今まで通り私が料理を担当したのですればむしろ一人分増えたくらいだ。それでも一緒に住んでいるというだけで社会的な安心感が違うのだろう。そこが私がまだ高校生である何よりの証拠だ。

そして彼はずっと見舞いに行けと言い続けていた。母の過去を知ったときは少なからず衝撃を受けた。ただあれだけの暴言を吐いてすぐに訪れるのは私にだってプライドがある。だからタイミングを待っていただけに過ぎないが、その間常に言い続けてくれたのはありがたかった。私のことだ、いつ気が変わるかわからない。元父親が最後の最後も背中を押してくれたのだ。

1週間ぶりに病室で見た母は痩せていた。テレビも見ずにただ外を見て惚けている様子だった。
「何してんの」
「うわっ、びっくりさせないでよ」
「もうすぐ死ぬって聞いたから」

そう聞いたのはついさっきだった。主治医からこの1週間がヤマだろうと言われた。テレビは見ないのではなくもう見る気力がないのかもしれない。

「死ぬよ。言いつけ通り勝手に死のうと思ってたんだけどね」

2人の間に沈黙が流れる。相部屋ではあったものの、偶然同部屋の人たちは出ているみたいで私たち2人だけの空間になっていた。ただでさえ静かな病院が、私たちの一挙手一投足に注目しているような感覚を覚えた。

「死ぬ間際にさ、人生振り返ってみてどう思う?」
「どう思うって?」
「いい人生だったなって思う?」

今の私がそう聞かれたら当然否定する。しかし母はあいまいに答えた。

「どうだろうね。でももし、人生の価値が終わる瞬間で決まるんだとしたら悪くない人生だったのかなって思うよ。私こう見えても友達多いからさ。お見舞い来てくれた人たくさんいたんだ」
「父親だった人たちのこと?」
「フフッ。そうね、みんないい人たちだったわ。芽衣は好きになってくれなかったけど」

触れられたくない場所を触れられて、少し眉間にしわを寄せる。仕返しとばかりに母の触れられたくないであろう場所に土足であがった。

「おばあちゃんは?」
「来てない。確かにそれだけは後悔してるかもな。最後くらい話して終わりたかったかも」
「今でもおばあちゃんのことは嫌いなの?」
「さては佐くんから何か聞いたね」

ジッと見つめる眼差しを肯定の代わりとした。

「今でも嫌いではあるよ。それに関しては子どものころからの積み重ねだからね。もう今更引き返せないところまで積ってる。でもやっぱり親より先に死ぬなんて親不孝だなって思う。ろくな親孝行もしてないのに一番大きな親不孝をしでかすのは謝りたいかも」
「今からでも呼べばいいのに。東北なら来れない距離じゃないでしょ」
「そうね。でもそれに死ぬ間際に気づくって遅すぎるのよ」

終わるときになってようやく気付く。幾多の名言が、小説が教えてくれたことを母は説得力たっぷりに語った。

「じゃあさ、なんで名前変えようと思わなかったの? 今どき改名なんて簡単でしょ。自分の名前嫌なら変えればよかったのに」
「佐くんそんなことも話したの。体格のわりに口はゆるゆるなのね」
「口元が緩いだと違う意味だよ」

初めてかもしれない。母にこんな軽口を叩いたのは。母は少しだけ笑って、話をもとに戻した。

「そうねえ。正直に言えば本当は嫌じゃなかったんだろうね。母に反抗したくて名前を理由に持ち出していただけなのかも。むしろ淑乃って名前とは違う自分に積極的になろうとしてた。その結果として今これだけの人に恵まれた人格ができたのであれば感謝すべきかもね」
「今までの男、全員淑乃さんって呼んでた」
「そりゃ私、淑乃ですから」
「名字じゃなくて」
「だっていい名前じゃない。呼びたくなる名前」

『淑乃』
心の中で呼んでみると、うん、確かにいい名前かもしれない。母に合う合わないを置いておけば、爽やかな音の響きがかわいらしい。元父親が母に惚れたんだと語ったときの、惚気た顔が脳裏に浮かんだ。

「ねえ、」
「まだ質問続くの? 私病人なんだけど、少し休ませてよ」

実際に疲れているのであろう、ベッドに深く横たわっている母に私は「最後」と無理を言った。
「いいよ」

「なんで私に芽衣って名前つけたの」
「それは凄い覚えてる。たくさん悩んだからね」

悩んだんだ、という驚きが最初に訪れた。誕生日を聞いた瞬間に思いつきそうな芽衣という名前に悩んだのか。

「まず考えたのは『栞』だったかな。本の栞って自分にとっては意味あるけど、ほかの人にとっては何の意味もないでしょ。100頁に栞が挟まっていたとして、自分にとっては大切な目印だけど他の人はそこから読み始めたってストーリーわからないんだから。そんな本の栞みたいに、誰か1人の、たった1人でいいから、大切な存在になってほしいなって意味の『栞』。素敵でしょ」

母は思い出すように語った。空を見上げるようにナナメ上を見ていた母の視線の先には一体なにがあったのだろう。
母は他の案として『美里愛(みりあ)』と『日葵(ひまり)』と『(あおい)』をあげた。どれも女の子っぽい名前で、特にミリオン・ラブに由来する『美里愛』には多大なる愛を感じた。私、愛されていますと大々的にアピールするかのような名前が私には羨ましく思えた。
たっぷり時間をかけて候補の由来を話した後、母は『芽衣』について伝え始めた。斜め上ではなく、しっかりと私のことを見つめて。

「いろいろ考えたんだけどさ、最終的には『芽衣』にしたの。私の願いを込めたくなかったんだよね。こういう人になってほしいとか、たくさん愛されてほしいとか、そんなのって親の勝手でしょ。特に私の場合はさ、周りの反対も押し切ってあなたを産んだわけで言っちゃえば私の勝手で産まれた子なのよ。そんな子の名前に願いとか愛とか込めるなんて私にはできなかった。込めたのは5月生まれっていう事実、ただそれだけ。だからさ、芽衣って名前はあんたが自由に受け取っていいのよ。私はそこに何も入れてない。願いも、愛も、意味も。全部あんた次第。芽衣の人生は芽衣のものだもんあなたは5月生まれの芽衣よ」

私は間違っていなかった。私の名前には愛なんか入っていない。5月生まれというだけの芽衣だった。
でも私は間違っていた。

「ねえ、」
「さっき最後って言ったでしょ」
「私のこと、好きだった?」


「うん。一生愛してるよ」

私はずっと間違っていた。
私は愛されていた。