「わあ、懐かしい。コレまだあったんだ」
リビングに入ってきた男はサーフボードをそっと撫でた。そのサーフボードは男のモノだったのかもしれない。一緒に海に行った記憶はあるけれど、サーフィンをしていたところは見たことがない。私が覚えていないだけかもしれないが。

好きなもの選んでいいよ、と男はアイスをテーブルの上にばらまいた。私は一番好きなミント味のカップアイスを手に取り、男はバニラアイスを選んだ。
黙ってアイスを食べる。

「あの人ならいないよ」

元父親が家に尋ねてくるのは実は初めてではなかった。未練を残すほど母親が魅力的な女性かどうかは置いといて、実際に復縁をせまる元交際相手が家まで来たことが何回かあった。どういう話し合いがもたれたかは知らないが、父親に2度なった人は今までいなかった。
それを知っているからこそ、この人が尋ねてきた理由も同じなのだろうと思った。アイスをもらったせめてものお返しに母が不在であることだけは教えてあげた。
しかし男は意外なことを言った。

「知ってるよ。むしろあの人に呼ばれて来たんだ」
「どういうこと」

男は私の質問には答えず、バニラアイスの最後の一口を食べた。そして、

「いまも淑乃さんのことは嫌い?」

いつかと同じ質問をした。前に海で聞かれたときは適当にごまかしていた。しかし今は自信をもって言える。
「嫌いだね」

嫌いであることに自信を持つというのもおかしな話だが、今なら正直に言える。男をとっかえひっかえしていたなんていう子どもとしての嫌いではない。イヤホンを持ってきてもらったときに「ありがとう」すら言わない。娘の私に伝えるのを忘れていたくせに「ごめんね」も言わない。イヤホンを2種類わざわざ持って行った優しさに気づきもしない。だから私は母親が嫌いなのだ。
けれどそれはすべて私にも言えることだった。ありがとうやごめんが言えない。自分に向けられた優しさに気づくことができない。……七星のぐっと堪えた顔が思い出される。すべて私自身にも言えること。同族嫌悪なのだ。

「正直でいいね」
男はニヤリと笑った。

「じゃあ淑乃さんのお見舞い行ってあげなよ」
「話聞いてた? 嫌いだって言ってんの。それに今日行った。もう話すことなんて何もない」
「それは残念」

意外とあっさりと引き下がった男は少し考えると、もう一度質問した。
「じゃあさ、淑乃さんのことは好き?」

面食らった。今まで嫌いかと聞かれたことはあっても好きかと聞かれたことはなかった。私の態度を見ていれば好きでないことは一目瞭然ではないか。
質問の意図を探るように、けれど正直に答える。

「全く」
「なぜ?」

男は間髪入れずに聞き返した。

「なんでってそりゃ、性にだらしないとかありがとうもごめんねも言えないとか……」
「それは嫌いな理由でしょ。僕が聞いているのは好きではない理由だよ」
「嫌いと好きじゃないは何が違うの?」
「軸が違う。次元が違うともいえるのかな。好きと嫌いが1つのスペクトラム上にあるわけではないと僕は考えている」

話しぶりはさながら大学教授だったが、そこにはわかりやすく伝えようという気概が見られた。

「スペクトラムっていうのは、まあ言ってしまえば道のようなものだと考えてくれればいい。好きっていう道をずっと進んでいけばそのうち嫌いになるというわけではない。好きという道と嫌いという道が2つ存在しているって言えばわかりやすいかな。そう考えると、ここが嫌いだって言ってもそれは嫌いの理由であって、好きではないの理由にならないよね。好きの道に立ってみて、なんで好きじゃないのか考えてみてほしい」

好きの道に立つ……。ずっと向こうには母のことが好きだと言える自分がいて、私はいつの間にか好きの道を後ろ向きに歩いていた。それから私の前に父親と名乗る幾人もの男が立ち塞がり、いつのまにか好きの道を前に進むことができなくなっていた。じゃあその後退を始めた理由って何だろう。
思い出したくないと思っていた幼少期の記憶が駆け巡る。アヒルの雛のように、ただ生まれたときに近くにいたからというだけで母について回っていた時代。母を追うことをやめた理由を私ははっきりと口にできた。

「愛されなかったから」

学校に来なかった母、隣で寝てくれなかった母、芽衣という名前を付けた母。私の知る母はどれも娘を愛していなかった。
私の答えに、男は満足そうに頷いた。正解だとでも言うように。
「少し昔話でもしようか」

男は一つ一つ思い出すように語っていった。

東北のごく田舎のほうに母親とそりの合わない少女がいた。
特に自分の名前が嫌いだったそうだ。自分とはまるでかけ離れた名前。そんな名前を付けた母親に反発して彼女は若くして上京した。当然、行く当てもお金もなく彼女は体を売るようになった。と言ってもそういったお店に勤めたわけではなく、バーで一緒になった男性に体を貸すから一晩泊めてくれと交渉していたという。若い女性が東京で一人生き延びるには術がそれしかないと彼女は思い込んでしまったらしい。
しかしその名前に似合わず快活でフレンドリーだった彼女は瞬く間に交流を広げていった。あるとき妊娠が発覚する。避妊については十分気を付けていたが、やはり100%とはいかない。交流を通じて親しくなった人たちはこぞって中絶を勧めた。誰が父親かわからないような子を産んでも大変だぞと。しかし彼女は譲らなかった。これは私の子だから、私が育てるから。周りの心配を押し切って子どもを産んだが、現実問題、父親が必要とされる場面など山ほどあった。親しい人を頼りながら、ときには父親代わりとなってくれる新しい男と交際しながら彼女は子育てに奔走していた。
あるとき、一人の男と出会う。(元父親はこの男のことをボクと呼んだ。)子どもが最も懐いた男だった。だからこそ彼女は男と一生共にすることを望んだが、男にも夢があった。プロのサーファーになる夢がすぐそこまで来ていたのだ。結局2人はオーストラリアからのプロオファーを機に別れた。

それから少し時間が飛んだ。その間、彼女は相変わらず子育てと父親探しに奔走していたそうだが、詳細は知れない。事態が変わったのは彼女に病気が発覚してからだ。若いころから無茶をしてきた体が悲鳴を上げた。
そこで彼女は娘が最も懐いていたサーファーの男にどうにかしてコンタクトを取った。怪我の影響でサーフィンをやめ日本に戻っていた男は、企業に勤めていたので昼間は時間がない。彼女は毎日男が会社から出てくるところに待ち伏せして、一晩中交渉した。

私が死んだあと、娘の面倒を見てやってくれないか。何日も何日も男に頼み込んだ。あの娘を1人にできないから、と。

「そんな彼女を見てボクは思い出したよ。誰かのことを懸命に愛しているその姿に昔のボクは惚れたんだとね」

納得できるわけない。

「納得できないかい? じゃあそれを確かめに行ってきなよ。アイスも奢ってあげたことだし」

元父親は確かにオーストラリアに似つかわしく、キラリとほほ笑んだ。

「最後に一つだけ教えておくと、でも芽衣ちゃんもきっと知ってるかな。淑乃さんはものすごく不器用なんだ」

さっきまでダラダラと流れていた汗が気づいたらひいていた。それはアイスのおかげか、冷房が効いているからか、それとももうすぐに夏が終わるからか。