ジャイアントラットに警戒しつつ、しばらく茂みをかき分けて走っていると、少し開けた場所に出た。

 何本か木が倒れているせいで鬱蒼とした森にポッカリと穴が開いていて、そこだけに陽の光が差し込んでいる。

 その倒木の傍に誰かが立っているのが見えた。

 白いフード付きのコートとスカートを着た、銀色のショートヘアの少女。年齢は今の俺と同じくらいだろうか。

 背は小さく、とても可愛らしい顔立ちをしているが、顔面は蒼白で周囲を威嚇するように両手で持った杖をブンブンと振り回している。

 聖職者と言われれば納得する姿だが、森の中にいるので違和感が半端ない。

「こ、こ、こ、来ないでっ!」

 俺の姿にまるで気づいていない少女が、一心不乱に杖を振り回す。

 一体何に怯えているのか不思議に思ったが、その答えはすぐにわかった。彼女から少し離れた場所に大きな熊がいたのだ。

 大きさは少女よりもひと回りは大きく、黒い毛に覆われていて目がひとつしかない。

 どこかで見た覚えがあるなと思ったら、あの門前払いを食らったギルドに飾られていた熊だ。

 なるほど、これが「ひとつ目熊」か。

「……って、そんな悠長なことを言ってる場合じゃないだろ」

 熊は二本足で立ち上がり、両手を広げて威嚇をしながらジリジリと少女に詰め寄ってきている。今にも飛びかかりそうな雰囲気だ。

 これは非常にマズい。

「おい! すぐに倒木の上に上がれっ!」

 俺はそう叫ぶと、少女に向かって走った。

「……ッ!?」

 少女がギョッとした顔で俺を見る。

 それに釣られるように、彼女に襲いかかろうとしている熊もこちらを見た。

「ガウゥッ!」

 熊が大きく吠えた。

 その恐ろしい鳴き声を聞いた瞬間、恐怖で足が止まってしまった。

 そして、俺は改めて冷静に状況を把握する。

 ちょっと待て。

 チート魔剣があるからって勢いで助けに入ってしまったけど……これって、俺もピンチなんじゃないか?

 戦闘経験もろくにない俺が、あんなヤバい魔物に勝てるのか?

「ああ、クソッ! ビビんなよ俺! ここまできたら、やるしかねぇだろ!」

 熊は標的をこっちに変えたみたいだし、もう逃げられそうにもない。

 やらなきゃ、やられる。

 俺は空中を摘む動作をしてステータスを表示させ、魔剣の形状をナイフからショートソードに変化させる。

 手の中にある魔剣が脈打ち、刀身が伸びる。

 その瞬間、熊が両手を広げて飛びかかってきた。

 改めて近くで見ると相当デカい。それに、目がひとつしかないので見た目もメチャクチャ怖い。

「……ヒッ!」

 ビビってしまった俺は、咄嗟に魔剣を横に薙ぎ払った。

 いや、「薙ぎ払った」という表現だと何だかかっこいいけど、完全に腰が引けた「こっち来るなバカ!」的なやつだ。

 つまり、先ほど少女がやっていたような威嚇行動に近いもので、相手に傷を負わせるような力はない。

 はずだったのだが──。

「う、おっ!?」

 予想外のことが起きた。

 急に魔剣の重さがなくなったのだ。そのせいで、軽く振ったつもりが凄まじい速さで熊を斬りつけてしまった。

 勢い余って地面に突き刺さる俺の魔剣。

「ギャウッ!?」

 悲鳴とともに熊の胸元から鮮血がほとばしった。

 全く力が入っていないはずなのに、深手を負わせることができたらしい。

 もしかして、これが攻撃速度アップの恩恵?

「……グアァァッ!」

 熊が雄叫びを上げた。

 ラッキーアタックで怯ませることができたが、どうやら熊さんの逆鱗に触れてしまったらしい。

 これは完全にヤブヘビだったか。

 ここは一旦離れて態勢を立て直すべきかもしれない。

「……え? あれっ?」

 だが、俺はその場を動くことができなかった。地面に刺さった魔剣が抜けなかったからだ。

 よく見ると剣の半分くらいまで地面に刺さっている。

 これは冗談抜きにヤバいぞ。

 ここがチャンスと言わんばかりに、熱り立った熊が俺に向かって再び飛びかかってくる。

「あ、おま、ちょっと待──っ!?」

 焦った俺は魔剣の柄を両手で握りしめ、力いっぱいに引き抜く。

 その瞬間──またしても魔剣から重さがなくなった。

 凄まじい勢いで地面から抜けた魔剣は、襲いかかってきた熊の胴体を両断する。

「……ッ!?」

 熊の動きがピタリと止まった。

 わずかな静寂ののち、熊の上半身がずるりと切り離されて地面に落ちた。

 残された下半身もその場にドサリと倒れる。

「…………」

 俺の頭の中にクエスチョンマークが大量発生してしまった。

 一体何なんだこの剣は。

 いきなり軽くなるし、軽く振っただけで熊を一刀両断できるし。

「ん?」

 魔剣の威力にビビっていると、倒木の上でぺたんとへたり込み、まん丸く目を見開いている少女と視線が交差した。

 俺は慌てて彼女の元に駆け寄る。

「あ、あの、大丈夫?」

 とりあえず声をかけてみたが、あっけに取られている少女は何も返してこない。

「……はっ!?」

 少女はしばらくぱちぱちと瞬きを繰り返し、ようやく我に返る。

「あっ、あっ、あっ、ありがとうございま……ひゃっ!?」

 立ち上がろうとした少女はバランスを崩してしまい、倒木から滑り落ちた。

 お尻から落ちたので、何ていうか……スカートがめくり上がってパンツがもろに見えてしまった。

 うん。綺麗な白。

 少女は耳先まで真っ赤にして、慌てて立ち上がる。

「お、お、お、お見苦しいものをお見せして、すす、すみません……」
「あ、いえいえ。何ていうか、助けてよかったなって思いました」
「……えっ?」
「あ、いや、何でもないッス」

 ついサムズアップしてしまった。

 年端もいかない少女のパンツを見て喜ぶ32歳って、色々終わっている気がする。見た目が17歳で助かった。

『魔剣オソロが進化しました』

 と、そんなどうでもいいことを考えていた俺の耳に、例のアナウンスが飛び込んできた。

 どうやらあの熊を倒して、また魔剣が進化したらしい。

 しかし、見た目に変化はない。

 とすると、ステータスが変わっているのか?


 魔剣オソロ
 レベル:8
 攻撃力:280
 スキルスロット1:リデュースアタック
 形状:ショートソード
 契約者:ギーゼラ


 おお、レベルが上がってさらに攻撃力も高くなってる。

 ついでに、何かスキルは覚えていないだろうか。


 スキル候補:物理攻撃力アップ(物理攻撃力に150%のボーナス トロルより取得)


 やっぱり覚えていた。あのひとつ目熊はトロルっていう名前なのか。

 しかし、習得したスキルの物理攻撃力に150%ボーナスってヤバくないか?

 早速、設定してみる。


 魔剣オソロ
 レベル:8
 攻撃力:280(+140)
 スキルスロット1:物理攻撃力アップ
 形状:ショートソード
 契約者:ギーゼラ


「…………」

 280プラス140で420。

 前の攻撃力が180だったから倍以上になった。

 さらに凶悪になってしまいましたけど、大丈夫ですかねこれ。

「あ、あの……」

 自分の武器に呆れてしまっていると、少女が恐る恐る声をかけてきた。

「ありがとうございます。その……助けていただいて」
「あ、いやいや、たまたま通りかかっただけだから、気にしないで」
「え……? 通りかかった?」

 なぜかキョトンとする少女。

「お父様からの依頼ではないのですか?」
「え? ああ、うん、違うけど?」

 というか、お父様の依頼って何だ?

「す、すみません、わたし、てっきりお父様が雇われた冒険者の方だと」
「冒険者なのは間違いないけど、配達の依頼でラスティ村ってとこに行く途中なんだ」
「そうだったのですね……」

 そう言って少女はモジモジと身をくねらせる。

「あ、あの、大変申し上げにくいのですが、今、手持ちがなくて……」
「……え? 手持ち?」
「で、でも、助けていただいたお礼のお金は、後ほど必ずお渡ししますので!」
「か、金!?」

 どうやらこの子は、俺が金目当てで助けたと思っているらしい。

 俺は慌ててかぶりを振る。

「いやいやいや、そんなの、いらないから!」
「で、でも」
「マジで気にしないでくれ。金が欲しくて助けたわけじゃないし」
「そ、そうなんですか?」
「何ていうか、俺って考えるよりも先に行動しちゃうタイプでさ。昔から見て見ぬふりができないっていうか……つい、首を突っ込んじゃうんだ」

 俺は学生時代からそうだった。

 褒められるのは苦手だったけど、困ってる人を放っておけなくて損得勘定ナシで手を貸したりしていた。

 なので友人からは「自ら貧乏くじ引きに行ってるお人好しのバカ」だなんていじられてたっけ。

 確かに他人ばっかり助けるせいで遊ぶ時間がなくなったり、テスト勉強する時間がなくなったりしてたけど……そういう性格なんだから仕方がない。

「だから、お礼なんていらないよ」
「で、で、でしたら、お名前を教えていただけませんか?」
「え? 名前?」
「は、はい。せめて命の恩人のお名前だけでも知りたくて……」

 恥ずかしそうにうつむく少女。

 命の恩人だなんて。何だか照れる。

「俺は廣田……じゃなくて、ヒロタカだ」
「ヒロタカ様、ですね。わたしはリゼと申します」

 リゼはスカートの端をつまむと、うやうやしくお辞儀をする。

 少しふんわりとした雰囲気だけど気品を感じる。文句なしに可愛いんですけど、もしかして名家の出身だったりするのだろうか。

「リゼはこんなところで何をやってたんだ?」
「実は、ギルドの依頼でジャイアントラットの駆除に」
「ギルドの依頼? ひとりで?」
「は、はい。護衛の者が同行すると申し出てくれたのですが、ネズミの駆除と聞いていたのでひとりでもできるかなと思って。でも、まさかトロルが現れるなんて思いもしませんでした」

 その言い方だと、トロルはあまり遭遇しない珍しい魔物なのだろうか。

 リゼがトロルの死骸を見て続ける。

「で、でもすごいです。まさか、あのトロルを一瞬で倒すなんて」
「トロルってそんなヤバい魔物だったの?」
「はい。トロルの討伐依頼もたまに見かけるのですが、受注ランクはDからだったはずです」
「マ、マジで?」

 今更、恐怖で身震いをしてしまった。

 今の俺のランクがEだから、ひとつ上のランクだ。てことは、かなり危険なやつだったわけか。こっちが体を真っ二つにされてもおかしくなかった。

 しかし、リゼも相当ヤバい状況だったんじゃないだろうか。

 ギルドから依頼を受けているってことは冒険者なんだろうけど、いまいち冒険者っぽくない。教会で教えを説いている司祭みたいな雰囲気だ。

「リゼも冒険者……なんだよね?」
「は、はい。神聖系の魔術特性を持っている『クレリック』です」
「神聖系?」
「博愛の聖母シャクラ様の御力によって、傷を治癒したり邪悪なものを浄化したりすることができる魔術系統です。まだ勉強中ですけれど」

 えへへ、と笑うリゼ。うん、可愛い。

 話している内容はあまり理解できなかったけど、なんだかすごい魔術師のような気がする。でも、単独で戦うには不向きな魔術師って感じなのかな。

「あ、あの……その武器、何だかすごいですね」

 リゼが俺が持っている魔剣オソロをじっと見ていた。

「あ、これ? 魔剣オソロって言うらしいんだけど」
「ま、魔剣!?」

 ギョッと目を丸くするリゼ。

「知ってるのか?」
「はい。わたしに魔術を教えてくださっている先生が話してくれたことがあります。確か、森羅万象あらゆる物を斬ることができる魔剣が『レギオン』という名前だとか……」
「魔剣レギオン」

 同じ魔剣だけど、俺が回収した魔剣とは名前が違うな。

 ということは、この世界には何本か魔剣があるのだろうか。

 何でも斬れる魔剣と、斬った相手の能力を回収する魔剣。魔剣にはそういう特殊能力があるのかもしれないな。

「リゼ様っ!」

 そんなことを考えていた俺の耳に、慌てたような男の声が飛び込んできた。

 俺がやってきた街道のほうから、幾人かの男たちがこちらに走ってきているのが見えた。

 全員が赤いチュニックを着て、その上から胸部を保護する鎧を身にまとっている。騎士というわけではなさそうだけど、傭兵か何かだろうか。

「……ッ!?」

 先頭を走っていた髭面の男が俺の姿に気づき、腰に下げていた剣を抜いた。

「小僧、何者だっ!?」
「え?」
「今すぐリゼ様の傍から離れろ!」

 あとからやってきた男たちも次々と剣を抜いた。

 何だかよくわからないが、この男たちはリゼの知り合いっぽい。もしかして、俺を盗賊か何かと勘違いしたのだろうか。

 これは一刻も早く弁明したほうがいいかもしれない。

 だが、俺が説明する前に、リゼが彼らの前に飛び出した。

「ま、待ってください! この方はわたしを助けてくれた恩人です!」
「……恩、人?」
「そうです。トロルに襲われていたわたしを助けてくれたんです」

 リゼが地面に転がっているトロルの死骸を指差した。

 ヒゲ男は真っ二つになっている魔物を見ると、すぐさま顔を青ざめさせて平伏しそうな勢いで頭を下げた。

「も、申し訳ありませんっ! お嬢様の恩人とは知らず、大変失礼なことを!」
「あ、いえいえ。勘違いされても仕方がないですからね」

 こんなオヤジが年端もいかない女の子と一緒にいたら、怪しまれて当然だろう……と思ったけど、今の俺の姿は17歳だった。

 ああ、なるほど。だから怪しまれずにすんなり信じてくれたのか。

 以前、廃品回収会社で働いていたときに似たような勘違いをされたけど、「紛らわしいことをするな」と理不尽に逆ギレされたっけ。

 若いって素晴らしいな。

 というか、そんなことよりもだ。

「あの、お嬢様って?」

 ヒゲ男にそっと尋ねた。

 今、リゼのことを「お嬢様」って呼んでいたような。

「お気づきにならなくて当然です。お嬢様はこのような装いで人前に出られることなど、まずありませんから」

 そうしてヒゲ男が、ため息交じりで言う。

「その御方はカブルートの領主ベイル・モンターニュ様のご令嬢であらせられる、リゼ・モンターニュ様です」

 しん、と静まり返った森の中に野太いヒゲ男の声が響く。

 へぇそうなんだと軽く流しかけて、ギョッとしてリゼを見る。

 俺の視線に気づいたリゼが、恥ずかしそうにうつむいた。

「……マジですか?」

 びっくりしすぎて、軽く声が裏返ってしまった。

 どこか品があるなぁとは思っていたけれど……まさか正真正銘、領主様のご令嬢であらせられたとは。